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10.第一章(漂流)---驚愕

   8.第一章(漂流)−−−驚愕


「船が着くまでにゃあ、日にちはどれぐれぇかかるかのう」


 ひそひそ話しをしていた仲間の一人が言った。


 これを聞いた彦太郎はさっそく近くにいる船員をつかまえ、身振り手振りでたずねた。

 男は腕の上に頭を乗せて寝る仕種をしたあと、手の指を四十一回折って見せた。彼のジェスチャーは全員に通じた。


「何じゃと、四十二日じゃと。そんなアホな」


 長助が呆れたようにつぶやいた。


 他の仲間も信じられぬといった様子で顔を見合わせた。


 日本では外洋航海といっても沿岸航行しか考えられなかった。大洋横断などは想像も及ばない事柄だった。五十日以上も流されたのだから、どこか異国の沿岸近くで拾われたと思い込んでいた。


《ぐるりが海ばっかしで、何にも見えんちゅうのに、真っ直ぐ行く先に向こうとると()うた。いつ頃着くかも分かっておるようじゃ。まるで神業じゃ》


 船乗りでない彦太郎にしても仲間たちの驚きが理解できた。


 船長室から出て、さらにいろいろな部屋を案内された後、彦太郎たちが後部甲板に集まっていると、例の十七八歳の裸足の若者がやってきて、彦太郎に手招きしながら何事か言った。


彼は一番年若に見える彦太郎に親しみを感じたらしかった。彦太郎はちょっと不安だったが素直に後に従った。連れていかれたのは食料品の貯蔵庫であった。


 彼は茶褐色のふわふわした蒲鉾状の物体を半分に裂き、その片方の断面に、傍らにおいた器の中から、黄色のねばねばした糊状のものを包丁に似た箆ですくい取り、塗り付けた。そしてさらに澄まし汁みたいなものを薄皿に用意した。


「蒲鉾」はパン、「糊」はバター、そして「澄まし汁」はスープであった。彼は給仕人のようであった。


 彼は彦太郎の前で、自ら小さくちぎった切れ端にバターを付け、食べたあと、スープを匙ですくって口に入れて見せた。自分の真似をしろと言っているのだった。彦太郎はパンはバターの臭いが鼻につき食べる気がしなかった。


彦太郎はそのパンを着物の袖にしまい込んだ。後で捨てるつもりだった。スープだけ飲むことにした。中には豆と角切の褐色の物体が入っており、何かを小さく千切ったものが数片浮かんでいた。スープは湯気を立てていた。初めて嗅ぐ匂であるが、得も言われぬよい香りであった。


 彦太郎は角切の物体を先に平らげた。動物の肉片らしかった。程よい固さで、歯に心地好くまとわりついて、何とも言えない美味な味がした。スープも一気に流し込んだ。


 仲間のもとに引き返して一部始終を話すと、彼らは大騒ぎを始めた。


「そりゃあ牛の肉に(ちげ)ぇねぇぞ。彦ドン、おめぇ大変(えれえ)もん食うたのう」


「次の世に生まれ変わったとしても、おめぇは人間にはなれねぇ」


「犬猫みてぇな四足の獣にしか生まれ変われねぇぞ」


 仲間からの執拗なまでの脅しに楽天的な彦太郎もさすがに沈み切った。


「ほな、ワシ如何(どねえ)ぇにしたらエエんや。助かる道はねぇのか」


「助かる術は一つ。身を清めることじゃ」


「七十五日の間、祈りも、お寺参りも、神様へのお供えもんも全部つつしまねぇといけねぇぞ、彦ドン」


「よその国の船の中でもか? 寺もねぇし、供えもんも出来(でけ)へんぞ」


 彦太郎の筋の通った反論に仲間たちは口をつぐんだ。


《「知らぬが仏」と言うぞ。大海のど真ん中を走る異国の船の中のことまでは、いくらお釈迦様でもご存じはねぇぞ。口を水で清めておけば大丈夫(でえじょうぶ)じゃ》


 彦太郎は気を取り直すと一目散に水槽代わりの樽のところに走り寄り、手を清め口をすすいだ。

《知らずにやったことで御座(ごぜ)ぇます。どうかお許し下せぇ》


 先ほど開きは直ったものの一抹の不安が残り、彦太郎は心のなかで手を合わせた。


 彦太郎が仲間の元へ戻るとまた何かを議論している。彼らが眼顔で示す辺りに視線をやると、キャプテンと一人の船員が並んで、甲板の離れたところを行きつ戻りつしている。


船脚(ふなあし)の速さを調べとるンじゃろ」


「歩き回っとるだけやったら、船の進み具合は分からねぇぞ」


 彼らはキャプテンたちが甲板を行き来する訳を推論しているのであった。


 日本では船員が甲板を散歩する習慣はなかった。弁才船(北前船)形式の和船は広い甲板をもたず、胴の間に荷物を積み上げる構造だった。


 キャプテンたちが細長い眼鏡のようなものを出して東の方角を覗き始めたとき、漂流民たちはまた囁き合いを始めた。


 船長たちが覗いていたものは望遠鏡だった。当時の日本では天文航法は知られていなかった。沿岸走行であるから、実際の方角と位置を確かめるには陸地を遠望すればよかった。


 二人は覗き眼鏡をおくと大きな書物を持ち出し、何やら言葉を交わしながら帳面に書き込み始めた。亀蔵が恐る恐る様子を見に行っていたが、何食わぬ顔で引き返してきて言った。


「おかしなことやっとるぞ。波の数を書き込んでおるわい」


 亀蔵はペンで横書きされている英語の筆記体を、波の写生と勘違いしたのであった。暇つぶしに絵を描くぐらいなら、何も遠眼鏡を使わなくてもよい。


彦太郎は確かめるためにキャプテンのところに行ってみた。それは波の絵などではなく異国の文字のようであった。寺子屋のお師匠さんに、西洋の文字だといって幾つか教えてもらったことがあったし、先ほど船長室で見せてもらった地図に確かよく似た文字が書かれていた。


一様でなく変化にとんだ斜めの波形は、船長たちの喋る言葉の調子の上げ下げと声の強弱に似ていて、何か意味をもつもののように思われた。太さは違うが、習字の稽古のときに筆で書く日本の文字を横書きにしたものを連想させた。


 数日たった朝食時のことだった。彦太郎たちが食べ始めて間もなく誰かが叫んだ。


「亀蔵。獣の肉を食うたら罰が当たる()うたンはおめぇやろが」


 彦太郎をさんざん非難し脅えさせた当の本人が、塩漬けの牛肉を美味そうに食っている。

そのときまでは彦太郎以外はまだ牛肉を敬遠していた。


「異人の文字じゃと見破った彦ドンにワシは感心したぞ。ワシも彦ドンの真似をすることにしたンじゃ。郷に入れば何とかと()うしのう。それに、まあ一遍食うてみぃ。こねぇに美味(うめ)ぇもんワシ初めてじゃあ」


 亀蔵の言葉が引き金になり、他の仲間たちは一斉に肉切れに飛びついた。コックの唐人が何事かと調理室から顔を出したが、まもなく事情を飲み込んだらしく、日本人たちの騒ぎをにこやかに眺めていた。


 同罪の連れができてすっかり意を強くした彦太郎は、もはや食べた後に手を清めたり口をすすいだりすることはなかった。


 彦太郎はじめ栄力丸の乗組員たちにとっては、見るもの聞くもの何もかもが珍しい物事ばかり。栄力丸の遭難と漂流はすでに遠い過去の出来事に思われた。


故国に残した家族や知り合いのことは記憶にさえ上らなかった。彼らの頭から片時も離れなかったのは自分たちの行く末であった。


 縁もゆかりもない漂流民十七人が、どうして異人に親切に扱われるのか腑に落ちなかった。精一杯太らせてから食べるつもりに違いないと本気で信じるものもいた。

                                  


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