22.第2章(黄金の国)---巨大な力
22.第2章(黄金の国)−−−巨大な力
栄力丸漂流民たちはもっと早くアメリカを出発するはずだった。遅れたのはアメリカ政府部内における対日交渉責任者決定の不手際と、遣日使節派遣艦隊の内紛のためである。
セント・メリー号がサンフランシスコに入港する少し前、彦太郎たちはポーク号のハンター艦長から、自分たちが対日外交上の使命を帯びていることを公式に知らされていた。
そして同時に、出発が大幅に遅れていることも告げられた。しかし、遅れの理由までは教えられなかった。艦長のハンターさえ知らされていないというのが真相のようだった。何千キロ彼方のワシントンで行われている政治は彼にも詳しくは分からなかったのだろう。
栄力丸から救助された彦太郎たちが、まだオークランド号でサンフランシスコに向かっている頃、東インド艦隊司令官のグリン海軍中佐がその任務を終え帰米した。彼は捕鯨操業中に遭難し保護されたアメリカ人船員を、長崎奉行から受け取るため派遣されていた。
帰国後、彼は良港の多いこと石炭の豊富なことをあげて、日本との通商条約締結の重要性を政府部内に説いて回った。またグリンは自身が任命されることを希望して、直接交渉に当たるのは外交手腕のある海軍将校が望ましいとフィルモア大統領に建議した。
しかし政府は中佐のグリンでは地位が低いとして、海軍代将ジョン・オーリックを東インド艦隊司令長官に補し、対日直接外交に当たらせることにした。
1851(嘉永四)年6月8日、オーリックは大統領からの徳川将軍宛の親書をたずさえ、フリゲート艦(偵察・警戒・護衛)サスケハナ号、コルベット艦(対戦・護衛・哨戒:前者より小型)プリマスとサラトガの三艦を率いて任地に向け発った。
彦太郎たちがセントメリー号でマカオを指してサンフランシスコを発つ九ヶ月も前のことである。親書の内容は遭難アメリカ船員の保護、自由貿易、汽船のための石炭貯蔵所の提供の三項目であった。
アメリカ政府は今回の遠征を、1846年にジェームス・ビッドルが浦賀でおこなった通商打診(彦太郎の義父・吉佐衛門目撃)の第二段階としてとらえていたため大艦隊の派遣は考えなかった。
とはいえ、サスケハナ号は1850年に就航したばかりの新鋭汽走軍艦で排水量2450t。全長257ft(78m)の船体の両側には直径31ft(9・4m)の水車状外輪をそなえている。乗員は300名を擁した。
極東海域に出動するアメリカ最初の汽走軍艦であるこのサスケハナ号には、通商打診のほかにもう一つ任務が与えられている。栄力丸漂流民十七名を本国に送り届けることだ。
彼らの送還が交渉材料に使うためであった。東回りのサスケハナ号が、西回りの太平洋航路でやってきた彦太郎たちを香港で受け取る手はずなのだった。
海軍代将ジョン・オーリックはこの名誉ある使命を生来の癇癪のため棒に振る。艦隊内の職権をめぐる艦長インマン大佐との対立と、リオ・デ・ジャネイロまで同乗したブラジルの外交官に対する失態が本国政府に伝わり、11月18日付で職を解かれた。
ところが無線通信(1895年マルコーニ実験成功)など電信手段の発明されていない時代である。オーリックが解任の公文書を彼が受け取るのは、その後彼がリオを出発し、52年の初め香港に到着してからのことになる。
ジョン・オーリックに代わって、東インド艦隊司令官と対日交渉全権に補されたのが海軍代将マッシュウ・ペリーである。ペリーは司令官就任の条件として、艦隊勢力の増強とその行動区域の拡大を要求した。
彼は軍事力で日本開国を迫ることを考えた。対日政策を大艦隊の派遣でなく、かつてビッドルが浦賀で行った通商打診の延長線としてとらえていた政府はこれに難色を示した。しかし結局政府はペリーの要求を受入れた。
極東にいる汽走フリゲート艦サスケハンナなど三艦に加えて、汽走フリゲート艦ミシシッピーなど四艦を編入し、東インド艦隊を二倍以上に増強した。
また国務長官と海軍長官が議会開催中で多忙であったことがペリーの司令長官就任をさらに遅らせた。
ペリーが種々条件をつけて、就任に固辞した個人的理由としては軍人としてのプライドがある。メキシコ戦争の英雄であり、海軍の近代化に大きな功績のあった自分が、軍人としての実績が乏しく、経験も劣るオーリックの後任をつとめるのは極めて不本意なのだった。
地中海艦隊司令官の職であれば十分に関心があった。イギリス、フランスなど西欧列強と直接しのぎを削る地域に派遣されることが軍人たちの憧れなのだ。
ペリーが東インド艦隊司令官を固辞した遠因としては、対日外交に関する民主党、共和党間の政策の不一致が考えられる。国論の分かれる任務につくことは彼にとっては格下げに等しかった。
なおメキシコ戦争とは、46~48年にアメリカがメキシコと戦った戦争で、この結果アメリカはニューメキシコ、カリフォルニア、ユタ、ネヴァダ、アリゾナを獲得した。
ペリーが正式に東インド艦隊司令長官に任命され、遠征準備を開始したのは1852年3月24日、彦太郎たちがセントメリー号で帰国の途についたわずか11日後のことである。
またペリーが戦艦ミシシッピーでアメリカのノーフォーク軍港(東部ヴァージニア州)を出たのが同年11月24日。彦太郎たちが太平洋経由で香港に到着したのが5月22日。
そしてさらに数ヵ月後、亀蔵、次作とともにトーマス・トロイに連れられ、再びアメリカに向け香港を発ったのが同年10月初め。サンフランシスコに到着したのが同年12月初めであるから、ペリーがアメリカを発ったときには彦太郎たちはすでに、中国からアメリカに向かう船の中にいたのである。
ペリーの香港到着のこの大幅な遅れが彦太郎たち三人の運命を大きく変えることになる。
つづく