17.第2章(黄金の国)---おとぎの国
17.第2章(黄金の国)−−−おとぎの国
彦太郎は栄力丸船乗りたちのなかで、一番の英語通であるはずの自分が差し置かれることに耐えられなかった。
《ワシなら一人で行ってみせるぞ。案内はいらンわい》
彦太郎は気を取り直した。
亀蔵たちはやがて眼を輝かせて戻ってきた。土産に西洋の菓子を買ってもらっていた。パイとケーキであった。
「おとぎの国みてぇに、ほんまに綺麗な町じゃったぞ」
「町の衆人もみんな愛想よかったしのう」
亀蔵と伝吉は仲間の顔を見るや、もどかしげに口を開いた。
一時も早く、伝えたかったといった様子ありありであった。
「案内の男も親切かったぞ。恐ろしげぇな見かけとは、大違ぇじゃった」
普段はおとなしい仙太郎までが後に続いた。声が上ずっていた。
三人は入れ替わり立ち代り、身振り手振りを交えて、冒険談を語った。仲間たちは身を乗り出し三人の話に耳を傾けた。
「おめぇたち、調子にのるでねえ!油断するのはまだ早ぇぞ」
突然万蔵の鋭い声が起こり、土産話に胸をときめかす栄力丸乗組員たちを厳しく戒めた。彼は未だ警戒心を解いていなかった。
荷の陸揚げが終わり、ジェニングス船長が別れを告げるために現れた。彼は休暇でしばらく船を降りるのだった。航海中とはがらりと変わった衣装だったため、最初は見分けがつかなかった。髭をそり、黒の立派な服を着込んでいた。
上着の下の重ね着からは金の鎖が垂らされていた。頭には、先日水先案内人がかぶっていたのと同じ筒状の高い帽子をのせていた。
「少シノ間家ニ帰る。マタ、来ルカラ、ソレマデ元気デ」
船長は唯一英語のわかる彦太郎に向かって言った。
「助ケル、大変嬉シイ。オークランド号ノ人達、大変親切。エンゲレッシュ話ス、楽シイ。有リ難ウ」
彦太郎は精一杯の英語を使ってこれまでの厚遇についての礼を述べた。
ジェニングスは眼を細めて大きくうなずいた。
四日目積荷の陸揚げ作業を待つオークランド号に、サンフランシスコ港の税関長がやってきた。名前をキングといった。彼は航海士のサルタースの案内で船内を調べたあと、彦太郎たちのところへやってきて言った。
「可愛いやあ」
彦太郎たちはキングが日本語を喋ったので仰天した。同時に日本語の話せるアメリカ人に会えたと思って驚喜した。ところが、その後彼らがいくら話しかけても、彼はただにこにこ微笑んでいるだけである。
親しいもの同士の間で使われる英語の挨拶言葉「ハウ・アー・ユー」(どう、元気でやってる?)が「カワイイヤ」と聞こえたのだ。
彦太郎が洋装をしていて馴染みやすかったためか、あるいは航海中における彼の評判を聞き知っていたためか、税関長のキングが彦太郎のところへやってきて、靴を買ってやるからいっしょに下船しようと誘った。
彦太郎はためらった。二日前、一人でも行けると密かに見栄を切ったが、結局尻すぼみに終わった。怖気づいたのだ。サルタースに付き添ってもらうことにした。そのためサルタースは部屋に戻って外出着に着替えなければならなかった。
初めて歩く異国の町は珍しいものばかりであった。人出の点では浅草や亀戸天神など江戸の賑わいの方が数段まさっていたが、珍奇さでは比べようがなかった。
一番に眼を引いたのは道路であった。道路が馬や馬車専用と、歩行者専用とに分かれていた。馬や馬車は道路の中央を走り、歩行者はその両側を歩いていた。そして道路一面に石の小割りしたものが敷き詰められていた。
また道幅は大声で呼ばないと、反対側にいる相手に聞こえない程の距離があった。馬車には荷物運搬用と乗用があった。
家屋は木造が少なく、白や茶色の石で造られていた。全体が箱形で屋根が平らなのも珍しかった。ほとんどが二階建て以上で、日本の建物よりずっと大きかった。
歩道に沿って思い思いに衣装を凝らした、商店らしい家が軒を連ねていた。透明な板で仕切られた窓の中に、色とりどりに飾られているのは売り物の品であろう。
初めてではあるが、食欲をそそられる好い匂いが漂ってくるのは飯屋に違いない。喚声や哄笑が聞こえ来るのは飲み屋だろうか。
馬がいななき、馬車が行き交う。犬が吠え、赤子が泣き、子供が叫んでいる。通行人は履物の蹴り音高く颯爽と往来している。
立ち話に興じてい人々は訳のわからぬ言葉を発し、声高に笑っている。どこからか音の調べも流れてくる。亀蔵が言ったとおりまるでおとぎの国であった。
やがて市街地に近づいたとき彦太郎は愕然とさせられる光景を目撃した。途端に夢見心地が吹っ飛んでしまった。鎖につながれた黒人の囚人たちが土の運搬作業に従事していた。
丁度眼の前を通りすぎた運搬車の御者は、紺の股引きに赤い襦袢を身に付け、長靴を履いていた。首には赤い襟巻きを巻き、頭には毛の被り物をのせていた。
黒い顔、白い歯、分厚く赤い唇、そして異常に長い手足。ジェニングス船長など異人船乗りを初めて見たとき以上の衝撃を覚えた。
彦太郎は囚人たちの容貌に震え上がり、手を引いてくれているサルタースの手を思わず握りしめた。
ところがサルタースはと言えば、囚人たちの存在には別に驚いた様子も見せず、歩調をゆるめた彦太郎をせき立てた。オークランド号船上で厚遇してくれたサルタースとは別人のような無関心振りだった。
彦太郎たちが異国の生活に慣れていく一方で、サンフランシスコ経済界を中心に日本人漂流民を日米掛け橋役の先鋒にする試みが着々と進められていた。仮装舞踏会であった。
【漂流日本人を民族衣装で参加させ、文明国の女性と踊らせるのは興味がある。
また彼らにとっては市民の歓待に接し、アメリカ人について好ましい印象をも
ちかえるであろう】
新聞は大々的に報じた。
(つづく)