11.第一章(漂流)---悔恨
9.第一章(漂流)―――悔恨
疑心暗鬼の心に揺れるある日の昼下がり、航海士の副船長が自分の古い衣類を持ち出してきた。彼は仕種で彦太郎に向かって、着ているものを脱ぐように言ったのでその通りにすると、彼は用意してきた衣服を無理やり着させた。
肌着のような下着も、布製の上着も、脚にぴったりの股引きに似た着物も、すべて彦太郎には大きすぎた。航海士は彦太郎に着せたまま衣服の適当な位置に印をつけ、再び脱ぐように合図した。
次の日、彼は同じものを持ってきて彦太郎に着させた。今度は丁度の寸法であった。前日持ち帰ったものを縫い直したようであった。
「ナァウ。ユゥ・ ア・ラァ・ヤンキー・ボーイ」
彼はこう言って声をたてて笑った。
彦太郎も訳が分からなかったがつられて笑った。
初めて身に付ける西洋の服は窮屈だった。しかし和服よりも暖かく、体を動かしやすかった。
副船長は彦太郎を船長室に連れていき、新しい服を着た彦太郎をキャプテンに見せた。キャプテンは満足げに微笑みうなずいた。よく似合うと喜んでいるようであった。
「ベリー・ナイス」、「ベリー・グッド」という言葉を何度もくり返した。状況から推して、満足したり、同意したり、褒めたりするときの表現に違いないと彦太郎は思った。
「彦ドン。異人の格好をするのは、そりゃあ御法度じゃ」
「おめぇ、二度と日本にゃあ帰れねぇぞ」
仲間は牛肉事件のときに劣らず彦太郎を非難し脅した。
彦太郎は異人かぶれをすることがどんな犯罪かは耳にたこができるほど聞いた。船に乗る前にも義父、母、寺子屋の先生などから、禁を犯した場合の刑罰の話しをいろいろ聞かされた。しかし話しだけで、自分の眼で見たわけではなかった。
大人は子どもの躾のためには、実際よりもずっと大げさな言い回しを使うのを彦太郎は知っていた。さらに難破と漂流という生きるか死ぬかの経験は、そういう彦太郎を祖国のしがらみから容易に解き放った。
彦太郎は仲間の言葉には耳を貸さず、甲板を駆け回ってアメリカ人船乗りたちに新しい服を見せびらかした。
翌日同じ長身白皙の副船長が再びやってきた。彼は自分の頭を指さして何か言ったあと、彦太郎の髪をしきりに引っ張り始めた。
《髷が珍しいンに違ぇねぇ》
「ベリー・ナイス。ベリー・グッド」
彦太郎は同意を表すため、覚えたばかりの異国の言葉をしゃべり頷いてみせた。
副船長は彦太郎が英語をしゃべったことに大変驚いたふうだったが、すぐに両腕を大きく広げ、顔を輝かした。
副船長はこのあと急いで船室に引き返し、再び戻ってきた。片手にハサミを握り、もう一方の手は椅子を下げていた。彦太郎が訝っていると、副船長は無理やり彦太郎を椅子にすわらせ、彦太郎の髷のもとどりに鋏をザクリと入れた。
「ナ何をするンじゃ! 大事な髷を切ってしもうて」
彦太郎は叫んだ、が後の祭りであった。言葉が通じなくてはなす術がなかった。屈強な彼に頭を押さえられては、動きは取れなかった。黙ってされるがままになるしかなかった。
彦太郎が同意してくれたものと信じている副船長は、そういう彦太郎の胸中は知ってくれるはずもなく、一心に作業をつづけた。
副船長は髷を落とした後は、さらに短く髪の毛を切り揃え、そこへ香りのよい油をゴシゴシと擦り込んだ、そして最後に櫛を通した。
副船長は生まれ変わった日本少年の頭を見下ろして大きく頷いた。
「ヴェリー・ナイス・ヤンキー・ボーイ」
満悦至極の様子であった。
彦太郎は万に一つ、無事祖国へ生還できれば、感謝の印と禊のために髷を神仏に捧げるつもりであった。その大切な髷を、いとも簡単に切り落とされた。
副船長の表情には悪意の様子は微塵も見られず、すべて好意からの仕業に思われた。失敗の原因は彦太郎が相手の言葉を不用意に使ったことによるらしかった。
《言葉さえ喋れたらのう》
彦太郎は切り落とされたばかりの自分の髷を拾い上げ握りしめた。
「ヴェリー・ヴェリー・プリティー」
副船長は新しい言葉を使って満足の意を表した。
「プリティー」は「かわいらしい」を意味して、主に子供や女性に対して使われる形容詞である。小柄な十三歳の日本人少年を表すには打ってつけの表現であったろう。
当時、漂流者への取り調べはきびしかった。徳川幕府の鎖国・禁教政策により国外に出ること自体が違法とされた。家族との対面さえ許されず、そのまま牢獄に送られた。
彦太郎はさらに日本人の魂である髷を切り、さらに異人の衣装を身にまとっているのだから、帰るとなると厳罰は避けられなかった。キリシタンの服装をまとって、異国風に染まるのは日本人を捨てることを意味した。
船上での出来事に関しては連帯責任が適用された。一人でも違反者が出ると全員が咎を受けなければならなかった。彦太郎が牛肉を食べたとき仲間たちに大騒ぎされたのはそのためもあった。
(つづく)
次回投稿予定 1月24日




