恋の疼き
案の定、時間には相当早く、まだ誰も来ていなかった。
がらんとした10畳ほどのスペースに椅子とテーブルだけだがある部屋。普段は同好会意外では使用しないので、少々埃っぽい。
そんなことは気にせず、琴は椅子に座り込んだ。色々と限界だった。
抱きとめられた衝撃の感情と、界人に好意を寄せられていると意識しまくった結果、動揺してミスを連発。
張り詰めた神経が糸を張りすぎて、強く疲労を覚えた。
ぐったりとした様子の琴を見て、界人は
「今日の琴、なんかおかしいけど……。どうかした?」
気遣わしげに向かいの椅子に腰を下ろした。
どう、と言われても琴には上手く返事が出来なかった。白透から聞いた内容を伝えるわけにはいかなかい。
「いや……特には……」
「嘘。明らかにおかしいじゃろ」
琴は舌打ちしたくなった。
憎らしいほどに見破ってくる。
「もしかして、昨日家に上がったことがお父さんにバレた?厳しいって言っとったもんな」
「いや、違う……」
「なら、お母さんに根掘り葉掘り聞かれたとか?」
「まぁ……それはあるけど」
「それだけじゃない?」
返事がないので、肯定と捉えた界人はうーんと頭をひねった。
「体調悪い?」
「いや……」
「昨日外出したから疲れた?」
「いや、そこまでは……」
「今日の講義でなんかあった?」
「ううん……」
琴は突っ伏したまま首を振った。
「だったらどうしたん?」
口数少なく、目が合えば逸らされ、言動に落ち着きがない。
完全にいつもの琴らしくない。
「昨日、俺等が家に行ったのまずかった?」
「そんな事ない」
「俺、琴に何か言った?嫌なこと口走った?」
ふるふると首を振った。
「なら、白透に何か言われた?」
「――。」
沈黙してしまった。
(これか……)
稲田家をあとにする前、琴がおかしな行動をしていた。
「俺が電話して戻って来た時、頭ゴンゴンぶつけとったもんな……。あの時?」
「……」
肯定と捉え、
「何を言われたん?」
尋ねたが、返ってきたのは
「……言えない」
一言だけだった。
この時点で、界人には何となくの想像がついた。
応援する、と言っていた白透のことだから、何か界人の後押しになるような事を言ったのかもしれない。
界人は今日の琴の態度を振り返る。明らかに落ち着きがなく、界人と目を合わそうとしない。それに手を重ねた時のあの反応……。
いつもなら、嫌な事は嫌という性格の琴だ。
顔を赤くしたのもよく分からない行動も、恥ずかしさからの動揺だとしたなら――――。
「俺が琴をどう思ってるのか、聞いた?」
ハッと息を呑んだのが分かった。
これで十分だった。
白透は布石を打ったのだ。たった一つの布石を。
界人は心を決めた。
昨日白透に言ったのだ。
琴の想い人になるように頑張ると。
「琴。顔上げて」
ヒクリと肩が震えた。
「大事な事、伝えたいから」
しばし琴は動かなかった。
ここまでくれば何を言われるのか、悟っただろう。
言葉を聞く覚悟を決めているのかもしれない。そう思って界人は辛抱強く待った。
しかし琴は耳を赤らめて机に突っ伏して、ただでさえ見えない顔を、更に手で覆った。
そこから動かないので、堪えきれなくなった界人はもう一度声を掛けた。
「琴。大事な事を伝えたい。お願いだから顔上げて」
真剣な声に、琴はノロノロと上体を起こした。
そしてゆっくりと手を下ろし、界人を見た。
彼は真っ直、揺るぎのない目で琴を見ていた。
「俺、琴が好きなんだ」
琴の息が止まるのが分かった。
「琴の笑顔が好きだよ。もっと見ていたいし、もっともっと会いたい」
手を握り、指先を通して気持ちを伝えようとした。
琴は手を振り払らわなかった。
「俺と付き合ってほしい。もちろん、無理強いはしない。今すぐ返事が欲しいとも言わない」
黒い宝石のような潤んだ目が、じっと界人を見つめ返していた。
今の琴は自分しか見ていない。
自分の声しか聴いていない。
それがたまらなく嬉しかった。
「絶対悲しい思いはさせないし、大切にする。琴じゃないと、そんなふうには思わない」
2人の視線は絡みついたように交差し続けた。
琴はこれまで感じたことがない心の締め付けに震えた。
切ない疼きにも似たその想いは確かな熱を持ってそこにあった。
それはハッキリと恋だと分かった。
その瞬間から、もうまともに界人の顔が見れそうになかった。
「あ、ありがと……」
照れにより逸らした目線の行き場がなくなる。
琴の心臓は早鐘を打ちっぱなしだった。琴の耳元でこんなにも音がするのだ。界人にさえ聞こえるのではないかと思った。
界人に握られた手を見た。そこに体中の熱が集まっている気がした。
すっぽりと包まれた手を離してくれる気配はない。
どうすれば解放してくれるのだろう。
「あの……」
何か言わなくては。
返事は今すぐじゃなくてもいいと言った。
なら、いつすればいいのだろう?
同好会の後?
明日?
明後日?
(そこまで隠しておける自信ナイ……)
こんな緊張状態を何時間も、何日も抱えておくなんて出来ない。身体も心も保たない。
「嬉しいよ……。ありがと」
普段とは比べ物にならないくらいの小声だった。
自分らしくない態度だ。今まで生きてきた19年で、知らない自分がそこにいた。まだこんな自分の一面があったのかと思った。
界人は「えっ?」と驚きの声を上げた。
琴はその声に反応して界人を見た。
彼はあんぐりと口を開ている。
「嬉しの?」
「えっ!ダメなの?」
琴は慌てた。何かおかしかったのだろうか?
「いや、ダメとかない!そんなわけないじゃん!」
界人は相変わらず驚いた表情のままで首を振った。
「嬉しんだ……。そっか……そっか……」
琴の言葉を噛みしめるように繰り返して、呆然と机を見ている。
琴をの手を握る力が強くなった。少し痛いくらいで、琴は界人が何か覚悟をしているように思えた。
不意に界人が顔を上げると、
「琴、俺の事嫌いじゃない?」
「うん」
「なら、好き?」
「っ……」
口籠った。
嫌いか、に対してはすぐに返事が出来るのに、逆の言葉で問われると何故か声が出なくなる。
(人間の心理って謎だ……)
そんな事を考えながら、琴はパクパクと口を開けようとしては閉じた。
何かとんでもない力が働いて、声を奪ってしまったようだった。
このままでは誤解を招いてしまう。それは嫌だった。
琴は何とか首を縦に振った。
コクコクと頷くのを見て、界人は握っていた手を離して机越しに琴の肩を掴んだ。
がしっと掴まれたことに驚いていると、
「琴、抱きしめていい?」
「ふぁ?」
変な声が出た。そしてボボッと顔が真っ赤になった。
「なっ、何故に?!」
ぷっと吹かれてしまった。
「何故って……」
ふるふると肩を震わせて笑いを我慢している界人は、それでも掴んだ肩を離してはくれなかった。
ひとしきり笑うと、いつものニカッとした笑顔で琴を見た。
琴の心臓は射抜かれそうになった。
(可愛い……)
一瞬でも我を忘れてそう思った事に、琴自身が驚いた。
「何故と問われたら……琴が好きな故に、かな?」
またボボっと血が昇った。
「あとは……琴が可愛い故に。琴が愛しい故に。琴を堪らなく愛しく思ってる故に。琴を…」
「もっ、もういいって!」
連呼される言葉の数々に耐えられず、思わずストップをかけた。
「まだあるよ?」
「まだあるの?!」
困惑した琴を見てクスッと笑って、頬をそっと撫でた。そこから電気が走ったようにビリビリとした感覚が駆け抜け、琴はピクリと身体を震わせた。
「――いい?抱きしめても?」
じっと見つめられると、もう目が離せなかった。
声が出ずに、またコクリと頷いた。
界人はグイッと身体を引き寄せると、力強く抱きしめた。界人の体は熱かった。
「――嬉しい。凄く嬉しい」
耳元で界人の声がする。熱い息が言葉と共に琴の耳に入ってくる。それがくすぐったかった。
「生まれて初めて、こんなに嬉しかも」
「そんな大袈裟な」
「大袈裟じゃないよ……」
息が止まるほど、ギュッと抱きしめられた。
「好きな人が答えてくれたんだ。こんな嬉しいとない」
好きな人。
それにまた顔が赤くなる。
「ねぇ、界人……。ちょっと苦しい」
「うん、ごめん。……でももう少しだけ――」
頭をぐっと引き寄せられる。
界人の顔が真横にきて、頬が、耳が、触れ合った。
触れ合う場所、全てが熱かった。
「琴、好きだよ」
「うん……」
琴も界人の背中に手を回す。
大きな背中は手が回りきらず、掴める所を握った。
「あたしも」
小さな声だったが、それでも十分に聴こえる位置に界人の耳がある。
界人は抱きしめる少し力を緩めると、琴を見た。琴も見つめ返したら、どちらともなく顔を近づけて、自然と唇を重ねた。その瞬間に言葉を交わすことでは決して伝わらないものが、なにか光った。
時間にするときっと短かった。
しかし2人にとってのファーストキスはとても長く、胸がギュッと痛みのように締め付けられる感じがした。
ゆっくりと唇が離れるとまた目が合い、互いに少し笑った。今までに感じたことがない暖かくて親密な気分の中に、僅かな疼きが残った。
好きという強い感情が生み出す恋の疼きは、決して悪くなかった。




