「ETERNAL BLAZE」が呪縛から解放されるとき――『NANA MIZUKI LIVE THEATER 2015――ACOUSTIC』――
そういえば今日(1月21日)は、奈々さんの誕生日でしたね。おめでとうございます。
「ETERNAL BLAZE」(以下エタブレと併用)が歌われなかった。
「ETERNAL BLAZE」は2005年10月19日にキングレコードから発売された水樹奈々のシングルで、オリコンシングルチャートで声優歴代最高(当時)となる2位を獲得し、水樹を一躍スターダムに押し上げた記念すべき楽曲である。
また同曲は『魔法少女リリカルなのはA’s』の主題歌であり、いわゆる「燃えアニソン」の系譜に連なる楽曲としてアニメソング史上に残っている。
当然、エタブレが持つそんな記念碑的要素、アニメの人気、楽曲自体の魅力もあって、2015年現在においてもファンからの人気は極めて高い。2014年1月に2日間開催された『NANA WINTER FESTA』の人気投票においても、堂々の2位に輝いている 。水樹自身も、エタブレに強い思い入れを抱いているらしく、同曲は発表以来、すべてのライブで歌唱されており 、ファンにも「POWER GATE」(2002)とならぶ定番曲として認知されていた。
そんなエタブレだが、先日開催された『NANA MIZUKI LIVE THEATER 2015――ACOUSTIC――』(1月17日・18日)でついに歌われなかった。2日間ともに、である。
この一件は、ライブそれ自体の完成度や満足感とはべつの意味でファンに衝撃を与えた。たしかに今回はタイトルにもあるとおり、アコースティックライブである。だから、壮大なストリングスとエレキギターが絡み合う情熱的なナンバーであるエタブレは、そのコンセプトには不似合いだという見方はあった。
しかし、それと実際に歌われるかどうかはまたべつのはなしである。
なんだかんだで奈々さんはエタブレを歌うだろう。もしかすると、エタブレをアコースティックにおいてこれまでにない解釈を施し、ぼくたちを驚かせてくれるかもしれないという期待とも安心感ともつかぬ感情がファンのなかにあったことは否定できない。
そんな予定調和を待つような油断が、後述するエタブレに対する惰性の原因になった可能性は高いが、それはのちの議論にゆずる。
ともかく、ライブ後、ツイッタ―などに溢れたファンの驚きは、エタブレがまさかセットリストから外れるわけはないという確信が、あっさりと打ち破られことに対する衝撃の大きさをぼくたちに教えてくれる。そういう意味で、エタブレは不可侵の「カノン」であり、水樹奈々のライブらしさを象徴するナンバーであったのだ。
率直にいって、ぼくは今回、エタブレがセットリストから外れたことはよかったと思っている。じぶんのファンとしての立ち位置を表明するうえにおいても、あらかじめこのことは言っておきたい。しかし、勘違いしてほしくないのはぼくが決してエタブレが嫌いではないということなのだ。むしろ、大好きである。
2010年の『NANA MIZUKI LIVE ACADEMY』大阪公演で水樹のライブに初参加して以来、ぼくにとってもやはりエタブレは特別の存在で、アンセムであったことはまちがいない。イントロのピアノが流れ、瞬時に巻き起こるファンの熱い歓声。会場全体がウルトラオレンジで輝き、水樹が静かに歌いはじめれば、呼応するように一気に熱く響いていくギターとストリングスの音色。水樹奈々、バンド、ファン。会場が文字通りいったいとなり、熱い熱いステージをつくりあげていく。だれが見たって感動するし、だれが見たってその光景をうらやましく思う。人間はこれほどひとつになることが、はたして可能なのだろうか、と。
しかし、人間は悲しくも慣れてしまう生き物だ。感覚は摩耗し、感性はマヒする。ぼくがあのときに感じた熱いパトスをいまでもエタブレに感じているかどうかは正直いって自信がない。サイリウムを握り水樹の煽りにのってジャンプするとき、はたしてそうしたくてそうしているのか。ただ、いつものパターンにのって「振付」として跳ねているのではないか。大サビまえの間奏で「ETERNAL BLAZE」とみんなで叫ぶとき、それを「いつものパターン」として消化しているだけではないか。そんな疑念が、ここ数年のエタブレのときはいつも脳裏によぎっていた。ぼくはエタブレに、ノレなかったのだ。
それを「マンネリ」と呼んでしまうのはたやすい。たしかにそういう側面も十二分にあるだろう。でも、それよりもエタブレが神聖不可侵の「カノン」と化してしまったことが、そんな惰性的な感情をぼくに引き起こしたのではないかと思えるのだ。
はなしがそれるようだが、なぜ企業や政治団体において「改革」が必要とされているかおわかりだろうか。それは「変化のないものは、例外なく堕落する」という人類社会が長い歴史のうえで見出した真理のようなものがよくわれわれの本能に染みついているからだ。
人間とて、おなじだ。毎日毎日おなじ生活をルーティンで続けている人間と、日々変化に対応しながら新しいことをつぎつぎに行っていく人間、どちらが魅力的であろうか。もちろん、後者である。人間とは、変わることによって成長するのだ。停滞はそのまま堕落へとつながっていく。
エタブレもぼくのなかでルーティンと化し、堕落していた。あえて過激な言いかたをすれば、こういうことになる。それはエタブレが必ずライブで歌われる(とぼくが確信している)ことが直接の原因なのだ。
この意味で、『LIVE THEATER』において「ETERNAL BLAZE」が歌われなかったことはまことに意義深い。ぼくたちファンはすでに気づかされてしまった。エタブレが「カノン」ではないことに。そこは不可侵の聖域ではないことに。
2015年も無事に夏のツアーの開催が発表された。詳細なスケジュールや会場は未定だが、ぼくは今年も水樹の歌を聴きに行くだろう。あるいは、列島を飛び回ることになるかもしれない。しかし、それは去年までのツアーとは大きくちがう。そこで歌われるであろうエタブレは、ふたたび新鮮にぼくの心に響いてくれるだろう。
エタブレは歌われないかもしれない。その可能性を胸に秘めておくと、1回1回を貴重なものとして大事に聞くだろう。全力で跳ぶだろう。カノンではないが、水樹ファンにとってエタブレはやはり大事なものであり、特別な楽曲であるのだ。
エタブレが歌われなかったことにより、結果的にぼくたちは「エタブレ」について深く思いをはせる。その逆説的な状況が、水樹ファンにとってエタブレがいかに重要な存在であるのかを象徴しているのかもしれない。
敬称略。