25.第2章(黄金の国)---別離
25.第2章(黄金の国)−−−別離
彦太郎はずっと昔にそれと似たような感情を味わった記憶がある。盆踊りのときだった。踊りの輪に加わった母や叔母を傍で見ているうちに、二人を見失ってしまった。
最初は輪が回ってくるたび、母たちが手を振ってくれていたが、踊りに熱中しだしたのだろう、やがて分からなくなった。
輪は幾度となく回ったはずなのに、母たちは少しも現れない。薄暗がりのなか、年に一度の浴衣で着飾った村人たちは余所者に見える。どんどんと打ち鳴らす太鼓の音が彦太郎の不安な気持を掻き立てる。
彦太郎はいたたまれなくなり踊りの輪の中に駆け込んだ。母を呼びながら夢中で行きつ戻りつした。そして、あたりかまわず大人たちの顔を覗き込んだ。幸い騒ぎに気付いた母たちが見つけてくれてやっと安堵した。泣き出す寸前だった。
トーマスの誘いに乗ることは、栄力丸の仲間たちと別れることを意味する。そうなると自分ひとりだ。頼る者は誰もいない。きっと大変な心細さにちがいない。盆踊りのときとは比べようがないほど激しいだろう。
トーマスは彦太郎一人では心配だったので、亀蔵、伝吉、仙太郎の三人の若い連中にも事前に声をかけていた。若ければ祖国に対する思いは、そう強くないだろうとトーマスは考えた。亀蔵と伝吉はともに二十三歳、仙太郎は十九歳だった。
亀蔵は同意したが、伝吉と仙太郎は残ると言った。亀蔵はオークランド号における食事のテーブルで、彦太郎に次いで早くスープの肉片を口にし、またシスコ到着後、彦太郎より先に町見物に参加した、それほどの好奇心の強い男。
トーマスの片言の日本語でもたちまち通じた。そして返事をするのに躊躇はなかった。
他方、伝吉と仙太郎は人一倍無口で慎重な性格。意味が通じても腕組みをして苦笑いしたり、首を傾げたりするばかり。結局最後までウンとは言わなかった。
「亀サンも行く、彦ドン一人じゃない。だから、心配ない」
トーマスはためらう彦太郎を促した。
「せっかくの誘いじゃ、ワシはトーマスについて行くぞ。水主も分のエエ仕事じゃが、何せ命がけ。それに無事に帰れたとして、咎人じゃ。二度と船には乗れねぇかも知れねぇ。ワシはアメリカで一旗上げるぞ」
いつの間にやってきたのか亀蔵が彦太郎の背後に立っていた。
彦太郎はトーマスが根回ししていたことが少し意外だったが、それ以上に亀蔵が渡米にすっかり乗り気であることに驚いた。しかし、スープの肉切れに飛びついたとき、そしてシスコ見物に名乗り出たときの彼の思いっきりのよさを思えば納得できた。
仙太郎を除けば、亀蔵は年齢的には彦太郎に一番近い。しかし今や彦太郎と亀蔵の間には年の差以上に大きな開きがあるように思われた。亀蔵がすっかり大人に見えた。
力松の言葉が浮かんだ。
日本は商船に向かってでも発砲するぐらいだから、軍艦のサスケハナ号は当然砲撃されるだろう。香港に出入りの商船は多いから、適当なのが見つかれば口をきいてやる。命がけで帰国しても罪人扱いされるだけだ。
それよりいっそのこと香港に定住してはどうか。開き直れば異国の地もいいものである。漂流仲間の船頭の庄蔵もここに住み着いている。もっとも今はカリフォルニアに出稼ぎに行っていて留守であるが。
忘れかけた怪しい日本語を手繰るように訥々と話すのだが、イギリス国籍を取得し、外国人女性を妻帯する力松の言葉は実に事もなげだった。
力松と庄蔵、祖国を捨て異国に逞しく生きる先達が少なくとも二人ここにいる。その一人力松は異国人の妻と所帯をもち子供も三人もうけている。そして現地在住英国人宣教師の経営する新聞社で働いている。
今や彼にとって香港こそが祖国なのだ。故郷日本を捨てる決意に比べれば、一時的に帰国を延期するのは何程のこともない。それに自分は力松の半分の年齢であり一人身である。実の母は亡くなった。自分の身を縛る係累は誰もいない。
「オーケー。彦ドン、一緒ニアメリカ行ク。エンゲレッシュ一生懸命習ッテ、日本ノ国ノ役ニ立ツ」
彦太郎はトーマスの手をかたく握った。
仲間たちに再渡米の計画を打ち明けたとき、議論が二つに割れた。一方は帰国が遅くなっても最後まで栄力丸乗組員としてともに行動すべきだと主張した。
他方は、いつ現れるか分からないペリーを腕組みして待つよりも、別々に分かれたほうが、いずれかが帰国できる割合が倍になる。そうすれば先に帰ったものが、残りの者の消息を故郷の縁者に伝えることができる。こう言い張った。
話が後者にまとまったとき、彦太郎と同郷の次作が自分も渡米組みに加えてくれと言い出した。
トーマスは渋い顔をした。サンフランシスコまでの船賃は一人50ドル。次作を入れると200ドルである。月給12ドルの彼にとってはこれは大金である。トーマスはしばらくの間思案していたが、やがて了承した。
すると残りの十三人も一緒に行きたいと言い出した。しかし、400ドルがトーマスの支払えるぎりぎりの金額であった。
サスケハナ号としても厄介者の数が減ってくれるのは有難い。艦長のオーリックは快く四人の解放を認めてくれた。
彦太郎たちがサスケハナ号を降りるとき、居残り組みが懸命に引き止めた。そして無駄だと分かると今度は、再び一緒に行きたいと言い始めた。しかし艦長の決定はすでに下されている。変更は許されない。日本人漂流民はここに二手に別れることになった。
仲間たちと別れるのは辛かった。恐ろしい嵐の中ともに格闘し、当て所ない漂流中は互いに励ましあった。上陸してからは異国の風俗習慣に皆して戸惑い、船頭の万蔵が死んだときは悲しみを分け合った。彦太郎は栄力丸仲間たちと過ごした波乱の二年余りを振り返った。
「アメリカへ行っても、達者でな!」
「先に帰ったら、ワシらのこと頼むぞ!」
仲間たちは地上の彦太郎たちに向かって手を振り叫んだ。
亀蔵と治作は「お前ぇらもなあ!」とか「よおし、分かった分かった!」などと手を上げて答えていたが、彦太郎は胸が塞がり言葉が返せなかった。手を振ることしかできなかった。
彦太郎たち四人はマカオで一泊した後、香港島に渡った。そして当地の安宿でカリフォルニア行きの船を待つことにした。ホテルの主人はアメリカ人で、トーマスの説明を聞くと彦太郎たちに大変同情し親切に扱ってくれた。
一週間ほどして、サラフーパー号というイギリスの商船が見つかった。400トンほどの老朽船だった。
船賃一人50ドルの高額を支払ったにもかかわらず、与えられた部屋は最下等のむさ苦しい部屋だった。サラフーパー号は極めて船足遅く、太平洋を横断するのに50日以上を要した。10月の初めに香港を出帆し、サフランシスコに着いたのは1852年12月の初めだった。
つづく