悪役令嬢が何かを知らないまま全力で悪役令嬢をやったら、微笑みの公爵様に貰い受けられました
悪役令嬢ものを読んだことがない作者が書いた、悪役令嬢を知らないヒロインのお話です
「フラン。お前の婚約者が決まった」
夕食のスープを口に運んだところで、父は唐突にそう言った。
「お相手は、クライス・ヴァルト公爵閣下だ」
ヴァルト公爵。この国で知らない者はいない大貴族である。領地は広く、兵は多く、そして噂では、顔もすこぶるいい。
対して我がモリス男爵家は、下級貴族の中でも下のほう。庭の畑で採れたカブが食卓に上がる程度に、慎ましい家だ。
普通なら、スープを吹くか、椅子ごとひっくり返るところだろう。
「……そうですか」
私は静かにパンをちぎった。
「…………」
父が、じっと私を見ている。
「驚かないのか?」
「驚いています」
「そうは見えんぞ」
「驚きすぎて、一周回っているのです」
苦しい言い訳だったが、父は「そうか」とだけ言って、それ以上は聞かなかった。ただ、眉間のしわは深いままだった。
「それと、公爵閣下のたってのご希望で、国王陛下にも祝いの席へお越しいただくことになった。陛下とは旧友でな、快く承知してくださった」
「それはそれは」
パンの味がしない。
本当のことを言うと、公爵様との婚約より、もっと大きな問題が私の頭を占めていたのだ。
三日前に降ってきた、あの啓示のことである。
*
異世界に転生して十六年。下級貴族の長女として穏やかに暮らしていた私、フランのもとに、ある夜、神様からの啓示が下った。
『悪役令嬢となり、王国の危機を回避せよ』
……そこまでは、まあ、よかった。
問題は、その後だった。
この神様、プライバシーというものにまったく関心がないタイプらしい。
食事中だろうが睡眠中だろうが、果てはお風呂の最中だろうが、思いついたことを片っ端から啓示してくる。
部下に思いつきの指示を飛ばし続ける、あのダメ上司のムーブである。
『でな、ここで悪役令嬢ムーブをだな、こう、ぐわっと! あ、いや、その前に伏線をだな……』
湯船で聞かされた。
『よくある悪役令嬢ものの流れで言えば、ここで婚約破棄のフラグが……いや待て、先に断罪イベントの説明をしたほうが……』
寝ているところで聞かされた。
そして、とにかく説明が下手だった。
話があっちへ飛び、こっちへ戻り、自分で言ったことに自分で感心して満足げに笑い、急に「汝よ……」と威厳のある声を出そうとして盛大に咳き込む。
客観的に見て、かなり残念な部類の神様である。
こんなことを神様に思うのは不敬だけれど、あの夜、私がまともに理解できたのは、最初の一行だけだった。ごめんなさい、神様。
悪役令嬢となり、王国の危機を回避せよ。
王国の危機のほうは、何ひとつ分からない。
それより何より、問題は。
(悪役令嬢って、なに!?)
神様は「周知の事実」みたいな顔で何度も言っていた。「よくある」とも言っていた。ということは、常識なのだろうか。みんな知っているのだろうか。私だけ知らない感じ?
前世の記憶を探ると、確かに流行っていた気はする。けれど私はライトノベルを読まなかったし、アニメもメジャーなものしか見なかった。知識は、ゼロである。
(……いや、嘆いていても始まらない)
小さい頃の私は、幼稚園でも学校でも、劇のたびに木の役ばかりだった。そのたびに落ち込んでいた私に、お母さんは言ってくれた。
「どんな役でも、一生懸命やればきっと誰かが見ていてくれるよ。楽しみにしてるね」
その言葉を道標に、この世界でも努力してきた。
(悪役令嬢が私の役なら、全力でやりきってみせる!)
こうして私は、中身を何も知らないまま、悪役令嬢になることを決意したのだった。
*
敵を知り己を知れば百戦殆うからず。
……と、前世のどこかで聞いた。悪役というのも、きっとまず相手を調べるものだ。特撮の悪の幹部も、だいたいそうしていた気がする。
「マリー、クライス公爵様について、知っていることを教えてちょうだい」
侍女のマリーが、洗濯物を抱えたまま目を丸くした。
「お、お嬢様が殿方に興味を……!? ええと、そうですね、お酒がお好きだと聞きます。王都の酒場でも有名で、利き酒で負けたことがないとか」
「ふむ」
私はメモを取った。『酒好き』
次は庭に出て、庭師のトマスじいさんに聞く。
「クライス様は、狩りの名手ですな。特に弓。一度狙った獲物は、逃したことがないそうで」
「弓……」
『狩猟好き、弓の名手』
最後は台所だ。料理人のラニおばさんが、鍋をかき混ぜながら教えてくれた。
「賭け事もお好きでね。しかも、とにかく負けず嫌い。勝負を挑まれたら、絶対に断らないんだって。どんなに不利でも」
「どんなに不利でも?」
「そう。それで勝っちゃうんだから、嫌になるよねえ」
『賭けごと好き。負けず嫌い。挑まれたら断らない』。
メモを眺めていると、マリーがぽつりと付け加えた。
「あと、王子殿下とは、王立学院の同級生だったそうです。昔は仲がよかったらしいんですけど、今は……」
「今は?」
「……あまり、その、仲が」
マリーは言葉を濁した。
王子の話になると、屋敷の人たちは決まって声をひそめる。理由は分からない。けれど、メモに書き足しておいた。
『王子殿下、要注意』
お酒。弓。賭け。負けず嫌い。挑まれたら断らない。
並べてみて、私は考え込んだ。ここまでは、我ながら悪くない調査だと思う。
(つまり、こういうことね)
クライス様は、勝負を挑まれたら絶対に乗ってくる人だ。
(悪役は、人を煽るもの。……よし、煽ろう!)
「お嬢様、なんだか楽しそうですね」
「ええ。とっても悪い顔をしているでしょう」
「いえ、いつものお顔です」
……悪役への道は、まだ遠いようだ。
*
舞踏会までの三週間、私は毎週のように公爵邸へ通った。
婚約者との顔合わせ、というのが表向きの名目。本当の目的は、悪役令嬢としての「実地修行」である。
(悪役たるもの、まずは嫌がらせの基本から!)
*
一週目。
通された応接間で、クライス様は穏やかに微笑んでいた。銀の髪に、非の打ちどころのない礼儀作法。噂以上の美形だ。
(ひるんではだめ。悪役は、ひるまない……!)
出されたお茶を一口飲み、私は言い放った。
「このお屋敷のお茶、薄いですわね!」
空気が凍った。控えていた使用人たちの顔が、さっと青ざめる。
「…………」
クライス様が、ぱちりと瞬きをした。
それから、肩を震わせて笑い出した。
「いや、失礼。……屋敷の者は誰も、私に意見を言わないものですから。久しぶりに、本当のことを言われました」
「え、あの」
「淹れ直させましょう」
「いえ、私が淹れますわ!」
勢いで台所に立って、淹れ直した。お母さんに教わった、ちゃんとしたやり方で。
一口飲んだクライス様は、目を丸くした。
「……美味しい」
(あれ? おかしいな……悪役っぽい嫌がらせのはずが)
帰りの馬車で首をかしげた。
後で聞いた話だけれど、その日、公爵邸の使用人たちは「旦那様が声を出して笑われた」と大騒ぎになっていたらしい。
*
二週目。
今日の嫌がらせは、「勝手に書斎に入って荒らす」である。
流石にちょっと悪役すぎる気がするけれど、悪とは躊躇わない者である……と誰かが言ってた気がする。
案内役の目を盗んで、重い扉をそっと開けた。
……荒らす、つもりだった。
けれど書斎は、息がつまるほど空気が淀んでいて、机の上には書類が山になっていた。壁には、矢の跡だらけの古い的と、勝ち星ばかりが並んだ勝負の記録。
(ちょっと、空気が悪すぎない?)
とりあえず窓を開けようとして、固く閉ざされているのに気づいた。蝶番が錆びている。実家の窓と同じ癖だ。
持ち上げながら、枠の角をこつんと叩くと、ぎい、と音を立てて窓が開いた。
新しい風が入ってきたところで、廊下から足音と話し声が近づいてきた。慌てて扉の陰に隠れる。
「……殿下の動きですが」
老いた声。家令のゲルハルトさんだ。
「やはり、討伐の名目を探しておいでです。婚約の王命を拒めば、反逆。受ければ、屈服。どちらに転んでも、公爵家を潰す手筈かと。……それと、近頃は隣国の使節が、殿下の周りをうろついております」
「承知している」
クライス様の声だった。さっきまでの穏やかな響きとは、少し違う。
「手は打ってある。陛下に、祝いの席へお越しいただく。……あとは、殿下が自ら尻尾を出す機会があれば」
「その機会が、ございますでしょうか」
「……ない、今のところはな。されば、作るしかあるまい」
足音は書斎に入ることなく、遠ざかっていった。
(討伐? 名目? 王命?)
難しい話みたいだ。
ただ、一つだけ分かった。王子は、やっぱり要注意である。
私はそっと窓から抜け出して、庭を回って玄関へ戻り、何食わぬ顔でお茶会に合流した。悪役はスパイもこなすものなのだと思う。たぶん。
*
三週目。
「あなた、いつも勝負に勝つそうですわね。つまらない人!」
最後の嫌がらせは、庭のベンチで放った一言だった。
我ながらひどい。言ってしまってから、ちょっと反省した。
けれどクライス様は、怒らなかった。
「そうですか?」
「そうですわ。勝つと分かっている勝負なんて」
「……皆さん、私に勝たせてくださるのですよ。公爵相手に、本気で挑む者はいません」
穏やかな微笑みのまま、ぽつりと言った。
「学院に通っていた頃は、殿下と毎日のように競いました。あの頃は、互いに本気でしたが」
それきり、黙ってしまった。
なんだか、胸のあたりがきゅっとした。悪役だというのに。
「では、いつか私が、本気で挑んでさしあげますわ」
気づいたら、そう言っていた。
クライス様は少し驚いたように私を見て、それから、初めて見るような柔らかい顔で笑った。
「楽しみにしています」
……その言葉が、お母さんの声と重なって聞こえたのは、気のせいだろうか。
ちなみにクライス様は、三週間通っても、私のことを「お嬢さん」としか呼ばなかった。名前を覚えていないのかもしれない。
(悪役のはずなのに、なんだか調子が狂うなあ)
そう思いながら、私は舞踏会の日を迎えることになる。
*
舞踏会を明日に控えた夜。悪役令嬢といえば、やっぱり見た目も大事だ。
悪役というからには怖い感じのはず。高飛車で、傲慢で、ヒーローものの悪の女幹部みたいな。服は原色のド派手なやつで、メイクはキツめ。手には鞭を持って、無意味に小動物を握りつぶして……。
(小動物は無理。かわいそうだし)
代わりに、クッションを握りつぶす練習をした。ふかふかで、全然つぶれなかった。
次に、鏡の前で高笑いの練習。
「おーっほっほっほっ……ごほっ!」
むせた。
何度かやるうちにコツをつかんで、「おーっほっほ」の最後のところで噛まなくなった。進歩である。
舞踏会は、ごく普通の舞踏会らしい。
けれど、悪役といえば仮面だ。特撮の女幹部も、だいたい顔の半分を隠している……気がする。
……それに、顔を隠せるのはありがたい。恥ずかしいので。
その夜も、神様の啓示は容赦なく降ってきた。
『いいかフランちゃん、ここが肝心だ! 舞踏会では、とにかく目立て! 王子の注意を引きつけるのだ! そうすれば公爵が動きやすく……ああいや、これはまだ言っちゃダメなやつだった』
聞き取れたのは、「目立て」の二文字だけだった。
(目立つ……おう、悪役は、誰よりも目立つもの!)
この瞬間、衣装は決まった。
普段の地味なドレスを脱ぎ、一生着ることはないと思っていた、真っ赤で金ぴかのドレスに袖を通す。仮面は、目元だけを覆う、キラキラしたやつ。
鏡の中に、見知らぬ人がいた。
(私は悪役令嬢。私は悪役令嬢。私は悪役令嬢……)
呪文のように唱える。
木の役でもがんばった。なら、悪役令嬢だって、がんばれるはずだ。
「楽しみにしてるね」
お母さんの声を思い出して、私は鏡の中の誰かに、にっと笑ってみせた。
……思ったより、悪い顔にはならなかった。
*
会場は、まばゆい光に満ちていた。
シャンデリア、楽団、着飾った人々。あちこちから、ざわめきが聞こえる。
(あれ?)
会場を見回して、気づいた。仮面をつけているのは、私だけである。
(……まあ、悪役は目立つものだし)
その中心に、二人の男性がいた。
一人は、銀の髪の青年。穏やかな微笑みを浮かべ、立っているだけで周囲の令嬢たちの視線を集めている。クライス様だ。今日も、非の打ちどころのない微笑みである。
もう一人は、少し離れた場所で杯を握る、赤毛で大柄の青年。王子だ。令嬢たちが皆クライス様ばかり見るのが面白くないらしく、杯が、みしりと嫌な音を立てた。
王子の背後には、近臣のザイド様が、影のように控えていた。陰気な顔つきで、目が合うと、にこりともせず深く会釈をした。
(……なんだか、笑わない人だなあ)
(ええと、いきなり行くのが悪役っぽいよね)
私は深呼吸して、赤いドレスの裾をひるがえし、二人の前に進み出た。
「おーっほっほっほ!」
噛まなかった。
「ごきげんよう、お二方。わたくし、フラン・モリスと申しますわ」
「……ほう」
クライス様の目が、一瞬だけ丸くなった。すぐにいつもの微笑みに戻って、彼は言う。
「これは見違えました、お嬢さん。……私の婚約者として、皆に紹介しても?」
「お断りですわ。王命だか何だか存じませんけれど、わたくし、納得しておりませんの。下級貴族の娘などを選ぶなんて」
ざわり、と会場が揺れた。
私は、赤毛の王子をきっと見据えた。書斎で盗み聞きした話が正しければ、この婚約を押しつけたのは、この人だ。
(文句は、決めた本人に言うのが筋よね。それに悪役令嬢といえば、殿方に取り合われるもの……たぶん。特撮の女幹部も、だいたい部下たちに取り合われていた気がする……きっと)
「それに、わたくしが欲しいなら、それなりの勝負をしていただきますわ。クライス公爵様と、王子殿下。お二人で勝負をなさい。勝った方に、わたくしを差し上げます。いかがかしら?」
……沈黙。
遠くで、父が崩れ落ちる音がした気がする。
「……貴様」
王子の声は、低かった。
「余に対し、何と言った」
「ですから、勝負を」
「無礼者! この女を切り捨てよ!」
衛兵が駆け寄ってくる。足が震えたけれど、悪役は怯まないものだ。たぶん。
「控えなさい!」
自分でもびっくりするくらい、大きな声が出た。衛兵の足が止まる。
「……くっ、ははは」
笑い声がした。クライス様が、肩を揺らして笑っている。
「いや、失礼。やはり面白い方だ。殿下、どうです。学院時代を思い出して、一勝負いたしませんか。武勇に優れ、学においても並ぶものなしと謳われた殿下に、胸を借りられればと愚考しますが」
丁寧な言葉なのに、どこか刺がある。王子の頬が、ひくりと動いた。
「……何が言いたい」
「まさか、負けるのが怖いのですか?」
「なっ……!」
(おお、クライス様、私より煽りがうまい)
感心している場合ではない。王子は顔を赤くして、周囲を見回した。会場中の視線が、自分に集まっている。ここで断れば、笑いものだ。
「ふん。余が出るまでもない」
王子は、少し離れて控えていた若い近衛兵を顎で示した。
「近衛隊のレオン。王国一の弓の名手だ。こやつが相手をしよう。そして――」
王子は、唇の端を持ち上げた。
「勝った方が、その娘を得る。よかろう。下級貴族の娘など、余にはどちらでも同じことだ」
嫌な笑い方だった。
でも、悪役としては百点満点だ。私は内心でガッツポーズをした。
「勝負の方法は?」とクライス様が尋ねる。
私は考えていた通りに答えた。
「酒を一杯ずつ飲み、一射ずつ。三射ずつ放って、当てた回数の多い方の勝ちですわ」
「酒を飲んで弓だと?」
王子が、眉をひそめた。
「あら。酔うと外れてしまう程度の腕ですの?」
(お酒が好きで、挑まれたら断らないクライス様。そして、たぶん負けず嫌いの王子。調査結果の総動員である。……それに、お酒が入れば余興っぽくなって、場の空気もきっと和らぐはず)
クライス様の目が、わずかに細くなった。楽しんでいる目だった。よかった。すこし嬉しい。
「承知しました。……面白くなってきましたね」
(やった、乗ってくれた! わたし悪役っぽくなれてる!)
こうして私の、最初で最後の悪役令嬢が幕を開けた。
*
場所は、中庭に移された。
篝火が焚かれ、貴族たちが円を描いて並ぶ。三十歩ほど先に、射手の立つ線。その手前に、的として私が立つ。
テーブルには酒の杯が二つ。公平を期して、お互いが相手の杯に注ぐことになった。
「さて」
杯を受け取りながら、クライス様が微笑んだ。
「お嬢さん。一つ、嫌味を言ってもいいですか」
「どうぞ」
「この勝負、貴女はどちらに転んでも損をしない。私に嫁ぐか、殿下のものになるか。それは賭けとは呼べません。貴女も、何かを賭けるべきではありませんか」
……来た。
それは、最初から決めていたことだった。悪役令嬢の演技は、ここまで。ここからは、私の本当の言葉で言わなきゃいけない。
「言われるまでもありません」
声が、自分でも驚くくらい静かだった。
「何かお考えが?」
「ええ。私が賭けるのは、この命です」
「……何ですって?」
「的は、私が持ちます」
私は用意されていた林檎を一つ手に取り、腕をまっすぐに伸ばした。
そのとき、頭の中でノイズ混じりの声がした。
『……えっ、ちょ、待っ……そこまでしなくて……命は賭け……聞こ……あれ、通信が……』
(神様、いま取り込み中ですので、また後で!)
ひとまず無視した。
どよめきが、波のように広がった。
「正気か!」と誰かが叫び、父がまた崩れ落ちる音がした。王子までが、口を開けて私を見ている。
クライス様の微笑みが、完全に消えた。
「……お嬢さん、本気ですか」
「はい。命を賭けます」
しばらく、じっと私を見つめていた。それから、ふっと息をついて、また微笑みを貼りつけた。
「承知しました。貴女の命、確かにお預かりします」
*
一巡目。先攻は、レオン様。
酒を一気に飲み干し、弓を構える。
腕は確かに、王国一なのだろう。構えに、一切の無駄がない。……けれど。
(あれ、手が震えてる?)
背後から、王子の怒鳴り声が飛んだ。
「レオン! 外したら貴様の首はないと思え!」
弓の弦が、わずかに揺れた。
ヒュッ。
林檎が、私の手の中で砕け散った。果汁が頬に飛ぶ。
(……当たった。生きてる。私、生きてる)
膝が笑いそうになるのを、悪役の気合いで押さえつけた。
新しい林檎をもらうため、テーブルへ戻る。酒を注がれた杯を手にしたクライス様と、すれ違った。
「手が、震えていますよ」
「武者震いですわ」
「そうですか」
クライス様は私の手を一瞥して、それ以上は何も言わなかった。
続いて、クライス様。
酒を飲み干し、弓を構える。迷いのない、静かな構え。
矢を放つ前に、彼の視線が、一瞬だけ私に向いた。
(……? 的が動いてないか、確認したのかな)
ヒュッ。
二つ目の林檎が、粉々に砕けた。矢は、私の手のひらの、ほんの指一本分上を通っていた。
(すごい。細かいところまで正確……)
会場から、拍手が起きた。
よかった、盛り上がってる。
*
二巡目。
新しい林檎を取りに戻ると、杯を手にしたレオン様が、うつむいたまま小声で言った。
「……申し訳ありません。ご婦人に弓を向けることになってしまいました。私のような若輩者の矢では、さぞ恐ろしいでしょう」
近くで見ると、まだ二十歳そこそこの青年だった。額に汗が滲んでいる。
(謝るのは、むしろ私のほうだ。この人をこんな勝負に巻き込んだのは、私なのだから)
「いいえ」
私は林檎を持ち直した。
「あなたの腕は本物ですわ。私、ちっとも怖くありません」
最後だけ、悪役の口調を使い忘れた。でも、それは嘘じゃなかった。いや、本当は少しだけ怖い。でも、この人の矢は怖くなかった。
「……ありがとう、ございます」
レオン様の肩から、少しだけ力が抜けた。
二巡目も、先攻はレオン様。命中。
続くクライス様も、命中。ここまで二人とも二発ずつ。
お酒のせいか、私の頬も火照ってきた。
*
最後の三巡目も、先攻はレオン様から。
「レオン! 外すな! 絶対に外すな! 外したら、貴様の家ごと――」
ヒュッ。
髪が、揺れた。
耳のすぐ横を、何かが通り抜けていった。林檎は、無傷のまま手の中にある。
(……外れた)
会場が、水を打ったように静まり返った。
レオン様が、弓を落とした。膝をつき、顔を覆っている。王子の圧力が、最後の最後で彼の腕を狂わせたのだと、そのときは思った。
私は、動かなかった。動けなかったというほうが正しい。
「レオン、貴様っ!! よくも恥をかかせたな……」
「最後は私ですね」
クライス様が、叱責の言葉を遮り、静かに杯を空にした。それから、王子のほうを振り向いて、にこやかに言った。
「殿下。お手元の書状は、お急ぎで? 先ほどから、ずいぶん大切そうに握っておいでだ」
王子の顔から、血の気が引いた。
(書状? 書斎で盗み聞きした話の続きかな。……難しくて、よく分からなかったけど)
首をかしげる私をよそに、クライス様は矢をつがえた。
ヒュッ。
三つ目の林檎が、砕けた。
「三射、すべて命中。勝負あり、ですね」
拍手と歓声が、爆発した。
私は林檎のかけらを握ったまま、ようやく息を吐いた。
(生きてる。……よかった)
*
「……インチキだ」
歓声のなか、低い声がした。
王子だった。
「インチキだ! この勝負は無効だ!」
王子は、わなわなと震えながら私を指さした。
「貴様、クライスを勝たせるために、的を動かしたな!」
(……え?)
的は、私だ。動かしたも何も、私は一歩も動いていない。
「そうか、最初から仕組んでいたのだな。レオンの矢が外れたのも、貴様の仕業だろう!」
「殿下、それは」
「黙れ!」
王子の手が、腰の剣にかかった。
会場の空気が、凍りついた。
ゆっくり、一歩ずつ、王子が私に近づいてくる。誰も動かない。誰も息をしない。
ちょうどそのとき。
「ひっ……!」
砕けた林檎を片付けていた下女の少女が、恐怖に耐えきれず、後ずさりして――つまずいた。
手にしていた林檎のかけらが、宙に舞って、べちゃりと、王子の上着に貼りついた。
「…………」
誰も、何も言えなかった。
王子の顔が、みるみる赤黒く染まる。
「貴様も……貴様もグルか!!」
剣が、鞘から抜かれた。
下女の少女が、悲鳴を上げて頭を抱える。
そして、王子の剣が振り上げられた。
その瞬間のことは、あまりよく覚えていない。
考える前に、体が動いていた。
気づいたとき、私は少女の上に覆いかぶさっていた。
(あ、これ、死ぬやつだ。そっか、悪役令嬢の最後って……ごめんなさい、お父様、お母さん、わたし上手く演じられなくて……)
目をぎゅっと閉じる。
――カァン!
甲高い金属音が、鼓膜を叩いた。
痛みは、こなかった。
恐る恐る目を開けると、石畳の上に、王子の剣が転がっていた。刀身には、一本の矢が突き刺さっている。
振り向くと、中庭の向こうで、クライス様が弓を下ろしたところだった。
笑っていなかった。
手を押さえた王子が、喚いた。
「クライス、貴様……は、反逆罪だ! 王子であるこの余に弓を向けるとは、反逆罪だぞ! 公爵! 貴様、討伐令を――」
「そこまでだ」
中庭の入口から、杖の音とともに、その声が響いた。
*
白髪の老人が、父に支えられて立っていた。痩せてはいるが、目だけは鋭く、中庭の全員が息を飲んだ。
「ち、父上……」
王子の顔から、一瞬で血の気が引いた。
(あれが、国王陛下……)
父が、息を切らしながら私に目配せした。……そういえば、陛下にもお越しいただくことになった、と言っていた。
国王陛下は、ゆっくりと中庭を見渡した。
砕けた林檎。転がる剣。座り込む少女と、その上に覆いかぶさる私。
「旧友の娘の婚約の宴だと聞いて、祝いに来てみれば」
声は静かだった。それが、かえって怖かった。
「かような失態を、見せられようとはな」
「ち、父上、これは違うのです。この女が、的を動かして――」
「黙れ!」
杖が、王子の頬を打った。
鈍い音とともに、王子が崩れ落ちた。
「公爵から、書状の件は事前に聞かされておった。ゆえに、余は最初から見ておったのだ。的は一歩も動いておらぬ。動いたように見えたならば、すべてを己に都合よく考える、貴様の性根が原因だ」
「ち、父上……」
「友に妬みを向け、旧友の息女に剣を向け、無辜の下女に刃を振り上げ、あまつさえ、余の名を騙った討伐令まで用意するとは。廃嫡されぬだけでも、ありがたく思え!」
(討伐令……? そういえば、書斎で盗み聞きした難しい話の中に、そんな言葉が……)
私は首をかしげたけれど、周りの貴族たちは、息を飲んでいた。
頬を押さえた王子は、よろめきながら立ち上がり、周囲の視線から逃げるように、中庭を駆け去っていった。
「謹慎を命ずる! 部屋から出るな!」
背中に、杖の音が追いかけていった。
国王陛下は、去っていく背中を、しばらく黙って見つめていた。
「……あれの妬みに気づいてやれなんだのは、余の落ち度でもある。友に並び立ちたいと願う子であった。それがいつの間にか、友を引きずり下ろす子になってしまった」
クライス様は、何も言わなかった。ただ、微笑みが、ほんの少しだけ寂しそうに見えた。
国王陛下は、そのままクライス様に向き直った。
「公爵よ。愚息の書状は、余が預かる。そなたに刃は向けさせぬ」
「ありがたく存じます、陛下」
クライス様は、優雅に頭を下げた。
「ただ、愚息にあの書状を吹き込んだ者がおる。討伐の名目を、ささやいた者がな」
「……近臣のザイド殿の姿が、先ほどから見えませんね」
クライス様の言葉に、中庭がざわめいた。そういえば、王子の後ろにいた、あの影のような人が、いつの間にかいない。
「逃げ足の速い男だ。……この件、まだ終わっておらぬ」
国王陛下は、低くそう言った。
(書状、名目、王命……。もしかして書斎で聞いたのは、このことだったのかな)
*
王子がいなくなった中庭に、重い沈黙が落ちていた。
国王陛下が、私の前に歩み寄った。
「娘よ、フランと言ったか」
「は、はいっ」
私は慌てて下女の少女から身を起こし、頭を下げた。
「すまなかった。愚息のせいで、そなたと、そなたの家を危険にさらした。そもそも、この婚約自体が愚息の策略だ。そなたには、何の落ち度もない。……婚約は、無かったことにしよう」
(あ、そうなんだ)
ほっとした。急にいろんなことが重なって、腰が抜けそうだった。
でも、なんだろう。胸につかえる言葉にできないモヤモヤが膨らんだ気がした。
「お待ちください、陛下」
全員が振り向いた。
クライス様が、微笑んで歩み出ていた。
「勝負には、勝ちましたので」
国王陛下が、わずかに眉を上げた。
「……何を言いたいのだ、クライス」
「殿下は、皆の前で仰いました。勝った方が彼女を得る、と。その言葉を、ここにいる全員が聞いています。そして、何よりこの勝負は、彼女の発案に他なりません。」
ざわり、と空気が揺れた。
「約束通り、彼女をいただきます」
(…………え?)
私の思考が、停止した。
「ま、待ってください。陛下のお言葉で、婚約は、白紙に……」
「婚約は白紙で結構。ですが、これは別の話です」
クライス様は、私の前に膝をついた。仮面越しに、視線が合う。
「一つ、伺っても?」
「は、はい」
「なぜ、この場に来たのです。得るものは少なく、失うものは命。まるで帳尻の合わない賭けでしょう」
私は少し、考えた。
「……役割だと、思ったんです」
「役割?」
「私は下級貴族の娘ですが、冬に凍えることも、食事に困ることもなく育ちました。恵まれていました。だから、役割が回ってきたなら、好き嫌いや損得とは関係なく、果たさなきゃと思って」
言ってしまってから、思った。
(ちょっと、カッコつけすぎたかな)
恥ずかしくなって、思わず笑ってしまった。
仮面が、ずれた。
するりと、床に落ちる。
素顔のまま、へにゃりと笑った私を、クライス様はじっと見つめていた。
しばらくして。
「……やっと、悪役の仮面が外れましたね」
低い、素の声だった。
(あれ、今、少し口調が違った?)
次の瞬間には、いつもの微笑みに戻っている。
「私の策には、足りないものがありました」
クライス様は、立ち上がりながら言った。
「殿下が自ら手を出す口実です。私から仕掛ければ、ただの公爵の讒言になる。……あなたは、それを皆の目の前でくれた」
「私が?」
「悪役を気取ったお嬢さんの無礼に、殿下が腹を立てる。賭けに乗る。負けて、逆上する。国王陛下の御前で。……私一人では、あと三年かけても作れなかった舞台です」
(……三年?)
「ただし、命まで賭けるとは、計算に入っていませんでした」
クライス様は、少しだけ眉を寄せた。
「あなたが的に立った瞬間、私の策は全部吹き飛びました。あの時の私は、策士ではなく、ただの射手でした。一本たりとも外せない、と」
「それに」
クライス様は、小さく笑った。
「それから、あの書斎の窓は、十年開いたことがなかったのですよ」
「窓……ですか? そうなんです、うちの窓も、持ち上げながら角を叩くと開くんです」
「……そういう問題ではないのですが」
クライス様は、今度は声を出して笑った。
「それと、もう一つ。レオン殿の最後の矢は、外れたのではありません。外したのです」
「え?」
「殿下に脅されながら、それでも彼は、あなたを撃たないことを選んだ。あなたが『怖くない』と言ったからでしょう。……あの青年の腕を救ったのは、私ではなく、あなたです」
(外れたんじゃなくて、外してくれたの? 私はてっきり、王子の圧力のせいだと)
「私に本気で挑んだ人間は、殿下以来、あなたが初めてだ。皆、勝たせるか、避けるか。命を賭けて挑まれたのは、生まれて初めてでした。……先日、『楽しみにしています』と言ったのは、本心です……失礼。話が長くなりました。では改めて。フラン」
初めて、名前を呼ばれた。
「あなたを、いただきます」
胸のモヤモヤが、すとんと消えた。代わりに、心臓がうるさい。
……さっきの矢のせいだ。きっと。
私は、ぽかんと口を開けて、思わず呟いた。
「あ、あの……悪役令嬢って、そういう話でしたっけ!?」
「さあ。私は、その悪役令嬢というものを存じませんので」
クライス様が、楽しそうに笑う。
そのとき、頭の中に、聞き慣れた声が響いた。
『フランちゃああん! 無事!? 心臓止まるかと思ったんだけど!! 命までは賭けなくていいって、言ったよね!? ……言ったよね!! ええと、その、王国の危機は回避! 結果オーライ!! でもね、悪役って、そういう意味じゃなかったんだけど……』
神様だった。
『ええと、本来の悪役令嬢というのはだな、まず婚約破棄を宣言されて――』
(ごめんなさい神様。肝心なところは、やっぱり聞き取れていません)
『あ、それとだな。王国の危機は、実はもう一つあって、隣の国が――あっ、通信が――』
ぷつり、と声が途切れた。
(……え。今、聞き逃したらまずいことを言わなかった?)
私は聞こえなかったことにして、目の前の微笑みに向き直った。
結局、悪役令嬢が何なのかは、最後まで分からないままだった。
けれど、一生懸命にやれば、ちゃんと誰かが見ていてくれる。お母さんの言う通りだった。
……ただし、見ていた人が、少し多すぎた気はするけれど。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
この話は、妻に「悪役令嬢ものを書いてみたら?」と言われたのがきっかけ作ったものです。
ただ、私は悪役令嬢ものを一作も読んだことがなく、それならいっそ悪役令嬢を知らない主人公にしようと考え、フランが生まれました。
お約束を知らないまま、思いきり的外れに頑張る子が勢いに任せ誰かを救ってしまう。そんな話にしたくて書きました。
ジャンルの定番を外している部分があるかと思いますが、どうかご容赦ください。
少しでも笑っていただけたなら、これ以上の喜びはありません。
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