23.第2章(黄金の国)---死別
23.第2章(黄金の国)−−−死別
重大な人生の岐路が太平洋の向こうで待っていることなど知る由のない彦太郎。彼の頭をよぎるのは、帰国後に咎人扱いされることの不安だった。彦太郎はアメリカ政府から日本に送り返されることを告げられるまでは、英語を学ぶのが面白くて、先のことはあまり考えなかった。
しかしいよいよ送還船に乗せられ出帆してみると、心配が急に頭をもたげてきた。髷を落とし、洋服をまとい、異国の言葉まで覚えた…栄力丸乗組員たちの中で最年少とはいえ厳罰は避けられそうにない。
希望がなくはなかった。それはオークランド号のジェニングス船長、ポーク号のハンター艦長そして日本通のトーマス・トロイたちの励ましの言葉だった。
それは、日本にはまもなく親西欧政府が誕生するから、漂流民に対する咎人扱いはなくなり、異国の事情に通じたものは逆に優遇される。ヒコは日本ではただ一人のアメリカ通の人材として抜てきされるというものだった。
三人は事あるごとに彦太郎に説いて聞かせた。言を尽くした彼らの言葉からは情熱がひしひしと感じられた。黒船、ギヤマンの鏡、遠眼鏡、「人物活写箱」など欧米の奇跡をつぶさに見た彦太郎には三人の言葉は説得力があった。
セントメリー号が寄港地サンドイッチ島(ハワイ・オアフ島)に到着したのは1852(嘉永五)年4月3日、シスコを出て丁度20目の朝であった。ヒロ湾への投錨を待つようにして万蔵が死んだ。
当時、ハワイ諸島は、1778年、初めて訪れたイギリス人キャプテン・クックが、島に彼のスポンサーである伯爵の名前をつけて以来サンドイッチ島と呼ばれていた。
万蔵は前年の五月、ポーク号にいるころに病にかかり、軍医などの手当を受けていた。歩けないほど弱っていたため、船を移るときは椅子に掛けさせたまま縄で縛り、伝馬船につりおろし、そして再び引き上げた。
最初はシャクリによる苦しみ程度であったものが10月頃から重い胸のつかえとかわり、食べ物を寄せ付けなくなった。無理を承知で喉をとおすとたちまち吐いた。医師が水薬などを与えたが効果はなかった。
シスコ出帆後は船の揺れが加わり、万蔵の病状は日に日に悪化した。ほとんど一日中眼を閉じて横たわっていた。息を引き取る数日前からはスープも口に含めなくなった。時折薄い眼を開いたとき、スプーンですくった水を口もとに持っていってやると、弱々しく口を開けた。
彦太郎は来るものがきたと思った。しかし骨と皮だけになった万蔵の死に顔を見ると今更ながらに胸がつまった。この辛さは母が死去したとき依頼のことだった。
髷を落とし、洋服を着て異国の言葉を学ぼうとする自分への万蔵の心痛を考えたとき、彦太郎は万蔵の死には自分にも責任があると思った。万蔵の死が近づいた時分から、彦太郎は誰よりも長い間万蔵の枕許に詰めた。
彦太郎は万蔵の顔を見ながら、彼に初めて会ったときのことを思い出すのだった。義父吉佐衛門、義兄宇之松らとともに住吉丸で江戸への途上、凪で停泊中のところに義父の友人万蔵が栄力丸で入港してきた。
万蔵は、船足など新造船である栄力丸の威力がいかにすぐれているかを彦太郎に見せたくて、嫌がる義父を説得して栄力丸に自分を乗せた。幼いころより自分は浜辺にすわり、瀬戸の海を行き来する船を見て育った。新しい船には憧れた。
江戸からの帰り、相模の海から遠く望んだ富士の姿は美しかった。山頂は未だ雪は頂いていなかったが、万蔵の説明に冠雪の富士の峰を描くことができた。真冬には彦太郎の住む播磨の地でもよく雪が降った。
そして辺りに積雪はなくとも、広い播磨野のはるか北方を見やれば、遠く低く横たわる山々の山頂が雪で覆われていることがよくあった。紺碧の相模の海の向こうに、純白の冠雪の富士の峰を是非見てみたいと思った。
一時は諦めかけた秀麗な富士の姿が再び見られるかもしれない。しかしそれまでには超えなければならない高い障害があった。自分は咎人。漂流民として裁かれなければならない。彦太郎の思いの行き着くところはいつもひとつ。自らの行く末だった。
艦長のジョーンズは日本式の弔いを許可してくれた。万蔵は髷を落とされ、月代と顔を剃られたあと、湯灌を施され、白布でこしらえた経かたびらを着せられた。棺桶は艦艇付きの大工が作ってくれた。
棺で万蔵を上陸させた日はすこぶる上天気で、港内は鏡のように滑らかだった。島民が見守る中、万蔵の遺体はヒロでは一番古いカトリック教会の共同墓地に運ばれた。セントメリー号の士官二名と現地役人二名が立ち合った。墓穴を掘るときは島民たちが手伝ってくれた。
幅四寸(13cm)ほどの厚板製の墓標中央には、「南無阿弥陀仏日本万蔵」との墓碑銘が、そして左右には年号と月日が達筆の喜代蔵によって記された。また裏面には同行してくれた若い士官により英語で碑文がきざまれた。
HERE RESTS IN HONORED GLORY A JAPANESE CAPTAIN MANZO,KNOWN BUT TO GOD
神のみに知られたる日本人船長万蔵、栄誉に包まれてここに眠る。
彦太郎は仲間と一緒に墓標にむかって手を合わせた。そして、乗組員たち全員の祖国帰還を見届けられなかった船頭万蔵の無念さを思った。
帰り道、気持に一区切りをつけた彦太郎はヒロの町を観察した。人々は上半身裸で色が浅黒く、一見怖そうに見えたが、性質は穏やかで親切だった。墓地で万蔵の墓穴を掘るのを手伝ってくれたことからも明らかだった。
1778年イギリスのキャプテン・クックが近くの島の住民に殺されたというが、そういう生々しい事件が起きたことが信じられなかった。彼らは小屋のような木造の小さな家に住んでいた。
土地は極めて肥えているようで、見慣れぬ果実のたわわに実った木々が至る所に見られた。また海には魚介類が豊富なのか、小さな漁船が多数沿海を行き来し、海岸では獲物を荷揚げする船が何艘も見られた。
一週間ほどのハワイ停泊後、再び香港に向け出帆したセントメリー号は40日余りの航海の後、5月22日に目的地・香港に到着した。
ここで初めて彦太郎たちは、落ち合う予定のペリー艦隊が、政府内部での意見調整などで準備に手間どり、まだ本国さえ出立していないことを告げられる。
ペリー艦隊の順路は南米のリオデジャネイロまで南下してから大西洋を横断し、アフリカ南端をまわったあと、インド洋を横切り、モルッカ海峡を経て香港に至るコースである。順調な航海でも四ヶ月半はかかる行程である。
セントメリー号は彦太郎たちを送り届けるとすぐ、次の任務に向け出帆することになった。米水兵がフィージー群島で現地人に殺害されたため、その事件解決の訓令を受けたのである。
彦太郎たちはペリーが現れるまでということで軍艦サスケハナ号に移動させられた。本国に向かうセントメリー号がサスケハナ号の傍を通るとき、彦太郎たちはセントメリー号に向かって万歳を三唱し、彼らの壮途を祝った。
セントメリー号の兵員たちも甲板に立ち、手を振って彦太郎たちに応えた。
つづく