『LIVE THEATER』を終えて――エンターテイナーとしての水樹奈々――
あまりに感動したライブだったので、その理由をじぶんなりに検討してみました。
水樹奈々がキャリア初のアコースティックライブを行う。
横浜スタジアムのライブでこの発表を聞いたとき、ぼくをふくめて多くのファンやイベンターたちはこう思っただろう。
ああ、今回は跳べないのか、と。
アコースティックといえば、ギター1本やピアノ1台を伴奏に取り、ゆるやかなバラードなどをシンプルに聞かせるあの光景を思い浮かべるのがふつうである。メリットは歌をじっくり聞けるということにあり、水樹の歌声をちゃんと聞きたいと、かねてからねがうファンにとってそれは嬉しい機会であっただろう。
しかし、水樹のライブといえば、近年はアップテンポの楽曲に合わせてみんなでサイリウムを振りながらジャンプする、いわゆる「跳び曲」が中心であり、ファンの多くもその一体感を味わうために集っているといっても過言ではない。本サイトにも掲載している拙文「『ETERNAL BLAZE』が呪縛から解放されるとき」でも指摘しているとおり、それはなににも代替不可能なくらい感動的で、特別な体験である。
水樹も、そのことに自覚的だ。
ここ数年、定番化しつつある夏のツアーでは毎度MCのなかで「スパルタ」という言葉を冗談気味に口にする、ときにそれはオーディエンスを煽る絶好の文句にもなる。
実際にライブでは、一体感重視の激しくもノレる楽曲をセットリストに多く組み込んでいる。これは水樹もじぶんのライブの真骨頂が「激熱」 (水樹は「スパルタ」とおなじく、このフレーズをよくライブのMCで用いる)な「跳び曲」にあることをよくわかっていることの証左であろう。また、そういう熱さをファンと共有できることは、水樹にとっても大きなよろこびであることは容易に推測できる。
実際、楽しいのだ。会場が一匹の生き物のようにうごめくのは、見ているにせよ、参加するにせよ、その場にいるものにしかわからない不思議な幸福感がある。
余談だが、水樹のファンとなり、はじめてライブに参加するまでに見た映像ソフトで聴衆たちがペンライトを片手に飛んだり、跳ねたり、あげく一斉に叫んだりするのを目撃して、ぼくは愕然とした。
気持ちわるいと思った。
しかし、どうだ。はじめて参加したライブにおいて、開演をつげるように照明が落ち、聴衆がどよめき、ペンライトが一斉に光りだすのを見るにつけ、ぼくがどう思ったのか。
少し感動してしまったのだ。全身に鳥肌がたつのを感じたことをいまでもよく覚えている。まだ開幕すらしておらず、水樹の姿をいちども見ていないというのに。気が早いはなしである。
水樹のライブにとって一体感は重要なキーワードであり、それを演出するのが「跳び曲」なのだ。
しかし、アコースティックは前述のとおりアコースティックギターやピアノでシンプルに演出するライブである。必然的に、いつもの水樹のライブとアコースティックライブはその性質において対立する。跳び曲とアコースティックは原理的に相容れない。もちろん、通常のライブでもアコースティックコーナーをもうけたり、バラードを歌唱することもあるのだが、しかし、それがメインになることは決してない。
そういうわけで、だれもがアコースティックライブに一抹の不安を感じないではいられなかった。水樹の水樹たるゆえんが消えてしまうのではないか。これがぼくの懸念の正体である。
はたしてぼくたちは、ライブが終わったあとの、あのなんともいえない高揚感と幸福感を今度も無事に味わうことができるのか。少なくともぼくは、その点を楽観視することなど、とうていできなかった。
不満と期待が入り混じるなか、むかえたライブ当日。1月17日。いつものごとく5時間を優に超える殺人的な物販の行列に耐えて、ホテルにチェックイン。同行者のTとともに、今日のセットリストについてああだこうだと議論していた。
1曲目はなにを歌うのか。水樹のライブでほぼ毎回、歌われている「POWER GATE」と「ETERNAL BLAZE」は本来であれば、アコースティックアレンジにはむいてないと思えるが、はたして水樹はその2曲をどう処理するのか。まさか歌わないなんてことはないだろう。はたまた、ぼくたちはライブが終わったあと、どういう気持ちでホテルへの帰路についているのか。
率直にいえば、ぼくが抱えていたのは不安だった。
準備を完了し、会場に到着。さいたまスーパーアリーナ、スタンド400レベル。つまりは、ステージから遠い席である。
そのぶん、会場全体を見渡すことができる。ステージとの思いのほか長い距離に驚きながらも、キョロキョロとあたりを見渡していた。心なしか、会場全体が浮き足立っているような気がした。みんな、不安なのだ。なにが起こるかまったくわからない。一が出るかバチが出るか。ぼくたちは、落ち着かないようすでライブのスタートを待った。
開演時間を5分ほど過ぎて、客入れのSEが消えて、照明が落ちる。これを合図に、ファンたちはいっせいに歓声をあげて、立ち上がる。同時にブルーのペンライトの海が会場を覆う。いつものライブでは、それがおなじみの光景だった。
今回はちがった。歓声はあがった。青にも染まった。しかし、そここであたりを見渡し、ようすをうかがうファンの姿があった。
そもそも、立ち上がっていいのか。アコースティックライブなのだから、着座にてゆっくり聴くべきではないのか。こんなにそぞろな空気は、水樹のライブに2010年から参戦し続けて、はじめてのことだった。異様だった。
だが、少しだけ安心した。
やっぱり、みんなどう振る舞っていいのかわからないのか。考えることはおなじなのだなと、自然と笑みがもれた。
はなしを先取りすれば、ぼくは1曲目は立って聞き、2曲目は座って聞き、最終的にいつもどおり立つことを選択した。そうしなければ、たたでさえ見えづらいモニターが、さらに遠くなってしまうからだった。もし、ぼくがスタンドのもう少しステージに近いブロックにいたならば、座っていた可能性もある。いま思えば、それもわるくない経験だったかなとも思う。
はなしをもとに戻そう。落ち着かないファンのまえにひとつの映像が映し出された。水樹のライブでは定番の演出であるオープニングムービーだ。この映像は、毎回のライブタイトルに応じたものが用意され、1曲目へのプロローグとして観客の興奮を煽る。
『LIVE FLIGHT』なら一見、古風だが最新鋭の設備を積んだプロペラ戦闘機に水樹が乗り込み発進する(ちなみにこのときは、直後の1曲目に映像と同じ戦闘機に乗った水樹が登場した)。『LIVE ACADEMY』ならブレザー姿の水樹の登校風景といったように。
今回フューチャーされたのは教会。そして、いつもにはない演出として声優の能登麻美子のナレーションが加わる。どうやら、今回はストーリー性が強いようだ。
そして薄暗い教会にひとり立つ水樹演じる『少女』・ナナ。ナナはおもむろにメロディを口ずさむ。たったひとりで。はやいはなしが、水樹は己のライブをひとつの歌劇に見立てたのである。だからライブタイトルに『THEATER』が冠せられていたのだ。ライブはそのまま、少女の成長物語であったのだ。
会場にパイプオルガンの音が鳴り響く。しかし、いつものようにギターやベースの音は続かない。ビートを刻むドラムもいない。オルガンひとつ。ステージ中央にはいつの間に現れたのか水樹の姿。
まちがいなく、それはアコースティックライブだった。こちらも予想していなかったくらいまっとうなアコースティックライブ。結論を先取りしていえば、ライブ全体は「アコースティック」の意味を限界まで拡張し、その表現の可能性を模索した公演だった。大げさな表現を使えば、そういうことになるが、オープニングはまだぼくたちが通常想像するようなそれであった。
曲は「Trinity Cross」。テレビアニメ『ロザリオとバンパイア CAPU2』のエンディングテーマだった楽曲である。
まことに気の早いはなしだが、ぼくはこの曲を聞いている段階で、今回のライブの成功を確信した。前半でだらだらと書き綴った「跳び曲」がないことの不満もきれいさっぱり消し飛んでいた。杞憂。そもそもくだらない悩みだったのだ。あとから振り返れば、ぼくはなにをあんなに心配していたのだろうと笑えてくる。どうしようもなく、感動していたのだ。さいたまスーパーアリーナーに美しく、そしてせつなく響く水樹の声に。
そして、ぼくはあることを再認識した。
ああ、ぼくはこの人の『歌声』に惚れていたんだ、と。
なんのことはない。当たり前のはなしである。水樹が跳び曲を歌うかどうかは、些末な問題でしかなかった。肝心なのは、水樹の歌声をぼくが堪能できるかだけにある。その意味で、アコースティックライブはまさに絶好の機会だった。
しかし、このことだけでは、ぼくが今回の『LIVE THEATER』を生涯最高のライブであると言い切ることはできなかったであろう。ぼくは、水樹の歌声をかみしめることができたこととおなじくらいに、彼女のアコースティックの解釈に感動したのだ。
いまさらながら、ここで「アコースティック」の意味を確認しておこう。実用表現日本語辞典によればそれは「電気を使用しない楽器を用いた演奏」のことである。主にエレクトリックギター、エレクトリックベースなどの電子楽器に対する意味で用いられる言葉である。つまり、「アコースティックライブ」とは平たくいえば、「電気を使わない生楽器だけで構成されるライブ」ということになる。
しかし、ここで水樹は「アコースティック=生楽器」という図式そのものを拡張してみせた。
歌声と手拍子。
人体は楽器である。
そういうテーゼを水樹は提示してみせたのである。
人体そのものを楽器と見なした水樹は、さまざまな試みで己の「アコースティックライブ」を演出していく。自らの「楽器」としての歌声を存分に生かした歌唱に、ゲストボーカルに歌手のSuaraや声優の保志総一朗、速水奨をまねき、コラボレーションを披露する。彼らの歌声という「楽器」を借りて。
いちぶのファンは、今回のライブを褒めたたえながらも、「ゲストはべつにいらなかった」と言うが、私にしてみれば、それは水樹の狙いを正確にくみ取れていないということになる。水樹は水樹なりに、電子楽器がないことによるパワー不足を補おうとしたのだ。さまざまなアプローチで「楽器」を増やすことによって。
さらに、ライブ後半ではタップダンサーたちがパーカッションの役割を担い、アコギ4本とアコーディオンという恐ろしく変則的な構成で「Orchestral Fantasia」を歌った。水樹もイントロと間奏でタップを披露し、聴衆を驚かせた。ここでも「人体は楽器である」というテーゼがさく裂したのだ。
私はこれらのアイデアに大変驚かされた。そして申し訳なくも思った。
これほどすばらしいエンターテイメントを見せてくれる水樹なのに、どうしてぼくは彼女を信じられなかったのだろう。水樹奈々はいつだってぼくたちファンの期待を軽々と超えて行って、新しい地平を見せてくれたではないか。
同時に、水樹はふつうのアコースティックライブを期待したファンも決して見捨てはしなかった。ライブ全体が少女の成長物語であると書いたが、それはあくまで楽曲を演出するうえでスパイスにおさまるもので、音楽をしっかりと聞かせるという本来のテーマをけっして邪魔するものではなかった。絶妙なバランス感覚だと、ここでもぼくは感動した。
さらにアンコールでは、通常のライブとおなじように、ぼくたちを跳ばせれくれた。跳び曲を電子楽器を用いて、ゴリゴリと鳴らしたのだ。ファンはたまっていたエネルギーをぶつけ、水樹の気持ちに応えた。まさに全方位死角なしの公演だった。
しっかりと歌を聴かせるという本来のアコースティックが持つ効能と、エンターテイナー・水樹奈々のステージとしてのアコースティック。その両方を同時に彼女は達成してしまったのである。文句のつけようがないほど、すばらしいライブだった。




