氷の瞳が映すモノトーンの世界 ——水島アカネは言葉を凍らせる
「……あ」
言葉が、喉の途中で引っかかって落ちてこない。
放課後の夕暮れ時。誰もいない小学校の教室で、水島アカネは自室の学習机に向かい、友達から送られてきたメッセージ画面をじっと見つめていた。
『アカネちゃん! 今日のテスト、お疲れ様ー! もしよかったら、来週のお祭りに一緒に行かない?』
画面の向こう側の熱量が、スマートフォンの薄いガラス越しに伝わってくるようだった。
嬉しかった。誘ってもらえたこと自体、跳ね起きるほど胸が小さく踊っていた。
けれど、指先が固まって動かない。
(なんて返せば、いいんだろう……)
『行く』の一言で済ませればいいのかもしれない。でも、それじゃ素っ気なさすぎて嫌な気持ちにさせちゃうかもしれない。『楽しみ!』と絵文字をつける? いや、普段そんなキャラじゃない私が急にテンションを上げたら、わざとらしく思われるかも。私は食べるのが遅いから、みんなの会話のテンポを乱してしまうかもしれない。そもそも、私が混ざったらみんな気を遣って楽しくなくなっちゃうんじゃないか——。
考えれば考えるほど、頭の中のパズルは複雑に絡まり、答えが見えなくなっていく。
気づけば、メッセージを受け取ってから二時間が経過していた。
『予定あるのかな? 既読スルーはやめてよね!』
そのメッセージを受信した後、落胆したアカネはため息を吐いて、帰路についた。
その夜、今日のことを両親に相談すると、優しい笑みを浮かべた母が慰めてくれた。
「……アカネちゃんは、相手を思いやれる優しい子だものね」
「すぐにお返事ができないのはね、アカネちゃんが一番良い言葉を相手に伝えたくて、一生懸命考えすぎちゃうからなのよ。それは全然、悪いことではないんだからね」
「そうだぞ、アカネ。すぐに返事ができなくたっていい。アカネはそれだけ、相手に渡す一番良い言葉を大切に選んでいるんだからな」
母の隣で、新聞を広げながら温かい眼差しを向ける父。
二人は決して口数の多くないアカネを、焦らせることも責めることもなく、いつも包み込むように笑ってくれた。
こんな両親が大好きだった。
十歳の誕生日。雲一つない秋晴れの日に、両親が笑顔でアカネをドライブに誘ってくれた。
「アカネ、お誕生日おめでとう!」
助手席に座るアカネが振り返ると、後部座席に座っていた母の膝には、アカネが大好きな苺のショートケーキが入った箱が乗っていた。
「今日は遠出をして、紅葉が綺麗な山奥の温泉旅館に行くんだぞ。アカネの好きなエビフライも頼んであるからな」
ハンドルを握る父が、愛おしそうに目を細めるのが見えた。
「……うん。楽しみ」
アカネがポツリと返した、短い言葉。本当は「お父さん、お母さん、連れてきてくれてありがとう、大好き」と伝えたかったのに、やっぱり照れくさくてうまく言えなかった。
けれど、母と父はそれだけで十分だと伝えるように、優しく微笑み合っていた。
車は山道を軽快に走り抜けていく。ガードレールの向こうには、赤や黄に染まった山々が広がっていた。
アカネは助手席のシートで、膝の上に置いた小さなぬいぐるみを抱きしめながら、窓の外の景色を楽しそうに眺めていた。幸せで、温かい時間。この時間がずっと続けばいいと、心から願っていた。
——その幸福は、あまりにも唐突に、脈絡もなく打ち砕かれた。
ズズズ……と、大地を揺らすような不穏な地鳴りが響いた。
「ん……? なんだ、工事でもしているのか?」
父が眉をひそめ、スピードを緩めた瞬間だった。
頭上の崖から、何かが凄まじい速度で落ちてきた。
岩ではない。土砂でもない。
それは——巨大な、黒々とした「鉄塊」だった。
まるでビルの一角をそのまま切り取って落としたかのような、人工的な異様さを放つ角ばった鉄の塊。それが轟音と共に道路へと叩きつけられた。
「な……ッ!?」
前方を走っていた一台の軽自動車が、避ける間もなくその鉄塊の真下に呑み込まれ、ペシャンコに潰れた。金属が歪む凄まじい不快音が山々に響き渡る。
「くそっ……!!」
父が悲鳴のような声を上げ、力任せにハンドルを右へ切った。
タイヤが悲鳴を上げ、車体が大きく傾く。ガードレールを紙屑のように引きちぎり、車ごと崖下へと転がり落ちていく。
「アカネッ!!」
「嫌ぁぁぁぁぁっ!!」
激しい衝撃。車体が斜面をバウンドしながら転がり落ちる中、激しい衝撃が何度も車内を襲う。
潰れて変形した運転席が、父の脚を容赦なく押し潰した。
「ぐあぁぁぁぁぁっ!?」
父の悲痛な絶望の叫びが響く。
(お父さん! お母さん! お願い、助けて……二人を守って!!)
迫り来る死の恐怖と絶望の中で、アカネは胸の奥の何かを破り捨てるように、心の中で激しく叫んだ。
その瞬間。
経験したこともない強烈な「冷気」が爆発的に噴き出した。
キィィィンッ! と、空間を切り裂くような甲高い金属音が響く。
車体を包み込むように、空中の水分が一瞬にして凝固し、巨大な円形の「氷の壁」が形成された。
ドガァァァンッ!
崖底の岩場に突き刺さる直前、車は分厚い氷のクッションに守られ、横転した状態で猛烈な煙を上げて停止した。
神の気まぐれか、あるいは少女の土壇場の願いが引き起こした奇蹟か。
静寂が訪れた車内で、アカネは奇跡的に生きていた。擦り傷と打撲の痛みはあったが、骨折すらしていない。
「う……あ……お父、さん……? お母、さん……?」
アカネは震える体でシートベルトを外し、周りを見回した。
「あ……」
喉から、声にならないヒッという悲鳴が漏れた。
後部座席から弾き飛ばされたのか、前方のガラスが粉々に割れ、そこから外へと投げ出された母の姿がボンネットの上に見えた。
頭部から流れた血が地面を赤く染めている。ピクリとも動かない。開かれた瞳は、どこか遠くを虚ろに見つめていた。一目で、命が潰えたことが分かった。
「お父さん! お母さんが……お母さんがっ!」
運転席で、潰れたハンドルとシートに足を挟まれた父が、血まみれの顔をこちらへ向けた。かろうじて動く方の片腕を伸ばし、狭い隙間からアカネの小さな身体を力任せに引き寄せ、強く、強く抱きしめた。
「見るな……アカネ、見るんじゃない……っ」
ガラガラとした、掠れた声が聞こえた。
父の腕は血の匂いがして、とても熱かった。その熱が、逆にアカネの全身を激しい恐怖で震わせた。
パチパチ……と、嫌な音がエンジンルームから響き始めた。
黒い煙が白煙へと変わり、一気にオレンジ色の炎が車内へと燃え広がる。ガソリンへの引火。残された時間は、数秒もなかった。
「あ……が……っ」
足を潰された父は、逃げ出すことなど到底不可能だった。死が目前に迫っていることを悟った父の瞳に、激痛を上回るほどの深い愛と覚悟が宿る。
父は抱きしめていたアカネの顔を覗き込んだ。血と涙で汚れた顔で、優しい笑みを浮かべた。
「アカネ……誰よりも、愛している。……一緒にはいられないが、ずっと……ずっと君のことを見守っているから……」
父は空いていた助手席に向かって、力任せにアカネの体を突き飛ばし、車の外に追い出した。
「きゃあッ!? 嫌……嫌だ! お父さんも一緒に! お父さんも出よ……ッ!」
地面へ転がり出たアカネが振り返った瞬間。
父は限界まで腕を伸ばし、助手席の扉を閉め外から開けられないように内鍵をロックした。
「生きろっ!!」
「お父さん! お父さんっ!!」
アカネは泣き叫びながら車に駆け寄り、熱を帯び始めたドアを必死に叩いた。
だが、火の回りはあまりにも早かった。激しい炎の壁が車全体を包み込み、もはや近づくことすらできなくなってしまった。
炎の向こう側で、シートに深く腰掛けた父の姿が見えた。
父親は、外で狂ったように泣き叫ぶ娘を不安にさせまいと、苦痛の声一つ上げず、ただ静かに目を閉じて、炎と共に焼け落ちていった。
「うあぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!! お父さぁぁぁん!! お母さぁぁぁん!!」
誰もいない秋の山道に、十歳の少女の、血を吐くような悲鳴だけが虚しく響き続けていた。
* * *
「落石事故……?」
数日後。病院のベッドの上で、アカネはテレビのニュース画面を呆然と見つめていた。
『先月三十日、山梨県内の山道で大規模な崖崩れが発生。通行中の乗用車が落石に巻き込まれ、三人が亡くなりました。崖から転落した車もありましたが同乗者の十歳の長女は奇跡的に助かり——』
「違う……」
アカネは掠れた声で呟いた。パイプ椅子に座っていた警察官が、メモ帳を手に顔を寄せてくる。
「アカネちゃん、何か思い出したかい? 怖かったよね。でも大丈夫だからね」
「違う……岩じゃない……。大きな……鉄の塊が……空から落ちてきたの……。前の車を潰して……」
必死に訴えるアカネに対し、警察官の顔に浮かんだのは、深い同情と哀れみだった。
「……そうだね。恐ろしかったんだよね。大きな鉄みたいに見えるくらいの、大きな岩だったんだね」
「違う! 岩じゃない! 四角くて、黒くて、鉄の……っ!」
「アカネちゃん。お父さんとお母さんが亡くなって、ショックなのは分かるよ。……可哀想に、現実を受け入れられないんだね」
警察官の手が、優しくアカネの頭を撫でた。
その手が、酷く薄気味悪く感じられた。
誰も信じてくれない。
目の前で起きた恐ろしい事実も、両親が自分を庇って死んだ惨劇も、大人たちにとっては「悲劇に見舞われた可哀想な子供の妄想」として片付けられてしまった。
両親の葬儀が終わると、アカネの周りには急に「身内」を名乗る大人たちが群がり始めた。
両親が遺した莫大な遺産と、保険金。それ目当ての親族たちが、言葉巧みにアカネを引き取ろうと群がってきたのだ。
「アカネちゃん、うちに来なさい。寂しい思いはさせないから」
「うちの方が部屋も広いわよ。さあ、手をつないで」
ヘラヘラと貼り付けたような笑顔で近づいてくる親戚の叔父や叔母。
その心底にある汚い欲望が、アカネには痛いほど見えてしまった。
(来ないで……)
近づいてくる手に対してアカネが恐怖を感じた瞬間。
キィィィンッ!
無意識のうちに発動した氷の壁がアカネの周囲に展開され、手を伸ばしてきた叔父たちを容赦なく弾き飛ばした。
「きゃあああっ!?」
「な、なんだこれは!? 氷……!?」
「化け物……! この子、化け物よ!!」
さっきまで優しそうな顔をしていた親族たちが、恐怖と嫌悪に顔を歪めて逃げ出していく。
静まり返った控室で、アカネは一人、氷の壁の中に閉じこもっていた。
世界の色彩が、急速に失われていくのを感じた。
赤も、黄も、青も消えた。
視界に広がるのは、白と黒、そして濁った灰色だけの、冷たいモノトーンの世界。
誰も私を理解してくれない。誰も本当のことを見てくれない。なら、私は一人でいい。
そんな絶望の暗闇の中に、一人の男が足音もなく現れたのは、事故から一ヶ月が経った頃だった。
豪邸の誰もいない静かなリビング。
黒いスーツを着た、感情の読めない中年男が、警察や弁護士の制止を無視してズカズカと入ってきた。
「……水島アカネだな」
男は冷たい目でアカネを見下ろし、懐から一枚の警察手帳のようなものを取り出してみせた。
「公安の、田中だ」
アカネは無感情な瞳で男を見つめ返した。また自分を気狂い扱いしに来た大人か、あるいは金目当ての親族の手先か。どうでもよかった。
「君が十歳にして発現させたその力……『氷を発生させる能力』。政府の査定により、極めて有効であると認められた」
田中と名乗った男は、感情の篭もらない淡々とした口調で告げた。
「君にはこれから、政府公認の『魔法少女』となってもらう。……拒否権はない」
魔法少女。
テレビの向こうで、色鮮やかな衣装を着て、チヤホヤされているヒーローたち。
アカネは小さく首を傾げた。
「……私を、利用するの?」
「言い方の問題だな。君の身の安全と莫大な遺産の管理は政府が保証する。その代わり、君のその力を国のために提供してもらう。互いに利害が一致したビジネスだ」
田中は懐から一枚の書類を取り出し、テーブルに置いた。
搾取されるだけなら、国という巨大な組織に流されるのも同じだった。もう、何が起きたって私の心が傷つくことはない。どうでもよかった。
「……分かった」
アカネは短く答え、ペンを取って書類に名前を書いた。
こうして、十歳の天才児として世間を賑わせることになる『氷の魔法少女・水島アカネ』が誕生した。
時が流れるのは、恐ろしいほどに早かった。
「——続きまして、今月も圧倒的な制圧力で数々の事件を解決いたしました、氷の魔法少女・アカネちゃんのインタビューです!」
華やかなスタジオ。眩い照明。
カメラの向こうで、女子アナウンサーが興奮気味にマイクを向けてくる。
「アカネちゃん! 今日の現場でも、犯人を一瞬で氷漬けにして人質を無傷で救出されましたね! 全国のアカネちゃんファンに向けて、一言お願いします!」
魔法少女の衣装に身を包んだ十五歳のアカネは、マイクを前にして、ただ静かにカメラを見つめた。
思考が回転する。
(ファン……? 応援してくれる人たち? 何と言えばいいんだろう。『ありがとうございます』? でも、そんなこと思ってもいないのに口にしたら失礼かも。『当然の仕事です』? それじゃ生意気に見えるかな。……分からない)
数秒の沈黙。
スタジオ内に気まずい空気が流れかけたところで、アカネの口から漏れたのは、いつもの一言だった。
「……別に」
「あ、はは……! 相変わらずクールでミステリアスなアカネちゃんですね! そこがまたたまらない魅力です!」
アナウンサーが強引にフォローを入れ、拍手が巻き起こる。
アカネは冷めた目でそれを見ていた。
どれだけメディアに持ち上げられようと、チヤホヤされようと、アカネの見ている景色はモノトーンのままだった。
誰も、アカネ自身を見ていない。「魔法少女」という便利なラベルを見ているだけだ。
中学、高校と進学し、アカネの周囲には常に多くの人が集まってきた。
クラスメイトから話しかけられることもあり、心の中ではすごく嬉しかった。けれど、「誰も私の本当の境遇や過去を理解してくれる人は居ない」という冷たい現実が、いつもアカネの足を動かせなかった。
誘いを受けること自体は跳ね起きるほど嬉しかった。けれど、本当に仲良くなれる自信がない。うまく笑えない。言葉足らずで相手を不快にさせてしまうのが怖くて、アカネは常に一人でいることを選んでいた。
(……今日も、また)
思い出すのは、今日の放課後の出来事だ。
クラスメイトの女子生徒が「駅前に新しくできたクレープ屋さんに行かない?」と勇気を出して誘ってくれた。
本当は行きたかった。美味しそうだと思ったし、嬉しかった。けれど、無数の思考がパニックを起こし、結局アカネの口から出たのは「……いい」という冷たい拒絶の一言だけだった。
私を理解できる人なんて、この世界には誰もいない。
両親が死んだあの日の絶望も、空から降ってきた不気味な鉄塊の真実も、誰も信じてくれなかった。
だから、人と深く関わるのが怖い。期待して、裏切られて、また一人になるのが怖い。
誘われることは嬉しかった。話しかけられることも、本当はすごく嬉しかった。でも、本当に仲良くなれる自信がないから、いつも自分から透明な氷の壁を作って逃げてしまう。
学校の校門を出ると、今日断ってしまったクラスメイトたちの楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
「ねえ、やっぱり駅前のクレープ屋行こうよ!」
「いいね! インスタあげるー!」
彼女たちの放つ色鮮やかな青春の気配が、アカネには眩しすぎて、少しだけ目に沁みた。
(……クレープ。美味しそう)
もう、どうでもいいや。
そう自分に言い聞かせながら、アカネは校門を出て待機していた黒い送迎車の助手席に乗り込み、シートベルトを締めた。
車内には、エアコンの微かな送風音だけが響いていた。
「お疲れ様、アカネちゃん」
助手席に座る専属のマネージャーが、振り返りもせずにタブレット端末を操作しながら言った。
「今日も完璧な対応だったよ。『無口で冷徹な氷のヒロイン』のキャラクター付けはバッチリだ。スポンサーからの評判も上々だよ」
「……そう」
アカネはカバンを隣のシートに置き、深く腰掛けた。
「ところで、申し訳ないんだが、新たな任務の打診が入った」
マネージャーが画面を切り替え、後部座席のアカネに向けて提示した。
今度のお仕事は、桐里という財閥の令嬢の護衛らしい。
(……どうでもいい)
アカネはマネージャーの問いかけに対し、答えすら返さなかった。
ただ、冷たい車の窓ガラスに額を預け、流れていく灰色の街並みを眺めた。
ふと、窓ガラスに映る自分の顔が目に入る。
色彩を失い、感情を失い、ただ生きているだけの、十七歳の少女の顔。
(お父さん。お母さん)
心の中で、届くはずのない二人に呼びかける。
(私、ちゃんと生きられているのかな。……一番良い言葉、まだ見つけられないよ)
車は夕闇の迫る街を滑るように走り抜け、煌びやかで、どこまでも空虚な「次の現場」へとアカネを運んでいく。
アカネは静かに目を閉じ、深い、深い虚無の闇へと沈んでいった。
いつか、この凍りついた世界を溶かしてくれるような「何か」に出会えることなど、今の彼女には想像すらできないまま。
本編『魔法少女が表なら、忍びは裏。——国に見捨てられた姉妹は、偽りの聖女を影から狩る』にて主人公と敵対する魔法少女の物語になります。




