界人と稲田家
気持ちが和らぐと、初めて空腹を感じた。それを示すように腹の虫がタイミングよく鳴る。静かな部屋にはよく響いて、流石に気まずかった。
「お腹空いた?」
口角を上げている界人は琴を見た。ちょっぴり恥ずかしくなったが、素直に頷いた。
「ちょっと待って。何かあるか見てくる」
キッチンの方へ消えていく界人を見送ると、残った紅茶を全て飲み干した。
写真集を鞄に仕舞うと手持ち無沙汰になり、無意味に部屋をキョロキョロした。
界人の部屋は考えていたよりも整理整頓されていて、琴の部屋より余程綺麗だった。生活感はあるが服が脱ぎ捨てられたままとか、鞄が床に放置されているとか、ゴミ箱が溢れているとか、そんな事が一切ない。
(豪快な性格じゃから、もっとワイルドな部屋かと思ってた)
見た目で人を判断してはいけないと、琴は反省した。
部屋で待つだけに飽きると、空になったコップが気になった。
いつも自宅でしている習慣は、他人の家に入っても抜けることはない。
流しに持っていこうと琴もキッチンへ向かった。
狭い台所では界人が棚を覗いている。
「コップ、置いとくね」
「うん。カップ麺しか無いかも……。冷蔵庫もほとんど空だった」
「いいよ。コンビニでも行ってくるから」
「でも高くつくよ?野菜と少しの肉ならあるけど……ご飯がない」
「なら、肉と野菜を炒めてカップ麺の上に乗っければ?」
「あっ、名案。そんなやり方したことなかった」
「そうなん?うちはたまにやっとるよ。ボリューム増えるし栄養も取れるから」
「へー。今度からそうしよ」
界人は冷蔵庫から玉ねぎと人参、もやし、豚肉を取り出すと「フライパンとって。琴の足元にあるから」
観音開きの流し下収納を開けて、1個しかないフライパンを渡した。
「サンキュ」
「あたしお湯沸かそうか?」
「じゃあ、お願い。ポット無いから鍋になるけど」
「分かった」
またかがんで鍋を取り出すと、流しで水を汲みながら
「このコップも洗っちゃうね。家だとすぐに洗うから、残ってたらなんか気になる……」
スポンジに洗剤をつけ始めた琴を見て、界人が笑った。
「意外と家庭的」
「意外?」
「うん。実家暮らしってあんまり家事手伝わなかったりするじゃん。俺もそうだったし。一人暮らし始めてから掃除とか整理整頓に気を配りだしたから。不本意じゃけど、小うるさく言われた母親の教えが生きとるなって実感した。料理もカレーとか炒飯くらい作れて良かったと思ってる」
トントンと野菜を切る動きは慣れていることが伺え、自炊している事も分かった。
「お母さんに感謝やね」
「うん。面と向かっては言いにくいけど……。母の日は良いもの贈ろうと思ってる」
琴は「そっか」と笑った。
「それにさ、今更になって琴が俺の部屋に居ることに緊張してる」
「えっ?今?」
「隣に立って一緒に料理してるって考えたら……実感湧いてきた。彼女と料理するって憧れの一つじゃったから、1個叶ったかな」
ニカッと笑顔を向けられて、思わず顔が赤くなる。
「憧れとか……あるんじゃ」
「普通あるじゃろ?琴は何かしたい事とかないん?」
言われても何も浮かばなかった。
そもそも誰かと付き合うとか、一切考えたことが無かった。
「ない……。恋愛自体、自分とは縁遠いものって考えとったし……。だいたい恋愛映画とかドラマとか漫画とか、そういうのもほとんど見たこない」
「へぇ。そっか…」
一般的な女子ならきっと興味があるジャンルだろう。しかし琴はドキュメンタリーや街をのんびり散策する番組、雑学などを好んだ。
「なら、琴の付き合うってどんなイメージ?」
「イメージ……?」
「それくらいはあるじゃろ?」
火にかけた鍋を見ながら考えてみるが、ほとんど浮かばない。
「2人で映画いったり遊園地とか水族館行ったり?」
「そうそう」
「ショッピングしたり、ドライブしたり……これはデートか?」
「まぁそうかな」
改めて考えると、デートと付き合うの違いがよく分からなかった。
「2人で出掛けるだけじゃないよな、付き合うって」
「そうよな。お互いの家に行ったり友人を紹介したり、小まめに連絡取り合ってなんてこと無い会話をしたり……そういうことじゃと思う。俺は彼女が家に来てくれたら、一緒に映画見たり料理したりしたいなって思ってた。今まで付き合ったことないから、それ以上ははよく分からん」
「えっ?付き合ったことないの?」
「ないよ。片思いばっかりで」
界人は切り終えた野菜をフライパンに移し、火をつけた。
ボッと灯った火から目を逸らして、琴を見つめて
「琴が初めての彼女」
「………そっか」
なんだかくすぐったい気持ちになり、不意に鍋に視線を戻した。
「あっ、照れた?」
界人は琴の視線を追うように顔を覗き込んできた。
「て、れてない……」
「うそ。顔赤いよ?」
「気のせいっ」
「そうかな?」
「そう!ほら、ラーメンの袋開けんと!」
インスタントの袋をつかんだ所で、界人「可愛い」と後ろから抱きしめた。
「いや、火が近いから!」
「分かってる」
界人はギューっ琴にしがみつくと、手首を掴んできた。
「俺の家なのに琴の匂いがする……」
「えっ。なにそれ」
「落ち着くってこと」
肩に界人が頭を乗せてきて、さらに体温が上がった。
「こうしてるだけでも幸せ……」
「そ……そう………」
フライパンがパチッと鳴る。界人は器用に野菜が焦げないように琴を抱きしめたまま菜箸でつついた。
「これからインスタントラーメン作る時は、この作り方にしよ。琴のこと思い出すし」
「あたしラーメンで思い出されるの?」
「ラーメンもさっき手に持ってた写真集でも思い出すよ。あとはダージリンの紅茶でも」
「……多くない?」
「多くないよ。もっと増えるよ?一緒にいればいるほど、琴を思い出すものが増えてく。付き合うってそういうことでしょ?」
「そう……なんかな………」
「そうなの」
もう一度ギュッとすると、今度こそ琴を解放し
「このどんぶりに麺出して」
肉を切る準備に入った。
やっと自由になったことにホッとして、遅い昼食作りを続けた。
ラーメンが完成すると隣の部屋でお喋りしながら食べた。テレビは付けず、他愛もない話をした。
今日のインタビュー内容を一緒にまとめよう、提出用に写真のデータをインストールしよう、琴のデータも欲しいからまた家に来て欲しい……。
「レポートの手伝いはほんとにいいよ?一人でやるし」
「あたしは自分のやつやるから。ここなら2人でパソコン広げても出来るじゃろ?界人が質問したいことあったらいつでも聞けるし、写真のデータも直接パソコンに落とせるよ」
「まぁ、効率はいいけど。……うん。琴が自分のレポートするならいいか。何より一緒におれるしな」
またニカッと笑った。白透とは違う笑顔だが、今はこちらの方が琴の心臓に悪い気がした。
また顔を伏せて「……うん………まぁ…そうじゃな」と呟いた。
「琴も一緒におりたいって、思ってくれとるんじゃろ?嬉しい」
改めて言葉にされるとさらに顔が赤くなった。
(そういう事になるんかな?一緒にいるのが自然だとは思うようになったけど……。)
せっかくやるなら一緒にと考えただけなのだが、確かにこれまでの共同研究の相手にはそこまでの感情を抱かなかったので、そういう事なのだろうと考えた。
「うん……。まぁ、そうなんかも」
小声で言うと、界人が「ねぇ、キスしていい?」突然尋ねてきた。
「は?」
「今の凄く可愛いかった」
「どこが……?」
「素直に一緒におりたいって言ってくれたこと。キスしていい?」
界人は立ち上がると数歩で琴の隣に移動して、横に座った。
するりと腰に手を回されてピクっと反応してしまう。
「いい?」
ぐいっと近づかれ、思わず天井を見上げた。
初めての時はなんとなくで唇を重ねた。確認はなく空気感でそうなった。今のように改めて聞かれると恥ずかしく、どう言えばいいのか分からなかった。
無言の琴に、
「返事ないってことはいいってことよな?」
頭に手を回しながらそう言った。
「琴は嫌な時、ちゃんとそう言う。返事ないってことは、これからもオッケーと思うよ?」
最終確認のようにそう言われた。
やはり返事は出来ず、顔を近づけてくる界人を見ながらゆっくり目を閉じた。
頭をクイッと引き寄せられると唇が触れて、しばらく離れなかった。
強引でもなく強すぎもしない、軽い拘束感。
ちゅ、という音と共に離れると「もう一回……」角度を変えてまた触れ合った。
「んっ……」
予想してなかった事に思わず声が漏れたが、それが自分の声とは思えず驚いた。2、3回それが続くと流石に息が苦しくなって、
「ぷはぁ……」
やっと頭を引き寄せた力が緩まると、思いっきり呼吸をした。
「苦しかった?」
はぁはぁと繰り返す琴を見ながら界人は微笑んだ。
「な、長いって………」
「それはしかない」
悪びれる事もなくそう言うと、琴の手を握って「可愛いからね」抱きしめられた。
「界人ってけっこう積極的だよね……」
もう抱きしめられた回数だけなら、かなりになっている気がした。
「そう?誰とも比較したこと無いから分からん」
「それはそうじゃろうけど……」
「だいぶ慣れたじゃろ?こうされるのも」
言われて見れば確かに。違和感が少なくなってきた。
「………そうかも」
「なら成功。こうやってどんどん琴の初めてを貰うな?」
笑みがいやらしく見えて「えっち」思わず睨んだが、
「そんな赤らめた顔で言われても、照れ隠しにしか見えんよ?」
笑われた。
「片付けたら帰ろうか。そろそろ夕方になる」
界人は家まで送ってくれた。道中は手を繋いで、一緒にレポートをやる日にちを決めた。
「白透にスマホ持っていったら報せる。明日は何時に大学行く?」
「9時半かな。講義の前にレポートの調べ物したいから」
「なら一緒に行こう。俺は2限目から講義じゃから」
「分かった」
店が見える所まで来ると、店舗が見えた。今日は定休日なので入り口のカーテンは閉まっているはずだが、何故か空いていた。
不思議に思い目を凝らすと、いつもは店舗にいない父と目が合った。
「ん?」
反射的にドキリとして声が出るのと、父が立ち上がってこちらに向かってくるのが同時だった。
琴は咄嗟にマズいと思ったが、界人も父の姿を見ていたので、もうどうする事も出来なかった。
長身の父が肩を怒らすと威圧感が凄まじく、並の人間なら縮こまってしまうだろう。身内の琴でさえ少なからず震えた。こんな父は見たことがなかった。
「その人は?」
挨拶も笑顔もなく、開口一番にそう聞かれた。
「えっと……鷹取界人くん。同じ大学の」
おずおずと言うと、手を繋いだ所に視線が向けられた。琴は思わずギュッと握ってしまう。
「それで?」
なにが?といつもなら聞き返すところだが、この時ばかりは出来なかった。
「はじめまして。鷹取界人です。琴と付き合ってます」
真正面から向き合ってそう言った界人は、至極真面目な顔をしていた。よく度胸があるな、と琴は初めて界人を尊敬した。
「……付き合ってる?」
父は眉をピクリと動かして、眉間のシワをさらに深くした。もう堅気には見えないと、琴は実父を見て思う。
「はい。今月に入ってから付き合ってます。よろしくお願いします」
お辞儀をすると、
「琴を送らせてもらいました。明日の朝も一緒に登校するので迎えに来ます」
ハッキリ言った。
父は何も言わず、腕組みしてただ界人を見た。
琴はこんなにも緊張する無言の空間は初めてで、ドキドキと2人を見守った。
「琴、付き合ってるのは本当か?」
界人から目を離さず尋ねてきた。
「うん。今日もずっと一緒にいた」
「何もされてないか?」
「手を繋いでるだけ」
流石にキスしたとは言えず、それだけ伝えた。
「鷹取くん、言っておくが――」
父が何を言いたかったのかは分からなかった。後ろから母が飛び蹴りしてきて、構えても居なかった父は見事にすっ転んだからだ。
界人は琴をさっと庇うと、まさに界人が立ってい場所に父が倒れてきた。
「ちょっと、何してんの?」
琴と界人は唖然として母をみた。
まさに仁王立ち。
長身の父よりも余程迫力があり顔も怖かった。
この時、琴は初めて母には逆らわないでおこうと思えた。
「店番もないのに何をしてるかと思えば……。あんた、偵察してたね?」
地面に転がった夫を見下ろす様は、まさに上から目線で有無を言わさない雰囲気があった。
「琴の彼氏を牽制するなって言ったよね?」
「いや、そう言うつもりじゃ……」
「彼氏くんじゃなくて琴の方が縮こまってるでしょうが!」
界人にぴったりくつっついて怯えた目で父を見る娘に初めて気が付いたのか、
「琴、すまん」
謝った。
母は父の襟首を掴むと信じられないくらいの力でぐいっと立たせ、
「彼氏くんと琴に謝って」
まるで子どもに言い聞かれるようにそう言った。
父は先程までの威圧感は微塵もなく、肩をすぼめていた。
「琴、鷹取くん……。すまん………」
「いえ………」
しゅんとした姿は図体に似合わず、はたから見れば面白く映るだろうと思えた。
母は、
「ごめんな、鷹取くん。遠慮なく家に来てええからね。明日も迎えに来てやって。この人が睨もうが気にせんでええから!なんか言われたらあたしに言ってな」
にこやかにそう言うと、
「これからも琴をよろしくね」
と満面の笑みで笑った。
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
界人が頭を下げると琴を見て、
「じゃあ……また明日」
少々ぎこちない笑顔で挨拶した。
「うん……。なんかごめん」
界人を見送ると、3人で家に入った。
母はずっと怒っていて、父の夕飯のおかずは一つ減らされた。
「娘の幸せを考えるなら、威嚇したりせんでって話たよな?琴が一生独身でもいいわけ?」
正座して話を聞く父は、いつになく小さく見えた。
「琴も何の遠慮もいらんからね。親としてはコソコソされるのが一番嫌なの。きちんと気持ちがあって付き合ってるなら、堂々としなさい。分かった?」
コクリと頷いた。
琴は母を初めてカッコいいと思った。




