星屑のきゅうりと、あたたかい雪
世界から音が消えた夜だった。
窓の外は、漆黒の闇と、それを塗りつぶすような白い雪。
北国の冬は重い。家全体が雪の繭に包まれて、時間さえも凍りついているようだった。
古びた日本家屋の縁側で、旧式のアンドロイド「ロク」は、じっと膝を抱えていた。
彼の視覚センサーには、降り止まぬ雪のノイズが砂嵐のように走っている。
製造から五十年。ロクのボディはあちこちが錆びつき、最新のOSに対応できなくなって久しい。
「……おじいさんは、まだかのう」
障子の向こうから、枯れ葉が擦れるような声が聞こえた。
ロクは軋む関節を鳴らして立ち上がり、部屋に入る。
布団に小さく埋もれているのは、この家の主であるトメだ。御年九十八。この数日、彼女の意識は夢と現の岸辺を行き来していた。
「トメさん。今は真冬ですよ。おじいさんは三十年前に亡くなりました」
ロクの合成音声は、スピーカーの劣化で少しノイズ混じりだ。
トメは、虚ろな目で天井を見つめたまま、ふふ、と弱々しく笑った。
「知っておるよ。でもな、今日はお盆じゃろ? 遠くで提灯の明かりが見える」
「いいえ、それは除雪車のライトです」
「お盆じゃよ。……早く、馬を作ってやらんと。あの人が迷ってしまう」
トメの痩せこけた手が、布団の上を彷徨う。
「きゅうりはないかえ? とびきり速い、緑色の馬を作るんじゃ」
ロクの電子頭脳が検索をかける。
『精霊馬』。
お盆に、先祖の霊が早く帰ってこられるように供える、きゅうりの馬。
しかし、今は二月。外は猛吹雪。
冷蔵庫は空っぽだし、こんな山奥の豪雪地帯に配送ドローンも飛んでは来ない。
「トメさん。きゅうりはありません。今は冬ですから」 「……そうかえ」
トメの声が、ふっと沈んだ。
その目から光が消え、絶望という色の影が落ちる。
「馬がないと、あの人は帰ってこられん。暗い夜道で、凍えてしまう……」
涙が一筋、深い皺の谷を伝って落ちた。
ロクの胸の奥で、警告音が鳴った。
『重要:所有者の幸福度低下。精神的苦痛の緩和を推奨』
ロクはただの介護用ロボットだ。魔法は使えない。季節を変えることも、死者を蘇らせることもできない。
けれど、トメを泣かせたままにすることは、彼の最優先プログラムが許さなかった。
「……探してきます」 「え?」 「とびきり速くて、きれいな馬を。私が用意します」
ロクは部屋を出た。
向かったのは台所ではない。氷点下の納屋だ。
雪をかき分けて重い扉を開けると、冷気がロクの錆びたボディを容赦なく叩く。
ガラクタの山。古い農具。
ロクは暗視モードで視界を緑色に変え、何か代わりになるものを探した。
木切れ?
いや、それでは生気がない。プラスチック?
軽すぎる。
トメが求めているのは、瑞々しい「命」の形をした馬だ。
『テーマ:キラキラ』
ふと、ロクのメモリにある古いファイルが再生された。
何十年も昔の夏。
元気だった頃のトメとおじいさんが、縁側で並んでラムネを飲んでいた。
ビー玉がカランと鳴る。西日に透かした緑色の瓶が、宝石のように輝いていた。
『きれいだねぇ』と若き日のトメが笑う。
その輝きだ。
ロクはガラクタ箱の底から、一本の空き瓶を見つけ出した。
古いサイダーの瓶だ。厚みのある、深い緑色のガラス。
ロクはそれを握りしめると、作業台の万力に固定した。
右手の指先を変形させ、工具を展開する。本来は修理用のダイヤモンドカッターだ。
キュイィィィン……。
静寂な冬の夜に、ガラスを削る音が響き渡る。
ロクは彫刻家のように、無心に刃を動かした。
瓶の底を切り落とす。側面を削る。
ガラスの粉が舞い散り、ロクの銀色の体に降り積もる。ライトに反射したその粉は、まるで星屑のようだった。
バッテリー残量の警告が出る。
寒冷地での高負荷作業は、劣化したバッテリーには致命的だ。
『警告:残量15%。作業の中止を推奨』 ロクは無視した。
削り出されたのは、少し歪な楕円形のガラス塊。
ここからが本番だ。
ロクは指先のヤスリを高速回転させ、表面を磨き始めた。
粗い目から、細かい目へ。
曇っていたガラスが、次第に透明度を増していく。
深い森のような、あるいは夏の湖のような、吸い込まれるような緑色。
次に、足を作る。
ロクは自分の足の装甲パネルを外した。内部の配線を守るための、細い強化セラミックの棒を引き抜く。 バランス制御系にエラーが出るが、構わない。
四本の白い棒を、ガラスの胴体に開けた穴に差し込む。
これで形はできた。
だが、まだ足りない。
トメは「暗い夜道」と言った。おじいさんが迷わないための、道標が必要だ。
ロクは自分の胸部メンテナンスハッチを開けた。
動力炉の横で、予備電源として微かに光っている緑色のLEDユニット。
ロクは躊躇なくその配線を引きちぎり、ガラスのきゅうりの内部に埋め込んだ。
自分のメインバッテリーから、直結ケーブルを繋ぐ。
ブゥン。
低い音と共に、ガラスのきゅうりが内側から発光した。
磨き上げられた緑のガラスの中で、光が乱反射する。
ガラスに含まれた気泡の一つ一つが光を孕み、まるで天の川を閉じ込めたように輝き出した。
それは、ただの野菜の代用品ではなかった。
冬の夜に生まれた、光の精霊馬だった。
ロクは足を引きずりながら、母屋へ戻った。
バッテリー残量は3%。視界が明滅し、足元の感覚がない。
それでも、手の中の光だけは守り抜いた。
「トメさん……」
部屋に戻ると、トメの呼吸は浅く、弱くなっていた。
ロクは枕元に跪き、その光る馬を掲げた。 暗い部屋が、一瞬にして緑色のオーロラに包まれた。
「……ああ」
トメが目を開ける。
その瞳に、キラキラと瞬く緑の星が映り込む。
ガラスの透過光が、障子に幻想的な模様を描き出していた。
「なんて……きれいな……」 「特製の馬です。ガラスと光でできていますから、どんな暗闇でも照らせます。それに光の速さで走れますから、おじいさんもすぐに帰ってこられますよ」
ロクがそう告げると、トメは震える手を伸ばし、ガラスの馬に触れた。
冷たいはずのガラスが、ロクのバッテリーの熱でほんのりと温かい。
「温かいねぇ……。まるで、あの人の手のようだ」
トメが、少女のように微笑んだ。
その時、奇跡のように窓の外の雪が止んだ。
雲の切れ間から、冬のダイヤモンドと呼ばれる一等星たちが顔を覗かせ、部屋の中の緑の光と共鳴するように瞬いた。
「……聞こえるよ、ロク」
トメが天井を見上げる。 「鈴の音がする。……ああ、来た。早いねえ。本当に、速い馬だこと」
トメの視線の先には、ロクには見えない誰かが立っているようだった。 彼女は安心しきった顔で、ガラスのきゅうりを胸に抱いた。 「ありがとう、ロク。あんたは、本当にいい子だねぇ」
トメの手から力が抜けた。
モニターの波形がフラットになる。
けれど、その死に顔は、最高の夢を見ているように安らかだった。
ロクのバッテリー残量が0%を表示した。 強制シャットダウンのカウントダウンが始まる。 10、9、8……。
ロクは動かなくなったトメの手を、自分の冷たい手で優しく包み込んだ。
任務、完了。
視界がブラックアウトしていく中で、胸元のガラスのきゅうりだけが、いつまでも、いつまでもキラキラと輝き続けていた。
それは、二人の魂を乗せて冬の夜空を駆けていく、流星のようだった。
静寂が戻った部屋に、優しい光だけが残された。
(了)




