16.第2章(黄金の国)−−−英雄
16.第2章(黄金の国)−−−英雄
眼の前に広がるサンフランシスコの町は大変な賑わいであった。彦太郎は遭難前に連れて行ってもらった浅草の雑踏を思い出した。
彼が赤や黄や緑など色鮮やかに塗られた家並みの美しさに眼を奪われていると、誰かが彼の肩を後ろから叩いた。キャプテンのジェニングスであった。彼は大声で何か喋りながら自分が手にする紙を指さした。
彦太郎はキャプテンの指す先をみて驚いた。自分たちの顔が紙面半分ほどの大きさに描かれていた。彼はずっと以前、まだ船乗りになる前、寺子屋の先生から西洋には物を写し取る器械があると聞いたことを思い出した。
そして、前日オークランド号の停泊直後に、突如乗り込んできた男たちのことを思い出した。彼らは彦太郎たちに正体不明の箱を向け、何やら不可解な態度をとった。彼らの仕業に違いなかった。
キャプテンが手にしていたものは日本の瓦版の類いであるらしかった。しかし厚さも大きさもその比ではない。白と黒で描かれた彦太郎たちの「絵」の下には、異国の文字がぎっしり並んでいた。
彦太郎は言葉の発音だけでなく、それらの綴りもあわせて学んでいた。文字だけで単語の意味が分かった。初めて見る言葉が数多くあったが、記事の大体の内容はつかめた。自分たち漂流民のことに関してだったので、行間が読みやすかった。
【3月4日に入港したオークランド号には、漂流中を救助された日本の船乗りが17人乗っており、彼らはカリフォルニアの土を踏む最初の日本人である。】
地元紙『アルタ・カリフォルニア』は栄力丸漂流民のことをセンセーショナルに書き立てていた。
彦太郎の一行がカリフォルニアに上陸したこの1851(嘉永四)年は、くしくもジョン(中浜)万次郎が十年におよぶアメリカ滞在ののち、日本に送還された年であった。琉球におろされた万次郎はその後、薩摩と長崎で厳しい取調べを受け、翌年故郷土佐への帰還が許された。
万次郎は彦太郎たちと同じような海域での難破と漂流の後、アメリカの捕鯨船にひろわれ、アメリカの東海岸にわたっていた。
1851年はまた、アメリカ船に続き、イギリスやルーマニアの艦船が琉球を訪れ、開国を迫った年でもあった。
オークランド号の船長ジェニングスが、水先案内人から受け取った分厚い紙束は新聞であった。
船長は自分の航海中にたまった分をまとめて受け取ったのだった。しかし瓦版しか知らない彦太郎には単なる紙束にしか見えなかった。
彦太郎たちの上陸を伝えた翌日、同紙『アルタ・カリフォルニア』は日本人漂流民についての詳しい記事をのせた。栄力丸漂流民救助は日本開国を迫る絶好のチャンスであるとする国民世論を「中国と日本」との見出しで紹介した。
さらに、二日後同紙は、救助され、親切なあつかいに感謝している漂流民たちは、合衆国についての好意的な報告をもち帰り、結果として合衆国と日本の間の自由な通商交渉のための「くさびの役」を果たすであろうと述べた。
アメリカが日本に開国をせまる目的は船舶用の薪炭・食料・飲料水などの補給基地確保であった。
当時アメリカは中国においてヨーロッパ列強と権益獲得競争を展開しており、植民地獲得競争を有利に進めるには、アジアまでの距離を大幅に短縮する西回りの航路の開拓を必要とした。
また太平洋を捕鯨の舞台としていたアメリカにとっては、日本は水、食料、燃料などの絶好の補給基地だった。アメリカ政府は日本を力で交渉の席につかせるため大規模な艦隊派遣を検討していた。
外交上の重大な使命が与えられようとしていることとは夢にも知らない彦太郎たち一行は、オークランド号の荷揚を懸命に手伝った。終了すると税関吏が乗り込んできて不正な荷がないかを調べた。
午後には他の荷揚げ人足たちの一団が何艘ものボートでやってきた。彼らも日本人漂流民たちに好奇の眼をむけた。彦太郎たちはそのうちの一人に手真似で上陸を誘われた。
彦太郎が髷を落とし、西洋の身なりをしていため話しかけやすかったのかもしれない。しかし男の顔が赤鬼然とした恐ろしい容貌であったため、彼らは思わずたじろいだ。
彦太郎は自分の出番だと思った。自分はオークランド号で異国人船員との橋渡し役をした。自分たちが今こうして無事にカリフォルニアの地に立てているのも、自分の力によるところが大きい。
彦太郎は怯んではいけなかった。ところが彦太郎に先んじるものがいた。亀蔵であった。
亀蔵が仲間と一緒ならと身振りで答えると、通じたらしく男は頷いた。亀蔵は伝吉と仙太郎に声をかけた。亀蔵と伝吉は出身はそれぞれ芸州(広島)、紀州(和歌山)と異なるが、船の役務も年齢も同じ、賄方で二十二歳であった。
二人は彦太郎を除けば炊方(炊飯係)の仙太郎に次いで若かった。仙太郎は十八歳であった。
賄方は積荷の受け渡しや経理事務を取り仕切るのが仕事で、船頭、舵取、炊方以外のほとんどがこの賄方であった。栄力丸の場合は十二名いた。
亀蔵が男の勧めに応じたとき彦太郎は初め驚いたが、やがて納得した。好奇心の人一倍強い亀蔵にはありえることだった。
オークランド号に救われて直後、彦太郎がスープの肉片を食べたとき、亀蔵は一番になって非難したかと思うと、すぐに手のひらを返して彦太郎の真似をした。同僚の非難をものともしなかった。
亀蔵が伝吉を誘った理由は歳が同じで、気心が知れていたためであろう。伝吉がどういう人物なのか彦太郎はよくは知らなかった。
彼は役務が賄方で、お茶汲みの彦太郎とは仕事場が別だったし、伝吉としても年齢的に近いとはいえ、賓客身分の彦太郎を他の同僚並みに扱ってくれるはずがなかった。
仙太郎が誘われたのは、彼の年齢が十八歳と年下で、生まれが亀蔵と同郷の芸州であることの他に、仙太郎の温順な人柄が予想された。彦太郎は茶汲として炊方の仙太郎の下で働いていたので、彼がどんな人物か大よそ分かっていた。
炊事、洗濯、掃除といった炊方の仕事を一人黙々と勤めていた。彦太郎は船改め対策としての名目的な茶汲にすぎなかったため、炊の仕事はほとんど仙太郎一人がこなした。
船改めとは江戸通いの船に対して幕府が実施した積荷監査のことで、浦賀奉行所が船番所となった。検査項目は荷物のみならず乗組員の数にも及んだ。
一人ひとり仕事の中身について吟味された。もし誰かに手伝ってもらっておれば、説明に一貫性を欠いたり、受け応えに滞りが生じたりして、怪しまれた。
仙太郎は誰に対しても嫌な顔をしたり、怒ったりすることはなかった。職務以外においても、大変口数は少なく、他人に話しかけられるまでは口を開くことはなかった。
年下の彦太郎にも文句一つ言わなかった。といって自分が船頭万蔵の朋輩吉佐衛門の息子と知って、遠慮しているふうでもなかった。彦太郎が火の起こし方がわからず戸惑っていたりすると、知らぬ間に焚き付け用の柴を持ってきて、黙って手本を示した。
つづく