14.第一章(漂流)---上陸
14.第一章(漂流)−−−上陸
彦太郎が日一日と異国の言語を身に付け始めたある日のこと、甲板に上がってみると、メインマストの望楼に上ったキャプテンのジェニングスが丸い筒状の棒を眼にあてがっていた。
先日、仲間たちが横文字を波の絵と勘違いしたとき、彼らが千里眼だといってうわさしたあの遠眼鏡であった。
船長は彦太郎が見上げているのに気づくと、上がってくるよう手で合図した。彦太郎が急いで上って行くと、彼は息を弾ませている彦太郎の眼に、遠眼鏡の片方の端を当て叫んだ。
「ァメェルカ。キャルフォーニア、ヒコドン!」
オークランド号の目的地がキャプテンたちの祖国アメリカ・カリフォルニアであることはすでに教えられている。陸地が見えたから遠眼鏡を覗いてみろと言っているらしい。
彦太郎は胸をはずませながら、遠眼鏡を受取り眼にあてがった。しかし眼前に丸い視界がぼんやり広がるだけ、焦点が少しも結ばれない。
「ノー ・ァメェルカ。ノー、キャルフォーニア。オンリー・シィー・アン・スカァイ」
陸地など見えない。海と空ばかりである。彦太郎は遠眼鏡を離し答えた。彦太郎の英語は上達していた。複雑な文章の組み立てからは程遠かったけれども、日々の生活に関する語彙は豊富になっていた。
単語をつなげることにより、かなりの程度まで意思表示することができた。コックの唐人から習った「ワォット・ザット」、「ワット・ディス」のおかげであった。
キャプテンは怪訝な様子の彦太郎に向かって今度は自分の片目を閉じ、もう一方の開けているほうの眼に、両手をまるめて筒状につないで当てた。使わない方の眼はつむらないといけないらしい。
キャプテンや副船長が筒を覗くのを見たことは何度かあったが、甲板から見上げたり、離れた位置からでしかなかった。彼らの眼までは注意は払わなかった。
彦太郎は言われたとおりに片方の眼を閉じ、開けたほうの眼に筒眼鏡を当てた。丸い視界が一つになり、見やすくなったが、焦点がぼやけてやはり何も見えない。
見えるのは青い海と青い空ばかりである。彦太郎はひとみを凝らしつつ遠眼鏡をゆっくりと上下左右に動かしていった。
円形の視界が海と空の間を何度か行き来しあと、彦太郎の眼はついにとらえた。海と空とを上下に分けるように、左右に細長く伸びるくすんだ緑色の線が見えた。その途端、彦太郎の眼は輝いた。
「見えた、見えた。アメリカじゃあ!…ァメェルカ、キャルフォーニア。ァメェルカ、キャルフォーニア!」
彦太郎は傍らのキャプテンに向かって日本語と英語で叫んだ。
キャプテンは髭面いっぱいに笑みを浮かべ、うなずいた。
前後して、甲板から人々のざわめきが聞こえてきた。見下ろすとアメリカ人と日本人双方の船乗りたちがすでに船縁に立ち並び、手を取り肩を叩き合って喜びに浸っていた。
彦太郎はいま一度覗いて見た。難破以来、何ヵ月も眼にしなかった、一時は二度と生きては踏めぬと諦めていた陸地であった。
夜がきたため、オークランド号は湾の入り口近くで錨を下ろした。
1851(嘉永四)年、二月二日、救助されてから東北東に走ること四二日目のことであった。
「そうか、わかったぞ。こりゃあ、恐れ入ったわい」
上陸を翌日に控え、彦太郎たちが寝付かれぬ夜を過ごしていたとき、船頭の万蔵が突如として叫んだ。
寄る年波と苛酷な漂流生活により、衰えのとみに著しい彼の、どこに残されているかと思われる程の語気の強さであった。
「ワシらが助けられて、今日で四一日目じゃと思うが、どうじゃ?」
万蔵が彦太郎にたずねた。
日記をしたためる習慣のあった彦太郎に確かめたのだ。
「そうじゃ。四一日目じゃ。さっき書くとき、数えてみたで、間違ぇねえです。お頭、どうして分かった?」
彦太郎は驚いて問い返した。
「体はおとろえても頭は別じゃ。ワシは、連中が最初に言うた数の謎をずっと考えておったのじゃ。それが今やっと解けたわい」
彦太郎は救助された直後のことを思い出した。仲間からの要求に応じて彦太郎が、身振り手振りで到着日数をたずねたとき、オークランド号の船員の一人が四一回指を折って見せたのだった。
「まさかと思うて、すっかり忘れておったが。やっぱり航海の日数のことじゃったか。…こりゃあ、たまげたのう」
舵取りの長助が呟くように言った。
長助は日数を聞いたとき、一番になって異国人船員の返事を笑ったのだった。
大海の只中にいてもなお幾十日も先の予定が立てられる。風まかせの樽廻船には到底考えられないことであった。
陸地を常に視野に入れての沿岸航海が精一杯の和船に比して、何日間にもわたって見渡す限り水平線の世界にもかかわらず、目的地に向かって迷わず進んでいく船。日本人漂流民たちの想像を絶した。
彼らは異国文化の凄さをあらためて感じた。彦太郎は床についても眼が冴えて、なかなか眠れなかった。
夜明けを待ち兼ねて彦太郎はひとり外に出た。外はまだ暗かった。甲板に立って小半時近く、東の空が白み、湾入り口の岬の細長い稜線が影絵のように黒くくっきりと浮かび上がった。
そしてさらに小半時、辺りはすっかり明るくなり、丘陵に生える松か何かの木々の梢がはっきりと見えた。
彦太郎は故郷の浜辺を思い出した。彼は寺子屋から帰ると自宅近くの砂浜に出て、瀬戸の海を行き交う船を眺め時間を過ごすのを日課としたが、その砂浜にそって見渡す限り松の並木が続いていた。
あの松のごつごつとした幹の線と濃緑の葉の色は、今眼の前に見る木々と同じものだ。彦太郎はしばらくの間故郷の追憶に浸った。
「ザッツ・ザ・ゴールドゥン・ゲィト」
そのとき背後で誰かの声がした。
つづく