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悪役令嬢が何かを知らないまま全力で悪役令嬢をやったら、微笑みの公爵様に貰い受けられました

作者: 碧い月
掲載日:2026/10/25

悪役令嬢ものを読んだことがない作者が書いた、悪役令嬢を知らないヒロインのお話です

「フラン。お前の婚約者が決まった」


夕食のスープを口に運んだところで、父は唐突にそう言った。


「お相手は、クライス・ヴァルト公爵閣下だ」


ヴァルト公爵。この国で知らない者はいない大貴族である。領地は広く、兵は多く、そして噂では、顔もすこぶるいい。


対して我がモリス男爵家は、下級貴族の中でも下のほう。庭の畑で採れたカブが食卓に上がる程度に、慎ましい家だ。


普通なら、スープを吹くか、椅子ごとひっくり返るところだろう。


「……そうですか」


私は静かにパンをちぎった。


「…………」


父が、じっと私を見ている。


「驚かないのか?」


「驚いています」


「そうは見えんぞ」


「驚きすぎて、一周回っているのです」


苦しい言い訳だったが、父は「そうか」とだけ言って、それ以上は聞かなかった。ただ、眉間のしわは深いままだった。


「それと、公爵閣下のたってのご希望で、国王陛下にも祝いの席へお越しいただくことになった。陛下とは旧友でな、快く承知してくださった」


「それはそれは」


パンの味がしない。


本当のことを言うと、公爵様との婚約より、もっと大きな問題が私の頭を占めていたのだ。


三日前に降ってきた、あの啓示のことである。


*


異世界に転生して十六年。下級貴族の長女として穏やかに暮らしていた私、フランのもとに、ある夜、神様からの啓示が下った。


『悪役令嬢となり、王国の危機を回避せよ』


……そこまでは、まあ、よかった。


問題は、その後だった。


この神様、プライバシーというものにまったく関心がないタイプらしい。


食事中だろうが睡眠中だろうが、果てはお風呂の最中だろうが、思いついたことを片っ端から啓示してくる。


部下に思いつきの指示を飛ばし続ける、あのダメ上司のムーブである。


『でな、ここで悪役令嬢ムーブをだな、こう、ぐわっと! あ、いや、その前に伏線をだな……』


湯船で聞かされた。


『よくある悪役令嬢ものの流れで言えば、ここで婚約破棄のフラグが……いや待て、先に断罪イベントの説明をしたほうが……』


寝ているところで聞かされた。


そして、とにかく説明が下手だった。


話があっちへ飛び、こっちへ戻り、自分で言ったことに自分で感心して満足げに笑い、急に「汝よ……」と威厳のある声を出そうとして盛大に咳き込む。


客観的に見て、かなり残念な部類の神様である。


こんなことを神様に思うのは不敬だけれど、あの夜、私がまともに理解できたのは、最初の一行だけだった。ごめんなさい、神様。


悪役令嬢となり、王国の危機を回避せよ。


王国の危機のほうは、何ひとつ分からない。


それより何より、問題は。


(悪役令嬢って、なに!?)


神様は「周知の事実」みたいな顔で何度も言っていた。「よくある」とも言っていた。ということは、常識なのだろうか。みんな知っているのだろうか。私だけ知らない感じ?


前世の記憶を探ると、確かに流行っていた気はする。けれど私はライトノベルを読まなかったし、アニメもメジャーなものしか見なかった。知識は、ゼロである。


(……いや、嘆いていても始まらない)


小さい頃の私は、幼稚園でも学校でも、劇のたびに木の役ばかりだった。そのたびに落ち込んでいた私に、お母さんは言ってくれた。


「どんな役でも、一生懸命やればきっと誰かが見ていてくれるよ。楽しみにしてるね」


その言葉を道標に、この世界でも努力してきた。


(悪役令嬢が私の役なら、全力でやりきってみせる!)


こうして私は、中身を何も知らないまま、悪役令嬢になることを決意したのだった。


*


敵を知り己を知れば百戦殆うからず。


……と、前世のどこかで聞いた。悪役というのも、きっとまず相手を調べるものだ。特撮の悪の幹部も、だいたいそうしていた気がする。


「マリー、クライス公爵様について、知っていることを教えてちょうだい」


侍女のマリーが、洗濯物を抱えたまま目を丸くした。


「お、お嬢様が殿方に興味を……!? ええと、そうですね、お酒がお好きだと聞きます。王都の酒場でも有名で、利き酒で負けたことがないとか」


「ふむ」


私はメモを取った。『酒好き』


次は庭に出て、庭師のトマスじいさんに聞く。


「クライス様は、狩りの名手ですな。特に弓。一度狙った獲物は、逃したことがないそうで」


「弓……」


『狩猟好き、弓の名手』


最後は台所だ。料理人のラニおばさんが、鍋をかき混ぜながら教えてくれた。


「賭け事もお好きでね。しかも、とにかく負けず嫌い。勝負を挑まれたら、絶対に断らないんだって。どんなに不利でも」


「どんなに不利でも?」


「そう。それで勝っちゃうんだから、嫌になるよねえ」


『賭けごと好き。負けず嫌い。挑まれたら断らない』。


メモを眺めていると、マリーがぽつりと付け加えた。


「あと、王子殿下とは、王立学院の同級生だったそうです。昔は仲がよかったらしいんですけど、今は……」


「今は?」


「……あまり、その、仲が」


マリーは言葉を濁した。


王子の話になると、屋敷の人たちは決まって声をひそめる。理由は分からない。けれど、メモに書き足しておいた。


『王子殿下、要注意』


お酒。弓。賭け。負けず嫌い。挑まれたら断らない。


並べてみて、私は考え込んだ。ここまでは、我ながら悪くない調査だと思う。


(つまり、こういうことね)


クライス様は、勝負を挑まれたら絶対に乗ってくる人だ。


(悪役は、人を煽るもの。……よし、煽ろう!)


「お嬢様、なんだか楽しそうですね」


「ええ。とっても悪い顔をしているでしょう」


「いえ、いつものお顔です」


……悪役への道は、まだ遠いようだ。


*


舞踏会までの三週間、私は毎週のように公爵邸へ通った。


婚約者との顔合わせ、というのが表向きの名目。本当の目的は、悪役令嬢としての「実地修行」である。


(悪役たるもの、まずは嫌がらせの基本から!)


*


一週目。


通された応接間で、クライス様は穏やかに微笑んでいた。銀の髪に、非の打ちどころのない礼儀作法。噂以上の美形だ。


(ひるんではだめ。悪役は、ひるまない……!)


出されたお茶を一口飲み、私は言い放った。


「このお屋敷のお茶、薄いですわね!」


空気が凍った。控えていた使用人たちの顔が、さっと青ざめる。


「…………」


クライス様が、ぱちりと瞬きをした。


それから、肩を震わせて笑い出した。


「いや、失礼。……屋敷の者は誰も、私に意見を言わないものですから。久しぶりに、本当のことを言われました」


「え、あの」


「淹れ直させましょう」


「いえ、私が淹れますわ!」


勢いで台所に立って、淹れ直した。お母さんに教わった、ちゃんとしたやり方で。


一口飲んだクライス様は、目を丸くした。


「……美味しい」


(あれ? おかしいな……悪役っぽい嫌がらせのはずが)


帰りの馬車で首をかしげた。


後で聞いた話だけれど、その日、公爵邸の使用人たちは「旦那様が声を出して笑われた」と大騒ぎになっていたらしい。


*


二週目。


今日の嫌がらせは、「勝手に書斎に入って荒らす」である。


流石にちょっと悪役すぎる気がするけれど、悪とは躊躇わない者である……と誰かが言ってた気がする。

案内役の目を盗んで、重い扉をそっと開けた。


……荒らす、つもりだった。


けれど書斎は、息がつまるほど空気が淀んでいて、机の上には書類が山になっていた。壁には、矢の跡だらけの古い的と、勝ち星ばかりが並んだ勝負の記録。


(ちょっと、空気が悪すぎない?)


とりあえず窓を開けようとして、固く閉ざされているのに気づいた。蝶番が錆びている。実家の窓と同じ癖だ。


持ち上げながら、枠の角をこつんと叩くと、ぎい、と音を立てて窓が開いた。


新しい風が入ってきたところで、廊下から足音と話し声が近づいてきた。慌てて扉の陰に隠れる。


「……殿下の動きですが」


老いた声。家令のゲルハルトさんだ。


「やはり、討伐の名目を探しておいでです。婚約の王命を拒めば、反逆。受ければ、屈服。どちらに転んでも、公爵家を潰す手筈かと。……それと、近頃は隣国の使節が、殿下の周りをうろついております」


「承知している」


クライス様の声だった。さっきまでの穏やかな響きとは、少し違う。


「手は打ってある。陛下に、祝いの席へお越しいただく。……あとは、殿下が自ら尻尾を出す機会があれば」


「その機会が、ございますでしょうか」


「……ない、今のところはな。されば、作るしかあるまい」


足音は書斎に入ることなく、遠ざかっていった。


(討伐? 名目? 王命?)


難しい話みたいだ。


ただ、一つだけ分かった。王子は、やっぱり要注意である。


私はそっと窓から抜け出して、庭を回って玄関へ戻り、何食わぬ顔でお茶会に合流した。悪役はスパイもこなすものなのだと思う。たぶん。


*


三週目。


「あなた、いつも勝負に勝つそうですわね。つまらない人!」


最後の嫌がらせは、庭のベンチで放った一言だった。


我ながらひどい。言ってしまってから、ちょっと反省した。


けれどクライス様は、怒らなかった。


「そうですか?」


「そうですわ。勝つと分かっている勝負なんて」


「……皆さん、私に勝たせてくださるのですよ。公爵相手に、本気で挑む者はいません」


穏やかな微笑みのまま、ぽつりと言った。


「学院に通っていた頃は、殿下と毎日のように競いました。あの頃は、互いに本気でしたが」

それきり、黙ってしまった。


なんだか、胸のあたりがきゅっとした。悪役だというのに。


「では、いつか私が、本気で挑んでさしあげますわ」


気づいたら、そう言っていた。


クライス様は少し驚いたように私を見て、それから、初めて見るような柔らかい顔で笑った。


「楽しみにしています」


……その言葉が、お母さんの声と重なって聞こえたのは、気のせいだろうか。


ちなみにクライス様は、三週間通っても、私のことを「お嬢さん」としか呼ばなかった。名前を覚えていないのかもしれない。


(悪役のはずなのに、なんだか調子が狂うなあ)


そう思いながら、私は舞踏会の日を迎えることになる。


*


舞踏会を明日に控えた夜。悪役令嬢といえば、やっぱり見た目も大事だ。


悪役というからには怖い感じのはず。高飛車で、傲慢で、ヒーローものの悪の女幹部みたいな。服は原色のド派手なやつで、メイクはキツめ。手には鞭を持って、無意味に小動物を握りつぶして……。


(小動物は無理。かわいそうだし)


代わりに、クッションを握りつぶす練習をした。ふかふかで、全然つぶれなかった。


次に、鏡の前で高笑いの練習。


「おーっほっほっほっ……ごほっ!」


むせた。


何度かやるうちにコツをつかんで、「おーっほっほ」の最後のところで噛まなくなった。進歩である。


舞踏会は、ごく普通の舞踏会らしい。


けれど、悪役といえば仮面だ。特撮の女幹部も、だいたい顔の半分を隠している……気がする。


……それに、顔を隠せるのはありがたい。恥ずかしいので。


その夜も、神様の啓示は容赦なく降ってきた。


『いいかフランちゃん、ここが肝心だ! 舞踏会では、とにかく目立て! 王子の注意を引きつけるのだ! そうすれば公爵が動きやすく……ああいや、これはまだ言っちゃダメなやつだった』


聞き取れたのは、「目立て」の二文字だけだった。


(目立つ……おう、悪役は、誰よりも目立つもの!)


この瞬間、衣装は決まった。


普段の地味なドレスを脱ぎ、一生着ることはないと思っていた、真っ赤で金ぴかのドレスに袖を通す。仮面は、目元だけを覆う、キラキラしたやつ。


鏡の中に、見知らぬ人がいた。


(私は悪役令嬢。私は悪役令嬢。私は悪役令嬢……)


呪文のように唱える。


木の役でもがんばった。なら、悪役令嬢だって、がんばれるはずだ。


「楽しみにしてるね」


お母さんの声を思い出して、私は鏡の中の誰かに、にっと笑ってみせた。


……思ったより、悪い顔にはならなかった。


*


会場は、まばゆい光に満ちていた。


シャンデリア、楽団、着飾った人々。あちこちから、ざわめきが聞こえる。


(あれ?)


会場を見回して、気づいた。仮面をつけているのは、私だけである。


(……まあ、悪役は目立つものだし)


その中心に、二人の男性がいた。


一人は、銀の髪の青年。穏やかな微笑みを浮かべ、立っているだけで周囲の令嬢たちの視線を集めている。クライス様だ。今日も、非の打ちどころのない微笑みである。


もう一人は、少し離れた場所で杯を握る、赤毛で大柄の青年。王子だ。令嬢たちが皆クライス様ばかり見るのが面白くないらしく、杯が、みしりと嫌な音を立てた。


王子の背後には、近臣のザイド様が、影のように控えていた。陰気な顔つきで、目が合うと、にこりともせず深く会釈をした。


(……なんだか、笑わない人だなあ)


(ええと、いきなり行くのが悪役っぽいよね)


私は深呼吸して、赤いドレスの裾をひるがえし、二人の前に進み出た。


「おーっほっほっほ!」


噛まなかった。


「ごきげんよう、お二方。わたくし、フラン・モリスと申しますわ」


「……ほう」


クライス様の目が、一瞬だけ丸くなった。すぐにいつもの微笑みに戻って、彼は言う。


「これは見違えました、お嬢さん。……私の婚約者として、皆に紹介しても?」


「お断りですわ。王命だか何だか存じませんけれど、わたくし、納得しておりませんの。下級貴族の娘などを選ぶなんて」


ざわり、と会場が揺れた。


私は、赤毛の王子をきっと見据えた。書斎で盗み聞きした話が正しければ、この婚約を押しつけたのは、この人だ。


(文句は、決めた本人に言うのが筋よね。それに悪役令嬢といえば、殿方に取り合われるもの……たぶん。特撮の女幹部も、だいたい部下たちに取り合われていた気がする……きっと)


「それに、わたくしが欲しいなら、それなりの勝負をしていただきますわ。クライス公爵様と、王子殿下。お二人で勝負をなさい。勝った方に、わたくしを差し上げます。いかがかしら?」


……沈黙。


遠くで、父が崩れ落ちる音がした気がする。


「……貴様」


王子の声は、低かった。


「余に対し、何と言った」


「ですから、勝負を」


「無礼者! この女を切り捨てよ!」


衛兵が駆け寄ってくる。足が震えたけれど、悪役は怯まないものだ。たぶん。


「控えなさい!」


自分でもびっくりするくらい、大きな声が出た。衛兵の足が止まる。


「……くっ、ははは」


笑い声がした。クライス様が、肩を揺らして笑っている。


「いや、失礼。やはり面白い方だ。殿下、どうです。学院時代を思い出して、一勝負いたしませんか。武勇に優れ、学においても並ぶものなしと謳われた殿下に、胸を借りられればと愚考しますが」


丁寧な言葉なのに、どこか刺がある。王子の頬が、ひくりと動いた。


「……何が言いたい」


「まさか、負けるのが怖いのですか?」


「なっ……!」


(おお、クライス様、私より煽りがうまい)


感心している場合ではない。王子は顔を赤くして、周囲を見回した。会場中の視線が、自分に集まっている。ここで断れば、笑いものだ。


「ふん。余が出るまでもない」


王子は、少し離れて控えていた若い近衛兵を顎で示した。


「近衛隊のレオン。王国一の弓の名手だ。こやつが相手をしよう。そして――」


王子は、唇の端を持ち上げた。


「勝った方が、その娘を得る。よかろう。下級貴族の娘など、余にはどちらでも同じことだ」

嫌な笑い方だった。


でも、悪役としては百点満点だ。私は内心でガッツポーズをした。


「勝負の方法は?」とクライス様が尋ねる。


私は考えていた通りに答えた。


「酒を一杯ずつ飲み、一射ずつ。三射ずつ放って、当てた回数の多い方の勝ちですわ」


「酒を飲んで弓だと?」


王子が、眉をひそめた。


「あら。酔うと外れてしまう程度の腕ですの?」


(お酒が好きで、挑まれたら断らないクライス様。そして、たぶん負けず嫌いの王子。調査結果の総動員である。……それに、お酒が入れば余興っぽくなって、場の空気もきっと和らぐはず)


クライス様の目が、わずかに細くなった。楽しんでいる目だった。よかった。すこし嬉しい。


「承知しました。……面白くなってきましたね」


(やった、乗ってくれた! わたし悪役っぽくなれてる!)


こうして私の、最初で最後の悪役令嬢が幕を開けた。


*


場所は、中庭に移された。


篝火が焚かれ、貴族たちが円を描いて並ぶ。三十歩ほど先に、射手の立つ線。その手前に、的として私が立つ。


テーブルには酒の杯が二つ。公平を期して、お互いが相手の杯に注ぐことになった。


「さて」


杯を受け取りながら、クライス様が微笑んだ。


「お嬢さん。一つ、嫌味を言ってもいいですか」


「どうぞ」


「この勝負、貴女はどちらに転んでも損をしない。私に嫁ぐか、殿下のものになるか。それは賭けとは呼べません。貴女も、何かを賭けるべきではありませんか」


……来た。


それは、最初から決めていたことだった。悪役令嬢の演技は、ここまで。ここからは、私の本当の言葉で言わなきゃいけない。


「言われるまでもありません」


声が、自分でも驚くくらい静かだった。


「何かお考えが?」


「ええ。私が賭けるのは、この命です」


「……何ですって?」


「的は、私が持ちます」


私は用意されていた林檎を一つ手に取り、腕をまっすぐに伸ばした。


そのとき、頭の中でノイズ混じりの声がした。


『……えっ、ちょ、待っ……そこまでしなくて……命は賭け……聞こ……あれ、通信が……』


(神様、いま取り込み中ですので、また後で!)


ひとまず無視した。


どよめきが、波のように広がった。


「正気か!」と誰かが叫び、父がまた崩れ落ちる音がした。王子までが、口を開けて私を見ている。


クライス様の微笑みが、完全に消えた。


「……お嬢さん、本気ですか」


「はい。命を賭けます」


しばらく、じっと私を見つめていた。それから、ふっと息をついて、また微笑みを貼りつけた。


「承知しました。貴女の命、確かにお預かりします」


*


一巡目。先攻は、レオン様。


酒を一気に飲み干し、弓を構える。


腕は確かに、王国一なのだろう。構えに、一切の無駄がない。……けれど。


(あれ、手が震えてる?)


背後から、王子の怒鳴り声が飛んだ。


「レオン! 外したら貴様の首はないと思え!」


弓の弦が、わずかに揺れた。


ヒュッ。


林檎が、私の手の中で砕け散った。果汁が頬に飛ぶ。


(……当たった。生きてる。私、生きてる)


膝が笑いそうになるのを、悪役の気合いで押さえつけた。


新しい林檎をもらうため、テーブルへ戻る。酒を注がれた杯を手にしたクライス様と、すれ違った。


「手が、震えていますよ」


「武者震いですわ」


「そうですか」


クライス様は私の手を一瞥して、それ以上は何も言わなかった。


続いて、クライス様。


酒を飲み干し、弓を構える。迷いのない、静かな構え。


矢を放つ前に、彼の視線が、一瞬だけ私に向いた。


(……? 的が動いてないか、確認したのかな)


ヒュッ。


二つ目の林檎が、粉々に砕けた。矢は、私の手のひらの、ほんの指一本分上を通っていた。


(すごい。細かいところまで正確……)


会場から、拍手が起きた。


よかった、盛り上がってる。


*


二巡目。


新しい林檎を取りに戻ると、杯を手にしたレオン様が、うつむいたまま小声で言った。


「……申し訳ありません。ご婦人に弓を向けることになってしまいました。私のような若輩者の矢では、さぞ恐ろしいでしょう」


近くで見ると、まだ二十歳そこそこの青年だった。額に汗が滲んでいる。


(謝るのは、むしろ私のほうだ。この人をこんな勝負に巻き込んだのは、私なのだから)


「いいえ」


私は林檎を持ち直した。


「あなたの腕は本物ですわ。私、ちっとも怖くありません」


最後だけ、悪役の口調を使い忘れた。でも、それは嘘じゃなかった。いや、本当は少しだけ怖い。でも、この人の矢は怖くなかった。


「……ありがとう、ございます」


レオン様の肩から、少しだけ力が抜けた。


二巡目も、先攻はレオン様。命中。


続くクライス様も、命中。ここまで二人とも二発ずつ。


お酒のせいか、私の頬も火照ってきた。


*


最後の三巡目も、先攻はレオン様から。


「レオン! 外すな! 絶対に外すな! 外したら、貴様の家ごと――」


ヒュッ。


髪が、揺れた。


耳のすぐ横を、何かが通り抜けていった。林檎は、無傷のまま手の中にある。


(……外れた)


会場が、水を打ったように静まり返った。


レオン様が、弓を落とした。膝をつき、顔を覆っている。王子の圧力が、最後の最後で彼の腕を狂わせたのだと、そのときは思った。


私は、動かなかった。動けなかったというほうが正しい。


「レオン、貴様っ!! よくも恥をかかせたな……」


「最後は私ですね」


クライス様が、叱責の言葉を遮り、静かに杯を空にした。それから、王子のほうを振り向いて、にこやかに言った。


「殿下。お手元の書状は、お急ぎで? 先ほどから、ずいぶん大切そうに握っておいでだ」


王子の顔から、血の気が引いた。


(書状? 書斎で盗み聞きした話の続きかな。……難しくて、よく分からなかったけど)


首をかしげる私をよそに、クライス様は矢をつがえた。


ヒュッ。


三つ目の林檎が、砕けた。


「三射、すべて命中。勝負あり、ですね」


拍手と歓声が、爆発した。


私は林檎のかけらを握ったまま、ようやく息を吐いた。


(生きてる。……よかった)


*


「……インチキだ」


歓声のなか、低い声がした。


王子だった。


「インチキだ! この勝負は無効だ!」


王子は、わなわなと震えながら私を指さした。


「貴様、クライスを勝たせるために、的を動かしたな!」


(……え?)


的は、私だ。動かしたも何も、私は一歩も動いていない。


「そうか、最初から仕組んでいたのだな。レオンの矢が外れたのも、貴様の仕業だろう!」


「殿下、それは」


「黙れ!」


王子の手が、腰の剣にかかった。


会場の空気が、凍りついた。


ゆっくり、一歩ずつ、王子が私に近づいてくる。誰も動かない。誰も息をしない。


ちょうどそのとき。


「ひっ……!」


砕けた林檎を片付けていた下女の少女が、恐怖に耐えきれず、後ずさりして――つまずいた。


手にしていた林檎のかけらが、宙に舞って、べちゃりと、王子の上着に貼りついた。


「…………」


誰も、何も言えなかった。


王子の顔が、みるみる赤黒く染まる。


「貴様も……貴様もグルか!!」


剣が、鞘から抜かれた。


下女の少女が、悲鳴を上げて頭を抱える。


そして、王子の剣が振り上げられた。


その瞬間のことは、あまりよく覚えていない。


考える前に、体が動いていた。


気づいたとき、私は少女の上に覆いかぶさっていた。


(あ、これ、死ぬやつだ。そっか、悪役令嬢の最後って……ごめんなさい、お父様、お母さん、わたし上手く演じられなくて……)


目をぎゅっと閉じる。


――カァン!


甲高い金属音が、鼓膜を叩いた。


痛みは、こなかった。


恐る恐る目を開けると、石畳の上に、王子の剣が転がっていた。刀身には、一本の矢が突き刺さっている。


振り向くと、中庭の向こうで、クライス様が弓を下ろしたところだった。


笑っていなかった。


手を押さえた王子が、喚いた。


「クライス、貴様……は、反逆罪だ! 王子であるこの余に弓を向けるとは、反逆罪だぞ! 公爵! 貴様、討伐令を――」


「そこまでだ」


中庭の入口から、杖の音とともに、その声が響いた。


*


白髪の老人が、父に支えられて立っていた。痩せてはいるが、目だけは鋭く、中庭の全員が息を飲んだ。


「ち、父上……」


王子の顔から、一瞬で血の気が引いた。


(あれが、国王陛下……)


父が、息を切らしながら私に目配せした。……そういえば、陛下にもお越しいただくことになった、と言っていた。


国王陛下は、ゆっくりと中庭を見渡した。


砕けた林檎。転がる剣。座り込む少女と、その上に覆いかぶさる私。


「旧友の娘の婚約の宴だと聞いて、祝いに来てみれば」


声は静かだった。それが、かえって怖かった。


「かような失態を、見せられようとはな」


「ち、父上、これは違うのです。この女が、的を動かして――」


「黙れ!」


杖が、王子の頬を打った。


鈍い音とともに、王子が崩れ落ちた。


「公爵から、書状の件は事前に聞かされておった。ゆえに、余は最初から見ておったのだ。的は一歩も動いておらぬ。動いたように見えたならば、すべてを己に都合よく考える、貴様の性根が原因だ」


「ち、父上……」


「友に妬みを向け、旧友の息女に剣を向け、無辜の下女に刃を振り上げ、あまつさえ、余の名を騙った討伐令まで用意するとは。廃嫡されぬだけでも、ありがたく思え!」


(討伐令……? そういえば、書斎で盗み聞きした難しい話の中に、そんな言葉が……)


私は首をかしげたけれど、周りの貴族たちは、息を飲んでいた。


頬を押さえた王子は、よろめきながら立ち上がり、周囲の視線から逃げるように、中庭を駆け去っていった。


「謹慎を命ずる! 部屋から出るな!」


背中に、杖の音が追いかけていった。


国王陛下は、去っていく背中を、しばらく黙って見つめていた。


「……あれの妬みに気づいてやれなんだのは、余の落ち度でもある。友に並び立ちたいと願う子であった。それがいつの間にか、友を引きずり下ろす子になってしまった」


クライス様は、何も言わなかった。ただ、微笑みが、ほんの少しだけ寂しそうに見えた。


国王陛下は、そのままクライス様に向き直った。


「公爵よ。愚息の書状は、余が預かる。そなたに刃は向けさせぬ」


「ありがたく存じます、陛下」


クライス様は、優雅に頭を下げた。


「ただ、愚息にあの書状を吹き込んだ者がおる。討伐の名目を、ささやいた者がな」


「……近臣のザイド殿の姿が、先ほどから見えませんね」


クライス様の言葉に、中庭がざわめいた。そういえば、王子の後ろにいた、あの影のような人が、いつの間にかいない。


「逃げ足の速い男だ。……この件、まだ終わっておらぬ」


国王陛下は、低くそう言った。


(書状、名目、王命……。もしかして書斎で聞いたのは、このことだったのかな)


*


王子がいなくなった中庭に、重い沈黙が落ちていた。


国王陛下が、私の前に歩み寄った。


「娘よ、フランと言ったか」


「は、はいっ」


私は慌てて下女の少女から身を起こし、頭を下げた。


「すまなかった。愚息のせいで、そなたと、そなたの家を危険にさらした。そもそも、この婚約自体が愚息の策略だ。そなたには、何の落ち度もない。……婚約は、無かったことにしよう」


(あ、そうなんだ)


ほっとした。急にいろんなことが重なって、腰が抜けそうだった。


でも、なんだろう。胸につかえる言葉にできないモヤモヤが膨らんだ気がした。


「お待ちください、陛下」


全員が振り向いた。


クライス様が、微笑んで歩み出ていた。


「勝負には、勝ちましたので」


国王陛下が、わずかに眉を上げた。


「……何を言いたいのだ、クライス」


「殿下は、皆の前で仰いました。勝った方が彼女を得る、と。その言葉を、ここにいる全員が聞いています。そして、何よりこの勝負は、彼女の発案に他なりません。」


ざわり、と空気が揺れた。


「約束通り、彼女をいただきます」


(…………え?)


私の思考が、停止した。


「ま、待ってください。陛下のお言葉で、婚約は、白紙に……」


「婚約は白紙で結構。ですが、これは別の話です」


クライス様は、私の前に膝をついた。仮面越しに、視線が合う。


「一つ、伺っても?」


「は、はい」


「なぜ、この場に来たのです。得るものは少なく、失うものは命。まるで帳尻の合わない賭けでしょう」


私は少し、考えた。


「……役割だと、思ったんです」


「役割?」


「私は下級貴族の娘ですが、冬に凍えることも、食事に困ることもなく育ちました。恵まれていました。だから、役割が回ってきたなら、好き嫌いや損得とは関係なく、果たさなきゃと思って」


言ってしまってから、思った。


(ちょっと、カッコつけすぎたかな)


恥ずかしくなって、思わず笑ってしまった。


仮面が、ずれた。


するりと、床に落ちる。


素顔のまま、へにゃりと笑った私を、クライス様はじっと見つめていた。


しばらくして。


「……やっと、悪役の仮面が外れましたね」


低い、素の声だった。


(あれ、今、少し口調が違った?)


次の瞬間には、いつもの微笑みに戻っている。


「私の策には、足りないものがありました」


クライス様は、立ち上がりながら言った。


「殿下が自ら手を出す口実です。私から仕掛ければ、ただの公爵の讒言になる。……あなたは、それを皆の目の前でくれた」


「私が?」


「悪役を気取ったお嬢さんの無礼に、殿下が腹を立てる。賭けに乗る。負けて、逆上する。国王陛下の御前で。……私一人では、あと三年かけても作れなかった舞台です」


(……三年?)


「ただし、命まで賭けるとは、計算に入っていませんでした」


クライス様は、少しだけ眉を寄せた。


「あなたが的に立った瞬間、私の策は全部吹き飛びました。あの時の私は、策士ではなく、ただの射手でした。一本たりとも外せない、と」


「それに」


クライス様は、小さく笑った。


「それから、あの書斎の窓は、十年開いたことがなかったのですよ」


「窓……ですか? そうなんです、うちの窓も、持ち上げながら角を叩くと開くんです」


「……そういう問題ではないのですが」


クライス様は、今度は声を出して笑った。


「それと、もう一つ。レオン殿の最後の矢は、外れたのではありません。外したのです」


「え?」


「殿下に脅されながら、それでも彼は、あなたを撃たないことを選んだ。あなたが『怖くない』と言ったからでしょう。……あの青年の腕を救ったのは、私ではなく、あなたです」


(外れたんじゃなくて、外してくれたの? 私はてっきり、王子の圧力のせいだと)


「私に本気で挑んだ人間は、殿下以来、あなたが初めてだ。皆、勝たせるか、避けるか。命を賭けて挑まれたのは、生まれて初めてでした。……先日、『楽しみにしています』と言ったのは、本心です……失礼。話が長くなりました。では改めて。フラン」


初めて、名前を呼ばれた。


「あなたを、いただきます」


胸のモヤモヤが、すとんと消えた。代わりに、心臓がうるさい。


……さっきの矢のせいだ。きっと。


私は、ぽかんと口を開けて、思わず呟いた。


「あ、あの……悪役令嬢って、そういう話でしたっけ!?」


「さあ。私は、その悪役令嬢というものを存じませんので」


クライス様が、楽しそうに笑う。


そのとき、頭の中に、聞き慣れた声が響いた。


『フランちゃああん! 無事!? 心臓止まるかと思ったんだけど!! 命までは賭けなくていいって、言ったよね!? ……言ったよね!! ええと、その、王国の危機は回避! 結果オーライ!! でもね、悪役って、そういう意味じゃなかったんだけど……』


神様だった。


『ええと、本来の悪役令嬢というのはだな、まず婚約破棄を宣言されて――』


(ごめんなさい神様。肝心なところは、やっぱり聞き取れていません)


『あ、それとだな。王国の危機は、実はもう一つあって、隣の国が――あっ、通信が――』


ぷつり、と声が途切れた。


(……え。今、聞き逃したらまずいことを言わなかった?)


私は聞こえなかったことにして、目の前の微笑みに向き直った。


結局、悪役令嬢が何なのかは、最後まで分からないままだった。


けれど、一生懸命にやれば、ちゃんと誰かが見ていてくれる。お母さんの言う通りだった。


……ただし、見ていた人が、少し多すぎた気はするけれど。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


この話は、妻に「悪役令嬢ものを書いてみたら?」と言われたのがきっかけ作ったものです。

ただ、私は悪役令嬢ものを一作も読んだことがなく、それならいっそ悪役令嬢を知らない主人公にしようと考え、フランが生まれました。


お約束を知らないまま、思いきり的外れに頑張る子が勢いに任せ誰かを救ってしまう。そんな話にしたくて書きました。

ジャンルの定番を外している部分があるかと思いますが、どうかご容赦ください。


少しでも笑っていただけたなら、これ以上の喜びはありません。

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