終わりは新たな始まりとかよく言うけれど、つまり、始まりは何かの終わりということなんだろう。……例えば平穏な日常とか
「ねぇ……ヤらせてよ」
静音が僕に覆い被さるように這い寄る。陶器のような白い肌は赤く紅潮し、熱っぽい虚ろな眼は僕の顔を舐める様に見つめていた。
生殺与奪を管理する、捕食者の眼だった。この場合、喰われる哀れな獲物は僕だ。静音の長い黒髪が僕の腰の周りに垂れる。
「静音、落ちついて?考え直さない?ほら、僕達は」
「恋人、でしょ?」
僕の腹に馬乗りになりながら、くすりと妖艶な微笑を溢す。腹に感じる、温かい、少し湿った感覚。若干幼さの残る少女の相貌と相まって、それは絶大な背徳感さえ感じさせた。このはだけた制服を見たら、『優等生の静音』しか知らない学校の先生方は卒倒するんじゃないだろうか。
何故こんなことになっているのか。恐らく、先程口にしたジュースに何か入れられていた。睡眠薬の一種だろう、気がついたらこの通り自室でベッドに固定されていた。
あっは、静音のお茶目さん☆彼氏の飲み物に一服盛るなんてねっ。なんて言ってる場合じゃない。このままじゃヤられる、なんとか気を逸らさなければ。
「し、静音?明日の予定は」
「枝凪……恋人同士、ベッドの上…ヤるのは不自然かな?」
駄目だ、話を聴いてくれない。眼が完全にイってますよ静音さん。心なしか息づかいも荒い。
「不自然以前に、彼氏に一服盛ってベッドに手錠で固定するという犯罪行為に疑問をおぼえようか」
僕の当然の指摘にキョトンと首を傾げる。可愛いなチクショウ。
「わひっ!?」
脇腹を突然走り抜けた感覚に、奇妙な声を洩らしてしまう。クスクスと笑う静音の反応に、僕の頬は羞恥を覚えて赤く染まる。どうやら、くすぐられたらしい。にらみ返す僕は、あまりに無力だ。今の僕は目の前の少女に完全に支配されていた。
静音がこれ見よがしに、自らの白魚の様な指に舌を這わせる。ツウ、と唾液のヌメりが線を引き、僕の視線を奪った。息が詰まる。 「枝凪……枝凪に拒否権はないんだよ……?判るよね?契約、したんでしょ?」
「………」
「枝凪は私の想いを受け入れなければならない。受け入れざるをえない」
湿り気を帯びた静音の右手が、僕の首にかかった。そのまま僕の顔を覗き込むように前のめりの体制に移行、右手に体重を預けて呼吸器官を圧迫する。
「――カッ、ハ……し…ず…ナァ……や、め…」
呼吸を奪われて喘ぐ恋人に、静音はニコリと天使の様な微笑みを送った。『聴きたい言葉はそれじゃない』と言うことか。…ああ、今日はどうやら詰んだようだ。逃げ場がどこにもない。このまま渋り続けた所で、結末は替わらないだろう。同意してヤられるか、同意せずにヤられるか。形だけでも撰ばせてくれるのは彼女なりの優しさなのかもしれない。
被害をより少なくするためには、僕のちっぽけな尊厳やら自尊心やらを護るためには、結局静音を受け入れる他なかった。
「……っ…た…」
「うん?イエスかハイしか聞く気はないよ?」
選ばす気なんてなかったようだ。流石は静音さん、ヤると決めたら情なんて欠片も与えないねっ!
ゲンナリしながらも、僕はゆっくりと一度だけ頷いた。
「あっ…ハァ……」
僕の返答に、静音は愉悦を顔全体に滲ませて眼を細める。右手に益々力が込められ、あまりの圧迫に意識が飛びそうになった。が、ギリギリで力が緩められたお陰で気を失う事は出来なかった。
静音の左手が、自らのスカートの中に差し入れられる。モゾモゾと悩ましげな動きで潜り込み、ナニかをまさぐり始めた。
静音の顔が、互いの吐息がかかる(あくまで比喩だ。僕は首を絞められているから息を吐けない)距離まで近づけられる。
まるで神が自らの手で造り上げた様な、隔絶した美しさを持つ少女はスカートの中の手を動かす度に「んっ…ふぅ…」と抑えるような声を洩らした。
そして、スカートの中手を引き抜く。その手にはよく磨がれた、鈍い輝きを放つ手斧が握られていた。
(ああ、やっぱ嫌だなぁ……でも、もう遅いか)
漸く首から手を離し、体を起こす静音。斧の横腹を自らの熱を帯びた頬に当て、にっこりと呟いた。
「じゃ、殺ろっか」
小振りな斧の柄を両手で握り、高々と振り上げる。そんな見とれてしまうようないい笑顔の彼女に僕は、
「――ゲホッ……い、痛くしないでね♪」
と、せめてもの懇願を溜め込んだ肺の中の空気と共に溢した。無理は承知の上だ。
「あはは、えーい☆」
躊躇なく降り下ろされる凶刃。
簡素な部屋にナニかが砕ける生々しい音と、鮮血が飛び散った。
さて、どこから話そうか?いや、勿体ぶるわけじゃない。
あー、うん、まず第一に。
この僕、三ノ宮 枝凪は不死身だ。ゾンビよりゾンビでアンデッドよりアンデッド、頭を銀の弾丸で撃ち抜かれようが心臓を白木の杭で貫かれようが白日の下ニンニクで作った十字架で腹を抉られようが死なない。死ねない体質なのだ。元○玉で細胞一つ残さずに消し飛ばされても生き返る男子高校生、それが『僕』こと三ノ宮枝凪(16)である。
僕は産まれてきた時、心臓が動いていなかったらしい。慌てる分娩医を他所に、僕の心臓は『勝手に活動を再開した』らしい。まあ親から聴いた話だから、『らしい』しか言えないのだが。聴いた当時は『ふーん』ぐらいの反応だった。まあ、そんなこともあるんだろーな、程度のありきたりの感想。今思えば、ソレは今に至る片鱗だったのかもしれない。
僕は中学二年生まではごく平凡な、死んだら生き返らない様な普遍的な少年だった。日々学業に悩んで部活動の上下関係を悼み、ちょっとだけ非日常に憧れる。そんな普通の男子中学生。
だった。
良くも悪くも、当たり前なんて波打ち際の砂城の様に脆く崩れ去るものらしい。僕の『当たり前』が瓦解したのは八月十五日、その年の最高気温を更新した、茹だる様な熱い真夏日の事だった。
夏休み、家族で山にキャンプに訪れていた僕は、川からキャンプ場に戻る際に父とはぐれ、森の中で迷子になったのだ。何故迷ったのかは自分でもよくわからない。ロープで区切られた登山道を歩いていた筈なのに、気がついたら鬱蒼とした木々の生い茂る森の中を独りで歩いていた。
呆然とする僕の耳をつんざくのは、蝉の求愛の賛歌と葉群のざわめき。足下を小さな茶色い生き物が駆け抜けた時、漸く『あ、迷った』と直感した。
この時、素直に携帯電話で助けを求めれば良かったのだ。元々そういった事態の為に買い与えられたツールなのだから、活用すべきだったのだろう。だが僕は当時中学生、思春期特有の訳のわからないプライドがあった。『迷子になるなんて格好悪い』『助けを求めるのはもっと格好悪い』
そしてなにより、迷子になった事を他人に知られるのが一番嫌だった。
僕はがむしゃらに森の中を歩き回り、道を探した。しかし、行けども行けども景色は変わらず群青が支配する。胸中に渦巻く不安が、涙腺を緩ませた。
――日が暮れちゃう!嫌だ!!なんでこんな!?怖い、寂しい!!どこ、どこどこどこ!?出口は、キャンプ場は何処!?
もう、自分が何処を駆けているのか判らなかった。ただ、前へ、蜘蛛の巣を突き破り草を掻き分け枝を潜ってひた走る。格好つけた薄いプライドも、斜に構えた偉ぶった態度も、最早空っぽな残響に過ぎなかった。しかしそれはまるで、木の幹に時おり往生悪くへばり着いている蝉の脱け殻のようでもある。
僕はこうまでなっても尚、携帯電話を使わなかった。別に特別な理由はない。単に、使ってたまるかと意固地になっていた。不貞腐れていた、とも言うが。
『――こっちだよ』
「!!」
森の中で突如聴こえた囁き声に、僕は何の疑問も持たずに従った。暁が群青を焼き尽くす様な黄昏の風景に怯えていた僕には、その声は天の導きの様に感じたのだ。
突如開ける視界。
崩れる足場。
反転する視界。
伸ばした手が空を切る。 落ちる、落ちる、落ちる、落ちる。
清流の側を埋め尽くす硬い岩場へと、墜ちる。
――山で迷った僕は足を滑らせて崖下へ転落。即死だった。
一分後には自分の足で立っていた。
僕に『不死身体質』が芽生えた瞬間である。
落ちたのは夢ではない。何故ならポケットの中の携帯電話は無惨に砕け散っていたのだから。
さて、この瞬間から僕は『怪物』に成り果てた。死ぬことのない、打倒されるべき怪物としては圧倒的に失格な怪物に、進化……変化した。実際はその事に気がつくのはもう少し後、『魔女』に指摘されてからなのだが、それは今は関係ないので割愛しよう。
『魔女』曰く、『僕の不死身体質が周りにバレればどうなるか?』答えは簡単、『一生実験動物』。不死身の原理を明かすため、学者は躍起になって僕と言う人間を研究するだろう。しかも死ぬことがないから、非人道的な実験は幾らでも可能。先に待つのは、間違いなく地獄だ。体験はしたくない。
こうして、僕は周りに不死身体質がバレないよう生活する事になった。
これが思ったより大変だった。まず当たり前だが間違っても死んではいけない(正確には、『生き返る所を目撃されてはいけない』)上に、下手に怪我も出来なくなってしまった。何せどんな怪我も一瞬で再生してしまうのだ。骨折した3分後に無傷でブランコに乗ってたら、それはもう新手の怪談ではないだろうか。
『怪奇!不死身の男!?』僕の場合は怪奇より回帰の方が表現としては正しいのだけれども。
まあ、ここは安全な治安国家日本。死ぬことなんて余程運が悪くない限り早々ない。しかも僕は既に一度死んでいる身だ。更に死ぬ確率は途方もなく低いだろう。普通は二回目などあり得ないのだが。
だから油断した。
中学を何事もなく無事に卒業した僕は、町内の【百詞高等学校】に進学した。入学式から一週間、既にグループが確立されつつあるクラスで、僕はなんとか目立たないグループに属することに成功した。
僕の事情をかんがみると、目立つ中心グループに属するのは悪手でしかない。だから、狙ってその立ち位置になったのだ。違う、自然にそうなったとかそう言うんじゃない、僕だってその気になればかなり目立てる。
……例えば、奇声を張り上げながら校舎内をブルマ姿で疾走すればかなり目立つ筈だ。
…………うん、認めよう。こんな思考だから『目立たないグループ』なんだと。手段を選ばないなどと言うレベルではない、初手で自爆スイッチを押すようなものではないか。
何はさておき、僕は悠々自適な死なない為の地味な平穏スクールライフをスタートした訳だった。
だが僕の地味な平穏スクールライフは即効で幕を閉じることになる。
学校一の完璧優等生、平城 静音との邂逅により、僕の物語は漸く動き始める。
血と、汗と、涙と、笑顔。
これは愛しい殺人鬼との物語。○○を殺す物語。
なんちゃって。
「枝凪ん〜購買行かんかね?こ・う・ば・い。時代はカレーパンだよ」
「……乙島、まだ四時限目だよ。授業も始まったばかりじゃないか。というより、さっきお弁当食べてなかったかな?」
「うん、そうだよ〜?だから食後のデザートにカレーパンが食べたいんだよ」
「乙島……少なくとも日本では僕の知る限り、油まみれのカレーパンをデザートと呼ぶ冒涜的な風習はなかったと思うんだ」
「目黒区では食後のカレーパンは当たり前だよ?蛇口を捻ったらカレーが出てくるんだよ」
「謝れ。今すぐ目黒区民とインド人に謝れ」
授業中、背後の席の悪友、乙島との掛け合い。彼女は僕と同じ『目立たないグループ』に属する人間だ。 小柄な体躯にどんぐりの様なまん丸とした眼、栗鼠の様な茶色の髪。まあ美少女と言っても差し支えはないのだろうが、その小学生の様な小ささ故か如何せん目立たない。彼女とは中学が違うため入学式からの短い付き合いだが、既に気の置けない仲となっていた。
なんと言うか、楽なのだ。ぶっちゃけ乙島に女子としての魅力は絶無に等しい。胸はない、背が小さい、やる気が感じられない、運動神経もない、ヘタレ、成績も下の中、その上常軌を逸した食い意地と必殺コンボが続く。可愛らしい童顔も、女子としての可愛さよりも小動物としての可愛さの方が強い。だからか、残念スペック美少女の乙島とは話してても緊張は全くしなかった。
「はあ…乙島、授業に集中しなよ。当てられたらどうすんのさ」
「大丈夫だよ。俺っちは小さいから先生の目には止まりにくいんだよ」
溜め息を溢す僕とは対称的に、ない胸を自身満々にはる乙島。今が授業中でなかったら喉仏にチョップの一つでも打ち込むところだ。見つからないとかそう言う問題じゃないだろう。
だがまあ確かに入学してから一週間、この小さな友人が先生に指された事は一度もない。すっかり僕の影に隠れてしまっている。
「ま、枝凪んはそんな食べる方じゃないから、理解出来ないのはしょうがないんだよ。枝凪んは帰宅部だし、体を動かさないからお腹が空かないんだよ」
「いや、乙島も僕と同じ帰宅部じゃないか。昨日も一緒に帰ったじゃないか。もりもり買い食いしてたじゃないか」
「違うんだよ。俺っちはプライベートで体を動かしてるんだよ?汗をいっぱいかくから、当然お腹も空くんだよ」
「……プライベート…ああ、確かなんか【バイト】してんだっけ?よく知らないけど、そこまでしてお金が必要なのかな?僕らはまだ高一だし…」
「……んふふ〜…俺っちの【バイト】はお金以上に、半分趣味みたいなモノなんだよ。ま、中学時代はソッチに熱中し過ぎて学校で孤立しちゃったんだけど……」
「さらっと言うね」
「まあ過去の事だし気にしてないんだよ。でも、一度知ったら止めらんないだよ。いっぱいお腹を空かしてから食べる、ご飯の味ってヤツは、さ」
授業も終わり、校内が一気に慌ただしくなる昼休み。今までのくすぐったい静寂が嘘のように活気に溢れ、あちこちから賑やかな談笑が響いてくる。なんだあいつら、群れないと死ぬの?なに?兎さんかなんか?寂しいと核融合起こすの?僕なんてひたすらカレーパンを呑み込んでいく悪友と二人きりの窓辺だよ。
購買で買い込んだ大量のカレーパンをゼリーの様にツルツルと食していく美少女と向かい合って教室の自席で昼御飯。うん、青春ってなんだろう。
四時限目終了のチャイムと同時に、乙島は号令を待たずして教室から飛び出して行った。小さく目立たない彼女が姿を消したことに気がついたのは、恐らく僕ぐらいだ。
大量のカレーパンが詰められたビニール袋を両手に携えて戻ってきたのは、その10分後。
「……乙島…それ、ちゃんと噛んでる…?」
「んひゅ?ひゃんひゅひゃんへひゅひょ」
「わかった、僕が悪かった。喋るな、口を開くんじゃない」
無理矢理に返答しようとする乙島の口に、カレーパンを押し込むことで黙らせる。通常なら喉を詰まらせかねないが、彼女に限ってそんな事故は有り得ない。あっという間に呑み込んでしまった。なんか、自動販売機のお札の投入口みたいだ。スルスル吸い込む。
試しに、もう一つ口にカレーパンを近づけてみる。これもあっという間に呑み込んでしまう。やだ、これ面白い。
いつしか、僕は乙島の口にカレーパンを投入する作業に没頭していた。プチプチを潰す感覚に少し似ているかも知れない。ひたすら無心でパンを押し込み続ける。それはカレーパンの山がなくなるまで続いた。最後の一つを押し込む時には一抹の寂しさのようなものを覚えていた僕は、密かに明日もやらして貰おうと決意したのだった。案外癖に……と言うより、なんだか日課になりそうで少し怖い。
「ん……ごちそうさまだよ、枝凪ん。いやぁ、楽で助かるんだよ」
「はは……ん?なんか廊下が騒がしくないか?」
互いに食事を終えて、まったりくつろいでいた僕たちの耳に飛び込んできたのはいつもと異なる喧騒。いつものばか騒ぎではなく、ざわつきと動揺、憧憬の波だ。
どうやら廊下に誰かいるらしい。それも、それなりに有名な人が。
「ん?乙島、誰か来てるみたい。見に行ってみる?」
「んにゃ〜遠慮するんだよ。俺っちは人込みは嫌いだし、何より今はお腹いっぱいで動きたくないんだよ」
それに、と気だるげに言葉を続ける。
「声を聴くに、騒ぎのお姫様は平城静音だよ。俺っちの嫌いなすーぱーリア充様だよ。わざわざ会いに行く道理がないんだよ」
「平城、静音?誰?」
首を傾げる僕に対し、信じられへん!と大袈裟にのけ反る乙島。し、仕方ないだろ、知らないんだから。
「……枝凪んが僅か一週間前の入学式の事を覚えてない事に驚愕なんだよ…ほら、入学試験で全教科満点を叩き出して首席合格したあの平城だよ。新入生代表で挨拶した」
「あー……僕、入学式寝てたからなぁ…わかんないや」
「入学式で居眠りするヤツとか初めて見たんだよ……容姿端麗、成績優秀、スポーツ万能とまあ、今や百詞高校一の有名人なんだよ破裂しろ」
「つまりは僕達とは縁のない相手ってことだね」
そう言うことなんだよ、と瞠目する乙島。どうやら、お腹が膨れたら眠たくなったらしい。どこまでもマイペースなことだ。普通、友人をそっちのけで昼寝を始めるだろうか?いや、ソレを堂々とする乙島という少女だからこそ、僕も気が楽なのだが。互いに気を使わない仲、である。
自らの右腕を枕に、ふにゃ、と陽光を浴びながら心地良さそうに寝息をたて始める。こうして鑑賞する分には愛らしいのだが、実態が残念過ぎるんだよなあ…。
ヨダレを垂らす乙島の柔らかな頬っぺたをプニプニつつきながら、辺りを見渡す。正直、暇だ。愛しい悪友は夢の中だし、地味グループの僕には他に親しい友人がいない。だから昼休みは退屈で仕方がなかった。
「……図書室でも行くかな」
ボッチ定番の溜まり場でのんびり腐るとしよう。校内で最も怪我をしにくく、注目が集まらない。正に僕に打ってつけの場所ではないだろうか。僕は悪友が日焼けしないようカーテンを半分ほど閉め、すっかり人の減った教室を悠々と後にするのだった。
『願うのは平凡な日常だ、なんてありふれた決まり文句だろう。つまり、願うのは誰でも同じことなのだ。即ち、停滞した現状からの脱却。私は人を水と例える。流動しながら、常に姿を変える水と例える。変化なければ腐るのみ。人は……』
「なにこれつまんない」
パタン、読んでいた本を閉じる。格好つけて哲学本を手に取ったのだが、すこぶる退屈だった。どうやら僕にはライトノベルか漫画の方がよほど性にあっているようだ。
伸びをしながら、時計を確認する。昼休みも残り僅かとなり、図書室の中は既に人が疎らになっていた。
(乙島…ちゃんと起きたかな?次は移動教室だし、早めに準備しなきゃいけないんだけど……)
呆っとそんな事を考えながら、本を棚に戻す。そう言えば先程気になる本も見かけたし、放課後にまた来てみるのもいいかもしれない。
『……これで最後だな…ったく…拳のヤツ…またサボりやがったな』
「ん?この声は……」
ふと、本棚の向こうから声が聴こえてきた。よく知った声だ。まさかこんな所で会うとは…折角だ、挨拶ぐらいしておいた方が良いだろう。僕は棚を迂回し、その向かい側に足を運んだ。
そこに居たのは、バインダーを脇に抱えた赤眼の少女。一つくくりに結んだ茶髪を揺らして振り返り、肉食獣を思わせる勝ち気な瞳が僕を貫いた。右袖の青い腕章、間違いない。
「お久しぶりです、前園会長」
前園 雷等、僕と同じ文月中学出身の先輩だ。彼女は鋭い犬歯を剥き出し、快活な笑みを溢す。
「おう、三ノ宮。テメェ久しぶりじゃねぇか。なんだ、ちょっと背ぇ伸びたか?」
「それでも前園会長よりは小さいですけど……あ、高校でも生徒会長やってるんですよね、流石です」
「かっ!!やりたくてやってる訳じゃねーっつーの。最近は色々面倒なゴタゴタが頻発しててな……ネズミ掃除にまで駆り出される始末だ」
「はは、お疲れ様です…今回もその『ゴタゴタ』の一環ですか?」
悪態をつく彼女、その脇に抱えたバインダーを言外に指摘する。
「ん…ああ、そんな所だ。だが今回は比較的楽な案件だったな、もう片付いた」
昼休みまで生徒会の仕事とは、新学期は普段よりも忙しくなるものなんだろうか。ワーカーホリック気味な彼女に畏敬の念を覚えると同時、記憶の中の背中と大差無い【前園雷等】に酷く安堵した。実に自分本意であるが、変化を余儀なくされるこの高校と言う場所において、変わらぬ友人がいるというのは心強い。まあ予想はしていたが。
前園雷等、型にはまらない所か、自分に合わせて型を作り替える度量の持ち主だ。場所が替わった位ではその生き方は変わらないだろう、と後輩一同噂していた。
「あ、そういやいつも一緒にいるドチビはどうしたんだ?」
「乙島は教室でお昼寝です。……ん…乙島と言えば…前園会長、『平城静音』って知ってますか?」
会話を交えながら、ゆっくり歩き出す僕と前園先輩。昼休みも残り僅かなのだ、移動を開始しなければ間に合わない。
「平城?……あぁ、アイツか。どうかしたのか?」
「いや、友人に『知らない方がおかしい』と揶揄されまして」
図書室から退室し、五時限に向けて慌ただしくなる廊下を並んで歩く。自らの無知に項垂れる僕の悪感を、前園会長は「くだらねぇ」と一蹴した。手にしたバインダーで僕の後頭部をバシバシ叩きながら、欠伸を噛み殺す。
「容姿端麗、スポーツ万能、成績優秀……この学園においては珍しくもねぇよ。今は話題性込みでの人気だが、いずれは薄れる。より強烈なヤツなんざゴマンと居るからな」
その最たるものが貴女ですね。恐らく、その『強烈なヤツ』からは自分を除外しているのだろうが、僕は前園会長より強烈な人間を知らない。
「まあもっとも?」
耳にかかる吐息、
「私の勘だと……平城なんちゃらってヤツより、お前の方が面白そうなんだがなぁ?」
「……かいかぶり過ぎですよ…会長と僕では住む世界が違います」
「違わねぇよ。中坊時代からお前には期待してんだぜ?三ノ宮。お前は『なんか違う』からよ」
つってもその『なんか』がわかんねーんだけどな、と破顔。肩を竦めて「精進しますよ」と事も無げに返したが、内心はかなり穏やかではなかった。一瞬、僕の不死身体質がバレているのではと邪推する。恐らくそこまで知られてはいないのだろうが、この人は時おり妙に鋭いから油断出来ない。
僕が不死身の体になったのは中学二年生の時。不死身の僕が前園先輩の下で過ごしたのは実質一年間のみだと言うのに、いったい何をどこまで勘づいているのやら。
「――っと、やべ、もう時間がねぇ!じゃあな三ノ宮、お前も授業遅れんなよ?」
戦慄する僕を他所に、前園雷等は人通りの少なくなった廊下を駆け出した。
……いや、廊下を走るなよ、生徒会長。
放課後、僕らの学舎は吹奏楽部の調子の外れた演奏と、野球部の暑苦しい怒号に支配される。まだ四月半ばだと言うのに、ご苦労なことだ。僕は残念ながら、実に不本意ながら、諸事情により部活動には参加できない。なに、青春は部活だけじゃない。こうして乙島と駄弁りながら校門を潜るのも、充分に青春の一ページと呼べるのろう。
乙島は隣町からバスで登下校している。だからこの町の事をよく知らないから是非とも案内して欲しい、との本人からの要望だった。しかし、普段住んでいる町を案内するというのは気恥ずかしさと言うか、予想以上に不安を覚えるものだ。住み慣れている故に、どこをどう案内すればいいのかよくわからない。
結局、少し大きめのデパートや、中心のランドマークタワーを巡る行脚の旅の終着点は、ありふれたファミレスでの軽食で幕を閉じた。
まあ、カレー二杯にうどん一杯、ピラフを四杯にシーザーサラダ二杯平らげる事を『軽食』と表現して良いのならば、だが。
この一週間で大部馴れたとは言え、自分より小柄な女の子がこの量をペロリと平らげるのはそれなりにショッキングと言うか、冗談みたいな絵面だった。
道中アレだけ買い食いしていたと言うのに、まだ足りないのか。
「いやー、いっぱい歩いたらお腹空いちゃったんだよ」
さいですか。
ドリンクバーのみを注文した僕は、オレンジジュースをカラカラの喉に流し込みながら頷いた。こういうのは深く考えるだけ無駄だろう。世の中には不死身の高校生もいるんだ。大食漢の女子高生なんてまだ健全ではないか。
ちなみに、僕は『疲れ』といったダメージこそ再生するので感じていないが、精神的には疲労を感じている。体は元気でも、『町内を練り歩いた』と言う事実はしっかりと徒労感を与えてくれた。お陰で今日はよく眠れそうだ。
「そう言えば、枝凪んはここ最近この町で起きてる一連の事件は知ってる?」
うどんを完食した乙島が切り出す。満腹になって体も重くなったのか、机に突っ伏しながらも顔を持ち上げて言葉を続ける。
「ほら、最近ニュースで話題騒然の『連続殺人事件』ってやつだよ」
「……ん、まあ知ってるよ。流石にね……」
「いやぁ怖いね〜。犯人は未だ不明!男なのか女なのか!子供なのか大人なのか!個人なのか複数なのか!現代の切り裂きジャック!!……なんて騒がれてるけどさ、俺っちは言うほど事件の事を聞いたりしないんだよ」
確かにそうだった。連日ワイドショーはこの話題で持ちきりだと言うのに、報道特番が組まれるほどに世間の話題をさらっていると言うのに、その町に住んでいる僕達はさほどこの事件の事を知らなかった。ニュースキャスターが読み上げて、ようやく事件に気がついたぐらいだ。だから、酷く現実感が湧かない。テレビに連日写し出される住み慣れた町が、まるで見知らぬ遠い町に感じていた。
しかし少なくとも、この事件の奇妙さは認知している。
もう14人も殺されていると言うのに、犯人に関する手がかりが全く掴めないなんて有り得ないはずだ。だが、重要なのはソコではない。
『なぜ、この町では全く話題にならないのか』
普通、これだけセンセーショナルな事件が我が町で起これば暫くは話のネタになる筈だ。だと言うのに、僕はその片鱗さえ…いや、ボッチだから会話に参加できていないとかそう言うのではなくて。
「俺っちはさ、町の一部が丸ごと『犯人』だと推理するんだよ」
「よくわからない。日本語で言ってよ」
「……例えば、だよ?」 一息
「例えば、住んでる区の人がみーんな口を合わせちゃえば、『殺人』に協力しちゃえば、証拠は出ないし、話題に上がらないことも説明がつくんじゃないかな?」
いつのまにか、太陽は傾きかけていた。
少しずつ夕闇が、黄昏が町を萌やしていく様な逢魔ヶ時の風景に身を震わせる。まるでナニカに町が浸食されているような、おぞましささえ覚えた。ファミレスの大きな窓から射し込んだオレンジの陽光が黙りこくる僕達の顔を紅く染める。
「……乙島、いくらなんでも不謹慎じゃないかな?憶測で言うような内容じゃない」
直ぐに返せなかったのは、一瞬納得してしまったから。だから、この言葉は自分に言い聞かせる様なニュアンスも孕んでいた。乙島は束の間口どもった僕に首を傾げ、ニパッと笑顔を浮かべて「はーい、ゴメンナサイだよぉー」と茶化した。
話題を変えるべきだと思い、代わりの話を振ろうとしたが悲しきかなボッチの習性。何を話せば良いのかわからない。そしてソレは向こう《乙島》も同じ様だった。
沈み行く太陽に目を細めて微笑むその紅顔には、ありありと『ヤベ、話題ミスった!!』と書かれていた。露骨に汗をかいて肩が震えている。うん、ボッチ同士だから沈黙はしょうがない事だ(安心)。
ふと話題を思い付いたのか、ハッと目を開いて窓から目を離して僕を向く乙島。……くっ、先に思い付かれただと!?リア充度はあっちが上手だと言うのか!?。
脳裏によぎる光景は、ドングリの着ぐるみを着た僕と乙島が身体測定している姿。なんだこのイメージは、何が言いたいんだ。
「しっかし磯松先生も鬼畜だよ。明日までに数学問題集10ページだなんて、入学直後にやる量じゃないんだよ」
「………………………へ?」
「へ?じゃないんだよ。枝凪んの中学はそんなに勉強勉強なトコだったの?俺っちのトコはユルユルだったんだよ」
「いやいや、『へ?たった10ページっしょ?』的な『へ?』じゃないからね!?数学問題集!?なにそれ!聞いてないよ!?」
脳が今日一番の回転を開始。朝からの記憶を必死に遡る。しかし、どれ程探っても目的の記憶は見当たらなかった。どう言う事だ?なんで、いや、もしかしたら乙島の勘違い――
「枝凪ん、五時限目寝てたからだよ」
謎解明。
僕の馬鹿野郎。
「嘘だろ………?数学問題集、机の中に置きっぱなし…」
愕然とする。そんな僕に気がついたのか、ニヤリンと口角を吊り上げて嫌らしく笑う乙島。くそ、凄い良い笑顔だな!!今日一番じゃないか!!
「あー残念だよー俺っちはバスの時間がおしてるから同行出来ないやーあー本当に残ねブッフゥ!!」
「クッソォオオオ!!」
全力で頭を抱える僕と、そんな僕を全力で嘲笑う残念ボッチロリ。楽しそうで何よりだよ。
「アッハハ…は……はぁ…」
ポン、抱えた頭に置かれたのは乙島の小さな手だった。暖かい、柔らかなその手は若干汗ばんでいる。心なしか、僅かに震えている様にも感じた。悪友の突然のスキンシップに、弛んだ空気が耐熱。童女にしか見えないクラスメイトに頭を撫でられているという状況に気恥ずかしさを覚えたが、次々に溢れ出てくる疑問符が全ての感情を覆い尽くしてしまう。
結果、硬直。僕はただ頭に置かれた小さな温もりに縛られていた。
動けない。動くという選択肢をかき消されてしまう。
「枝凪ん」
まるで幼子に語りかける母親の様な柔らかい声色。いつもの生意気な乙島とは似ても似つかない、優しく慈愛に充ちた声が僕の鼓膜を震わせた。
「……ね、やっぱ俺っちも付いていってあげよっか?忘れ物取りに、さ。……ほら、独りは…最近物騒だよ。俺っちはバスに間に合わなくなるケド……枝凪ん家に泊まらせて貰えば問題ないんだよ……?」
それは鼓膜から甘い蜜を流し込まれているような感覚。
――ああ、なんて素敵な話だろう。頭がふわふわする。そうだ、独りは危ないんだ。もう日も暮れる。だから乙島と二人で、二人きりで学校に取りに戻ればいいじゃないか。しかもその上、一晩中乙島と一緒に居られるんだ。良いこと尽くしだ。断る理由なんて何処にもないんじゃ――
『お前はなんか違うからよ』
突如よぎる、前園先輩との会話。瞬間、覚醒する意識。フワフワと羊水の中を漂うような心地よい感覚を振り切り、正しく脳が働いて正しい答えを導きだす。
「――いや、大丈夫。乙島に迷惑をかけるわけにはいかないよ」
頭を上げると、小さな手がビクリと震えて滑り落ちた。改めて見つめた悪友の顔は夕焼けに紅く染め上げられ、
何処か、寂しげだった。
始めて見る表情に、揺らぐ。だが乙島の事を心配するならば、このまま帰した方が安全なのだ。そうだ………
「僕は大丈夫だから」
僕が殺されることなど、万に一つもあり得ないのだから。
「……うん、もしもし?俺っちだよ……うん、うん、そうだよ……うん、枝凪んは引っかからなかった。コレ、君の時は効果抜群だったのにね〜……おう…怒るなよ……俺っちも自分の不甲斐なさにうちひしがれてるんだよ?慰めの言葉をくれてもバチは当たらないと思うんだよ。……ん……あの様子、どうやら、『ライオン』のお手つきだったみたいなんだよ。ほんと、あの生徒会長様は抜かりないんだよ……まあ、支障はないから大丈夫。……枝凪んは学校に戻ったから」
沈黙
「……枝凪んには悪い事をするかなぁ……まぁしょうがないよね。大団円の為に、だよ」
「――男見せなよ?my friend」
赤い階段をを下る。漆喰の白壁をキャンパスに、太陽が橙色の塗料をぶちまけて染め上げていた。校内にはもう殆ど人の気配はない。時間にしては静かな学舎に、まだ完全下校時刻ではない筈だが……と愚考する。が、直ぐに答えにたどり着いた。くだんの連続殺人事件だ。
物騒な事件が起きているだから、暗くなる前に帰るのは当然だろう。僕は何を当たり前の事を…苦笑。
ふと足を止めた僕が見上げるのは、踊り場の窓から仰ぐ紅い空。まるで血の様に赤い夕暮れに目を細める。既に日は消えかけている……どうやら、家にたどりつくのは日が完全に沈んでからになりそうだ。兎に角目的の問題集は回収した、ならば長居する必要性は皆無だろう。僕は再び階段を下り始めた。
下る。
しかし、乙島はちゃんとバスに乗れただろうか?またどこかで買い食いしていないだろうか。
下る。
まさかとは思うが、今日も【バイト】とやらはあるのだろうか。だとしたら悪い事をしたかもしれない。無駄に歩き回させてしまった。疲れてないといいが。
下る。
前園先輩は相変わらずみたいで安心したな。前園先輩と工藤先輩の黄金コンビ、また見てみたいものだが……そう言えば工藤先輩と一緒に居ない前園雷等も、思えば珍しい。
下る。
平城静音、ね、図書室に向かう途中にチラリと見かけたけど、まあ稀に見る優等生って印象しか受けなかったな。比べるわけではないが、前園先輩の方がよっぽど特別ではないだろうか。可愛い優等生、だけならありふれている。
落ちる。
「……へ?」
踏み出した右足が空をすり抜けた。体重は全て踏み外した足にかけられている、故に踏ん張れない。
ああ、僕は馬鹿だ。小学生だって知ってることだろ。
『階段でボーッとしているのは危ない』
三ノ宮 枝凪、二度目の死因は不覚にも一回目と同じ様だった。つまり『落下による頭部強打により死亡』
油断した。平穏な日常を送っていた僕は、知らない内にこの世界の理不尽さを、そしてなにより自らの迂闊さをすっかり忘れてしまっていたらしい。誤って階段を踏み外した僕は、当然頭を強打。首の骨を折ってしまった。直ぐに再生したが。
やれやれ、と頭をふって立ち上がる。人が少なくて良かった。昼間なら誰かに見られていただろうから、言い訳が出来ない。不謹慎だが、こればっかりは連続殺人犯に感謝だ。生徒が早く帰る風潮を作ってくれてありがとう。
バサリ。物音が僕の思考を止める。
振り替えると、踊り場で呆然と目を見開く少女と目があった。腰元まで届く艶やかな黒髪、柔らかな陶器を思わせる白い肌、驚愕に染まる黒曜石の様な瞳。沈む夕陽を背後に、平城静音が立ち尽くしていた。普段であれば、僕も見とれてしまっていただろう。それほどまでに、彼女は美しかった。だが、今はそれどころじゃない。
息が止まる。時間が動き出す。
――ヤバイヤバイヤバイ!!見られた!!どうする!?終わった?なんでここに!!口封じ!?駄目だ、そんなこと出来ない!!嫌だ!?
「――…ね、ねぇ……君……今の、ナニ?え?死ん……だよね?え……今、首が……血が……へ?」
「――ッ!お願い!!誰にも言わないで!お願いだから、なんでもするから、だから!!」
クソッ…クソクソ!!どうする…どうするどうするどうする!?よりにもよって!平城静音に!?『成績優秀』な『首席合格者』に!!誤魔化せない!!
ゆっくり、恐る恐る階段を下りてくる静音。今すぐにこの場から逃げ出したい衝動に駈られたが、辛うじて形を保っている理性で押さえつける。今逃げ出しても意味がない、寧ろ懐疑に追い討ちをかけるようなものだ。涙腺が緩む。人気者の彼女がこの事を誰かに話せば、噂は瞬く間に拡散するだろう。そうなれば僕の人生は終わりだ。
静音は僕とは違い、慎重に階段を下りきる。密かに『同じ様に足を踏み外してくれれば』と考えていた自分に気がつき、吐き気を催した。 「君……!確か、三ノ宮枝凪……君!?」
鈴の様な凛とした声が僕の名を告げる。なんで僕の名前を…くそ、よくわからないけど、そこまでバレているのならばもう絶望的だ。名前さえ知られていなければ、追及を交わすこともまだ不可能ではなかった。だが駄目だ、詰んでる。絶望に崩れそうになる膝を必死に奮い立たせた。意味はあまりないのかもしれないが、へたりこんでいては交渉も何もない。
「死んで……生き返った?……君……もしかして、『人間じゃない』、の、かな……?あはは……なんて…まさかね……でも……」
「……に、人間だよ…くっ、信じて貰えないとは思うけど……僕はその、『死なない』体質なんだ。つまり、えと……コレを話されると……困るって言うか……お願い!!この事は、どうか、誰にも言わないで!!なんでもするから!!」
「死な、ない?」
「そう、だからこの事は……!」
「――いいよ」
抱きつかれた。頭が真っ白になる。
うわ!?柔らかい、髪めっちゃ良いにおい!!いや、なんで!?て、てか、顔が近い!?いや柔らかいモノがァアアアア!?
「その代り……条件が二つ」
――条件?どんな、いや、秘密にしてくれるってこと?いやそもそもなんで僕は学園一の美少女に抱きつかれているんだいゃっふぅ。……いやなんだ本当にコレは。夢か、夢なのか。いや、それより条件って……
「まずは一つ、私の彼氏になること」
間
………………マジすか?
私=Me=平城静音=①
彼氏になる=couple=付き合う=②
=①+②=A、平城静音と僕が付き合う。
証明終了。ふむ、なるほど……。
「喜んでっ!」
即答だった。静音はそんな僕に対して、クスりと微笑みを浮かべる。なんか恥ずかしい。どうやら、度重なる過重な負荷に僕の頭はすっかり正常な判断力を失っていたみたいだった。今、自分が何をしているのかさえよくわからない。
「もう一つは」
「もう一つは?」
あ れ?なん か腹 が
暑 い
腹部に走る痛み。視線を下げると
静音のほっそりとした手が僕の腹に深々とカッターナイフを突き立てていた。
「もう一つは、私が殺したい時に殺されること」
「……マジですか……」
ぐりぃ、とカッターの刃が抉られる。あまりの痛みに悲鳴を上げようとたが、その口を静音の口で塞がれた。
「――〜〜!?!。!?????!!」
………あれ?なんだコレ?なんだ静音の顔がこんなに近いんだ。なんで僕は静音に刺されているんだ。……あぁ、そうだ、僕は静音に刺されたんだ。じゃあ、この、口に感じる柔らかな感触は……!?!!
その光景は、はたから見れば恋人同士が仲睦まじく抱き合い、熱い口づけを交わしているようにしか見えなかっただろう。(カッターは傍目には見えないような角度と場所に刺されている。実際、この時に女子生徒が後ろを通ったのだが、女子生徒は顔を赤くしてその場を足早に通り過ぎただけだった)
「ぷはっ……ふふっ…」 口を離すと同時に、カッターナイフを引き抜いた。呆然とする僕の目の前で、赤く濡れた刃に舌を這わせて血を舐めとる静音。赤みを帯びた頬は、恐らく夕日のせいだけではないだろう。
子供と大人の中間、まだ若干のあどけなさを残した少女が醸し出す蛇の様な蠱惑的な雰囲気に、思わず唾を飲み込んだ。僕の血を舐めとる赤い舌、チラリと覗く白い歯、トロンと陶酔した目、紅潮した肌。
「は、ははは……」
平城静音の印象?誰だよ、『可愛いだけの稀に見る優等生』だなんて言ったヤツは。
『可愛くて』『頭が良くて』『スポーツ万能で』『大胆で』『殺人衝動の持ち主』
どうやら、僕の産まれて初めての彼女は不死身の僕にはおあつらえ向きの、殺人鬼だったようだった。
「これからヨロシクね、枝凪」
大変ヨロシクナイ。
クラガリノツブヤキ
「………はぇぁっ!?ちょちょちょ!?ナニコレ!!こんなん想定外だよ!?枝凪ん!?ええ!?………嘘ぉ……うわぁ……うわぁ……しーちゃんとくっついちゃうなんて……俺っち……なんだろ……敗北感…!?……つか、コレ、報告しなきゃ駄目だよね……?……うわぁ…報告したくないんだよぉ……予定じゃ盛大にバトって貰う筈だったのにぃ……枝凪んのアホ〜……いや、予想外だったのはしーちゃんの方なんだよ……思ったより積極的……うわぁ……オシオキは覚悟しなきゃいけないかなぁ……おのれしーちゃん!?リア充の癖に…!リア充の癖に……!!枝凪んはいつか返して貰うんだよ!!て、あ、………あ、あはは、警備員さん、コンニチワ……違、コレはその!深いわけがあるんだよ!!あ、あ――…」