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浦島太郎の巻

今日はめずらしく月のきれいな晩である。ぼくはまた読書をしながら時折、そんなふうにしてカーテンを開けたままの窓から南中をむかえた満月を眺めていた。


とその時、膓をえぐるような激しい痛みに襲われた。


腹痛である……夕食のカレーライスを食べすぎたせいだろうか……ぼくは二階にある自分の部屋からとび出して、階段を転げ落ちるかのように駈け降り、いつもより重たく感じる玄関のドアを開け放った。


あと数歩左に行けば、わが家の粗末な造りの厠にたどり着く。だが、またしてもそこには難関が待ち構えていた。


いや、待ち伏せていたのだろうか。それは、テレビで観たことのあるゾウガメのように大きい海亀であった。ゾウガメではなく、海亀であろうと判断したのは足である部分があきらかに水中生活に適した鰭であったからである。その鰭で人間のように地面と垂直に立っている様は滑稽でもあり、何より自分の目を疑いたくなるのであった。


すると、その海亀は小さな口をほころばせて気味の悪い笑みを浮かべ、「あなたは浦島太郎様に間違いありませんね」と言う。


あまりの唐突な発言にぼくは首を傾げるでもなく、仏頂面で「はぁ?」と答える。


海亀はなおも曰くありげな笑みを浮かべている。目じりには三本の横じわが玄関の照明に照らされてくっきりとみえる。よく見ると顔中シワだらけだ。


それとつり合いの取れない少年のような声でまた何か言った。


「申し遅れてすみません。わたくしは竜宮城から御使いで参りました海亀の亀吉に御座います」


やはり、海亀であったか。


しかし、そんなことはどうでもよくて、一時停止をしていたぼくの腹痛はタイムアウトをむかえたらしく、再びぼくに厠に入ることを促した。


ちなみに厠というのは便所の古い言い方である。梅林が密集しているぼくの家の近所はみな家の外に便所があるせいか、昔からそれを厠と呼ぶのであった。


正直なところ、梅林と厠にどんな相関関係があってこのような現象が起きているのかは判じかねる。ここで議論するつもりは毛頭ないので、そのことについてはこれ以上触れない。


それよりもぼくはもう限界なのである。


「おい!そこにいるとぼくが入れないだろ。どいてくれないか」


すると、海亀は何を思ったのか戸を開けて厠の中に入ろうとした。


ぼくはそれを阻止しようと、海亀に再度忠告する。


「いったい、何を考えてるんだ!ぼくはどけって言ったじゃないか」


「二人で入れば怖くないのであります。それから、わたくしの名は亀吉。亀に吉日の吉……」


「気違いか!早くどけっ!どけったら」


「仕方ありませぬ。どいて差し上げましょう。明日の宵の口に出直してまいります。では、失礼」


そう言うが早いか、向こうの路地に向かっておよそ海亀とは言えないような速さで去っていってしまった。


そして、この日の夜は何事もなかったかのように床について寝てしまった。




翌朝、目を覚ますと大変なことが起きていた。カーテンを開けて窓越しに外を見遣ると、一面が青い海になっていたのである。頭が一瞬真っ白になった。しかし、どういうわけか次の瞬間変な妄想が浮かんだ。


「ドッキリ成功!あなたが見ているのは本当は青い空なの。わたしの言ってることわかる?」


ちょっとわけがわからなかったが、見たこともない女がぼくにそう囁いているようだった。さらに、この言葉が現実であれば助かるのにとすら思ってしまった。


しかし、現実はそう甘くないのであった。それどころか、ハバネロが大量に入った激辛カレーを口に入れてしまったような朝である。


(朝っぱらから激辛カレーなんて御免だ……)


またしても、わけのわからぬ思考が頭の中をぐるぐると廻っている。混乱しているに違いない。昨日の海亀のことを忘れたと思ったら、これだ。


しばらく、布団の中にもぐり込んで(これは、全部夢だ。布団から出たら、いつもの風景。いつもの風景……)と自身を暗示にかけ、大きく頷いた。


そして、再び布団から出た自分に失望した。わかっていても、なお失望するのであった。


それに気づいたことがある。


外は大海原が拡がっているとみられるがそれにも関わらず、海水が自分の部屋まで浸水してこないのはなぜだろうかということである。


それが気になったので、恐る恐る部屋の窓に手をかけてみた。


すると、ぼくの部屋の窓はいつもと変わらない拍子抜けしたような音を立てて、ゆっくりと開いたのである。海水は少しも浸水してこないし、窓にかかるはずの水圧さえ感じられなかった。


「どうなってるんだ、これは!」


ぼくは思わず、驚嘆の声をもらした。


これはどう考えてもおかしすぎる。絵本か何かで見るおとぎ話の世界に迷い込んでしまったようである。いや、現実に溶け込んだというべきなのか。いずれにしても、自分の両目を疑いたくなるのであった。こんなことはもちろん、生まれてこの方二十数年来はじめてである。

ぼくには驚きの色が果たしてどんな色なのかわからなかったが、もしぼくがこの場でそれを定義して良いものならば、今見ているこの景色―つまりはこの海の色だと言わしてもらいたい。


しかし、頭の中のもう一人の自分がそんな下らないことを考えているのだったら、行動しなさいとでも言ったのであろうか。ぼくは突如、何かに取りつかれたようになり、窓枠に足をかけて外に飛び出したのである。


普通だったら、地面に落下して足に異常をきたすはずだ。二階だから骨折はしないだろうが、地面に墜突した衝撃で足にひびが入るような痛みを感じてもおかしくないはずだ。


しかし、ここは海の中なのだろう。身体はゆっくりと海底へ降りたった。もちろん、足には何の衝撃も痛みも感じない。


それともうひとつ、不思議に思ったことがある。海の中であるはずが、肺呼吸ができるということ。


これは確か……幼い頃に読んでもらったおとぎ話の絵本の世界にありがちなことであったが、まさかあれは特殊な目に見えない透明の酸素ボンベでも背負っていると想定して描いていたのではあるまい。

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