13.第一章(漂流)---上達
13.第一章(漂流)−−−上達
異国船上での生活にすっかりなれたある日のこと、彦太郎たちが甲板に立っていると、キャプテンと部下たち数名が額を寄せあってひそひそ話し合っている。
彦太郎が何事かと思って近付いていくと、船長は暗い表情をして帆柱を指さしたり、首を横にふったりしながら彦太郎に言った。
「スィック。スィック。ヴェリー・スィック」
意味がわからず彦太郎がきょとんとしていると、船長は今度は帆柱の上を指さしながら「スィック」という英語をくり返す。これから帆を広げるところらしい。しかし、船長が指さした辺りを見ても、いつも帆の開閉に当たっている赤髭の男の姿が見えない。
どうやら病気か何かで寝込んでいるようであった。彦太郎が確かめるため自分の頭を二三度たたき、次に腕枕の格好をして見せるとキャプテンはうなずいた。「スィック」は体の具合がすぐれないことを意味するらしかった。
彦太郎はその瞬間眼を輝かせ、覚えたての英語に身振り手振りを交えながら言った。
「ブンタ。マスト・ナイス。ベリー・グッド」
最後は帆柱を指さし、木登りの真似をした。
伯耆の国長瀬村出身の文太は多少西洋帆船の知識をもっていた。それを知っていて彦太郎は彼を推薦したのだった。文太もまた髷を落とし、異国水夫の服装をすることとなった。
文太は四十歳に手が届くほど年を取っていたが、生来の俊敏さと新装置の使いやすさで操作術をたちまちにして覚えた。
文太が帆張り係に選ばれたとき、彦太郎は唐人のコックを補助する炊事掛かりを任された。乗員が一挙に増えて食事の準備の手が足らなくなったからであった。彦太郎と文太以外の栄力丸の水主たちは相変わらず漂流時の衣装。仕事は与えられず、お客様同然であった。
コックの唐人の補助を任されたのは英語に興味をいだく彦太郎にとっては都合がよかった。唐人は久々に出会った東洋人に親近感を抱いたようで、とりわけ愛想よく振舞う彦太郎にもっとも関心があるらしかった。
彦太郎が自分の手伝いをすると分かると彼は大いに喜んだ。彼は仕事場以外でも彦太郎に親しく話しかけた。
ある夜のこと彦太郎が日記を記していると不意に唐人がやってきて、彦太郎の手元あたりを指差し言った。
「ワォット・ザット」
彼の英語は他の異国人船員の話す英語とは発音や調子が大分異なっていた。一語一語が途切れ、一本調子だった。滑らかな横文字を連想させるあの言葉の上げ下げ、強弱がなかった。とはいえ、やはり異国の言語であることに変わりなかった。
彦太郎はわけが分からず、唐人の顔と彼の指先とを見比べ思案していると、彼はさらに同じセリフを繰り返した。彦太郎はやはり要領がつかめない。
言葉では無理と思ったのか、唐人は突然手を伸ばし、彦太郎の傍らにおいてある矢立を手に取り言った。
「ワォット・ディス」
やっと分かった。唐人は矢立のことを尋ねているのだった。彼は矢立を見たことがなく珍しかったのだろう。
そういえば、彼らが拾われて間のないころ、ジェニングス船長など異国人船員たちが、彦太郎たちの身なりや所持品を珍しがりながら盛んに「ワォット」という言葉を繰り返していた。身振り手振りで使い方を説明するとうなずいていた。
彦太郎は手にしていた筆の筆先を、矢立の先端部の墨壷に浸し、それを再び紙の上にかざし文字を書く仕草をした。その途端唐人の顔が輝いた。
唐人はこのあと、彦太郎の握っている筆と、自分が持っている矢立の細長い管の部分を交互に指差しながら彦太郎を見やった。見やってから自分の懐にしのばせるジェスチャーをした。唐人は矢立が携帯用の筆記用具入れであることを理解したようだった。
「イェエース、イェエース」
今度は彦太郎が顔を輝かす番だった。
「ベリー・グッド。ベリー・ナイス」
唐人は彦太郎の返事に、さも感心したといった表情で何度もうなずいた。
矢立は墨壺のついた筒のなかに筆を入れた携帯用筆記用具である。矢立の起源は鎌倉時代にさかのぼり、本来、戦闘中の武士が矢を入れて腰から下げる容器を指したが、中に携帯用の筆記用具を入れていたため、これもやがて矢立と呼ぶようになった。
もっとも墨壺が丸くなったのは江戸時代になってからのことで、腰に挿して持ち歩きやすくするためだった。真鍮製、赤銅製、陶器製などがあった。墨壺の中には百草などを入れ、墨汁を染ませた。
《そうか! 物の名を聞きてぇ時ゃあ、「ワォット・ザット」、「ワォット・ディス」と言やあエエンじゃ。よっしゃ。一つ試してみてやろう》
「ワォット・ザット」
彦太郎は開いた日記帳の一ページを指でつまみ、唐人を見た。
唐人は彦太郎の不意の質問にちょっと驚いた様子だったが、すぐに気を取り直したようにして答えた。
「ペィパー。ペィパー」
「ペ、ペーパー。ペィパー」
彦太郎が唐人の真似をすると唐人は満足げにうなずいた。
しかし唐人はこのあとすぐ、日記のページを自分でつまみ言った。
「ヒコ・ドン。ザット。ノー。ディス。イェエース」
唐人の顔は先ほどとは打って変わって真剣そのものである。
《何やと? 「ザット」は駄目ぇえとな。「ディス」なら好ぇえんか》
彦太郎は矢立のことを尋ねたときの唐人の言葉を思い出した。最初「ワォット・ザット」と言ったときは矢立は少し離れた所にあった。
二度目に、「ワォット・ディス」と言ったときは、手に持っていた。自分が尋ねたとき、日記帳はすぐ手元にあったから「ワォット・ディス」と「ディス」を使わなければならなかったのだ。
《分かったぞ。「ザット」は「それ」で、「ディス」は「これ」じゃ》
「ワォット・ザット」
新しい言葉をさっそく使ってみたくなった彦太郎は、唐人の背中に垂れ下がる辮髪を指差した。
「ヒコ・ドン。ナイス。ヒコ・ドン。グッド。ベリー・ベリー・グッド」彦太郎の推測は正しかったと見え、唐人は急に顔を輝かせたかと思うと、彦太郎の肩をさもうれしげに叩いた。
唐人は彦太郎の肩を叩いたあと、自分の尻あたりの弁髪を手に取りおもむろに言った。
「キュー。ディス…キュー」
唐人の辮髪は英語では「キュー」というらしかった。
このことがあってから彦太郎の英語の語彙は一挙にふえた。それまでは受動的にしか習えなかった言葉が、いつでもこちらから尋ねられるようになった。
すると、今度は眼に見える物だけでなく、動作とか気持ちなど眼に見えない物の名前へと彦太郎の関心は広がっていった。こうして彦太郎の英語は日増しに上達し始めた。
(つづく)