1.プロローグ
歴史的事実と異なる記述があればご指摘ください。
文学的ご批判歓迎いたします。
相模の海の輝きの向うに
―祖国を追われた日本人・ジョセフ・ヒコ―
プロローグ
「浄世夫彦之墓」
東京・青山霊園の「外人墓地」にある彼の墓は顔を近づけないと墓碑銘が読めない。無縁墓であるのと、排気ガスによるものだろう、仏式の墓石の表面は薄汚くすすけ、墓全体が寂れ果てている。これは西洋式霊園のなかで彼の墓だけが三段墓石の仏式であるという異様さにもよるのであろう。
墓石の主の名はジョセフ・ヒコ(幼名・彦太郎)。幕末近く。十三歳のとき、太平洋を漂流中に米国商船に拾われ、アメリカに渡った彼は、九年間の米国滞在中に英語を習得するとともに、欧米の先進文化を吸収し、帰国の途につく。彼には新生日本とアメリカとの掛け橋となる大望があった。彼は上海で、領事館開設のため日本への途上にあったアメリカ総領事T・ハリスに偶然出会い、合衆国通訳として雇われる。
青年外交官として帰国したヒコは、アメリカ領事館開設時における場所決定などの幕府との折衝、生麦事件など攘夷派志士たちによる多数の外国人殺傷事件の解決、咸臨丸の渡米時におけるアメリカ側護衛艦隊との打合せ等々、通訳としての目覚ましい活躍をする。
領事館を辞してからは、長崎のグラバー商会との共同事業に参加する一方で、木戸孝允や伊藤博文たち維新の元勲にアメリカ型民主主義を説き、三度目の渡米に際しては南北戦争中のアメリカ第16代大統領リンカーンに謁見する。また、文化面ではわが国最初の日本字新聞を創始し、かつ「新聞」という用語を考案する。そして、リンカーン大統領暗殺のニュースを真っ先に報じる。
アメリカ国籍をもっていた彼は晩年、日本人として葬られることを熱望する。しかしヒコの帰化は認められなかった。1897(明治30)年、ヒコは心臓病のため61歳で、外国人として死去する。ヒコの国際舞台における幾多の華々しい活躍、そして日本の文化発展に尽くした赫々たる功績を思えば、彼の報われない晩年はあまりにも惨めで不釣合いである。
“SACRED TO THE MEMORY OF JOSEPF HECO WHO DIED DEC 12TH,1897 AGED 61 YEARS”
墓石正面上端に彫られた英文の墓碑銘は、ヒコにとって祖国がいかに遠かったかを物語っているように思われる。
同時代、同じような運命をたどり帰国後、日米の交流に貢献したアメリカ帰りの漂流民としてはジョン・万次郎が有名である。幼年時代に「偉人の話」や学校の教科書で読んだ人は多いだろう。ところがジョセフ・ヒコについて知る人はきわめて少ない。
彼の出身地・兵庫県播磨町でも彼の名前は知っていても、彼の具体的な業績となると詳しく知る町民は多くはない。私自身彼の存在を知ったのは、私が五十歳のとき彼の出身地近くの学校に赴任してからだった。
幕末維新におけるヒコの我が国への関わり方は、ジョン・万次郎とくらべて少しも遜色ない。むしろヒコのほうが大きいとさえいえる。
兵庫県播磨町では近年ジョセフ・ヒコを記念して、地元小学校の校庭および彼の生家跡近くの海岸にそれぞれ顕彰碑を建て(60年と74年)、同町中央公民館前庭に彼の胸像を据えた(85年)。これに対し万次郎の出身地土佐清水市は、彼がかつて過ごしたアメリカ・フェアヘブン市との間で高校生の短期留学制度を発足させ(88年)、06年からは「ジョン万祭り」を毎年開催している。
この祭りは、87年よりフェアヘブン市が二年に一度実施している祭りの日本版である。ちなみにフェアヘブンの市立図書館の一角には万次郎のコーナーが設けられており、皇太子時代の天皇陛下(87年)が訪問され、政治家の小澤一郎氏も訪れたという。
ヒコと万次郎の扱われ方のこの際立った違いは一体どこから来るのだろう。ヒコは帰国後日本人女性を娶ったが、子どもに恵まれず家系は絶えた。他方、万次郎は子孫が代々先祖の偉業を語り継ぎ、彼の恩人ホイットフィールド船長の子孫たちとの交流が現在まで続いていると聞く。子孫同士の交流の有無というような些末的見地からではこの違いは説明できない。
無縁墓であるから、その荒れようは致し方ないとして、本人の希望に反してヒコが外国人墓地に葬られるしかなかったという事実が、祖国に受け入れられなかった彼の姿を象徴している。私の故郷は兵庫県の西播磨、ヒコの出身地は東播磨。ヒコは私にとっても郷土の英雄である。彼の功績に正しい光を当てることが同郷の後輩としての責任であろう。
ヒコが日本社会に受け入れられなかったのは何故なのか。それぞれの時代背景を意識しつつ、彼の足跡を自伝風にたどることにより明らかにしてみたい。彼を知る資料はきわめて少ない。不明な部分は筆者自らの体験(英語教師・二度のアメリカ生活)で補うことにした。




