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12.第一章(漂流)---決意

    12.第一章(漂流)−−−決意1


 洋装に対してはさほど抵抗感を持たなかった彦太郎も、さすがに髷を失ったのはこたえた。着物は自由に着替えられるが、髷は体の一部。両親が与えてくれたものである。彦太郎は肩を落として仲間のもとへ帰った。


仲間たちの反応は予想通りであった。牛肉を口にしたとき、洋装をしたときほどの囂々とした非難は聞かれなかったが、これまでにない厳しい蔑みの視線が向けられた。


「あっとゆう間やった。仕方なかったわい」


 彦太郎は必死に申し開きをした。


 肉片を真っ先に口にし、異人服を着せられれば歓喜した、そういう暢気さ大胆さが記憶に新しい仲間たちは、彦太郎の弁明をなかなか信じようとしなかった。


 万蔵ひとり頷いてくれたのは救いであった。もっとも昵懇の吉佐衛門から息子を無理やり連れ去ったことに対する義理からかもしれなかった。


《話が通じンちゅうのはほんまに歯がゆいわい。よし、こうなったらあいつらの言葉を覚えるしかねぇ》


 髪型も身なりも異国風に染まったのなら、異人の使っている言葉まで真似するのも面白いではないか。人肉を食べると信じていた「赤鬼」と心を通い合わせるのは実に痛快ではないか。


大海の大波荒波を物ともしない黒船を造る造船術。大海原の中をまっすぐに目的地に到着する航海術。彦太郎が幼いころより憧れた異国の世界がいよいよ眼の前に開かれようとしいた。


 栄力丸の他の漂流民たちは彦太郎とは対照的だった。オークランド号の船員に話しかけられると、逆に逃げるようにして背を向け、仲間たちだけで寄り集まった。


帰国すれば厳罰は避けられなかった彼らからすれば、できるだけ異国風には染まりたくはなかった。また船上における事件は共同責任とされていたから、足並みを乱すものが現れないように互いに牽制しあった。


 一方オークランド号側から見れば、命を助け、至れり尽くせりの親切を施してやっているのに、いつまでも内向きで排他的な行動に終始する、そういう日本人船乗りたちは不可解に映ったであろう。それだけに彦太郎の機転と利発さが一層際立った。


 彦太郎は髷を落とされた直後は打ちひしがれていたものの、すぐに元の無邪気さ朗らかさを取り戻した。異国の言語を習得する決心をした彼は、相手かまわず異人船乗りに話しかけた。彼らも喜んで応じてくれた。彦太郎はやがてオークランド号船員たちの人気者になった。


 アメリカ人乗組員が習った最初の日本語は「ヒコドン」、つまり彦太郎の名前であった。


船に拾われて以来、栄力丸の仲間たちが彼を「彦ドン、彦ドン」と呼んで、当てにすることが多かったし、またオークランド側も橋渡し役として彦太郎を重んじたから、必要に迫られての結果であった。


 ある日船長室に呼ばれた彦太郎は、引き返してきて船長の伝言を万蔵に伝えた。


日本人漂流民十七人が加わったため、食料が足らなくなった。そのため、従来日に三度だった食事を今後は二回に減らさざるを得ない。救助したとき、栄力丸に艀をやろうとしたのは、食料を探すためだった。


「キャプテンはホンマに済まなさそうな顔をしとりましたぞ」


 彦太郎は伝言を告げたときの船長の表情を万蔵に話した。


 栄力丸船員の中で最後までオークランド側に警戒の心を忘れなかった万蔵は、彦太郎の話を聞いてやっと心を開いた。異人赤鬼を信じていた自分を恥じた。万蔵は彦太郎にキャプテンにねんごろな感謝の意を伝えるように頼んだ。


 彦太郎たちは幾人かのグループに分けられ、居場所を与えられた。彦太郎は船頭の万蔵、賄の長助などと六人で、空いているキャビンが割り当てられ、残り十一人は甲板に装備された二隻の端艇に収容された。


艇には屋根代りに帆布が被せられた。また底には栄力丸の艀より持ってきた板を渡しかけ、寝床とした。居心地よい臨時のキャビンができあがった。


 彦太郎たちはオークランド号での生活に慣れるにしたがい、周囲が落ち着いて観察できるようになった。まず気づいたのは日米の船の構造と捜船術の違いにであった。一番驚いたのは帆柱と帆。


樽廻船など和船は帆柱、帆桁が各一本、帆一枚であったの対し、黒船は帆柱が三本で、うち二本には帆桁が数本取りつけられ、さらに帆桁には大小無数の帆が張られていた。また、第三の柱は帆桁は一本だけで、斜桁の上外端に帆綱をつけ、三角形の帆布が装置されていた。


 和船のように帆布が一枚だけの場合は小回りがきかず、したがって強引に航路を変えるには大きな舵を必要とした。また一本マストは嵐には弱かった。帆布一枚で強風を受けるため容易に柱が折れた。難破するとどうしようもなかった。洋式は風の強弱によって調整できた。


 まるい蛇輪を一人で右に左に軽々とまわして、栄力丸よりはるかに大きな船体を操るのもまた驚きであった。和船は二人か三人掛かりで舵柄をつかみ、たたみ八畳ほどもの広さの羽板を動かした。


こういった省力化が眼に見えない部分にも施されているのであろう、乗組員の数が栄力丸十七人に対し、ほぼ半数の十人であった。オークランド号の大きさが栄力丸をはるかにしのぐことを考慮すると、この人数差は数字以上であった。


 甲板に張った板がしっかりと打ち付けられ、間に詰め物がほどこされていることにも驚かされた。和船の場合、船倉上部甲板は隙間を埋めることはなかったから、大波をかぶると海水が船室に滴りおちた。


シケの中では水は多量に流れ込み、場合によっては総出で、食事も抜きでアカの汲み出しにかからなければならなかった。


 帆柱や帆桁の数、舵輪と舵柄羽板などの違いは外見的なものだから、素人の彦太郎にもすぐにわかった。しかし甲板の間に詰め物をすることが、いかに優れた工夫であるか、彦太郎は仲間たちの話を聞くまでは分からなかった。


彦太郎の胸に嵐にもまれながら漏水と格闘した記憶がまざまざとよみがえった。内蔵を吐き出すほどの船酔いのなかで、死に物狂いにアカを汲み出したのであった。


 各藩の分裂統治をはかる徳川幕府は、兵や武器の積込みを取り締まるため、取外し式の甲板を採用させた。内部の点検がすみやかに行われるよう、船倉の上部甲板の板の打ち付けを禁じていた。


 わが国でも古くは遣唐船、中世には巨大な軍船と複数のマストをもつ船が建造された。南蛮貿易の始まったころには西洋の帆船に劣らぬ船が造られ明国、琉球、ルソンなどまで出かけた。


しかし大船は外様藩の海路による江戸攻撃を可能にするとして、政府は小規模の船しか建造できない一本に限定した。


                                   (つづく)




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