第2節 遠い日の追憶
そして次の日。セーラと出会ってからは二日後。リアンは父親の指示で、家の隣にあるぶどう畑の仕事の手伝いをしていた。
今はちょうど収穫の時期だった。
まだ朝霧が畑のうね間にうっすら乳色のヴェールを落とす時間。セーラはそろそろ、この村を発った頃だろうか。
しっかりとした体躯を持つ父親のガイルの隣で、リアンは心ここにあらずといった様子で作業を続ける。
ガイルもリアンと同じ栗色の髪をしている。体つきこそ違うけど、リアンはガイルの面影があった。
「父さん」
「……どうした?」
紫色の宝石とも称されるぷっくりと実ったぶどうの房。それをガイルは剪定鋏を使って慣れた手つきで切り落とし、籠に入れながら相槌を打つ。
リアンもそれに倣って手を動かしながら、少し思案してから問いかける。
「ねえ父さん。父さんの夢ってなに?」
「……なんだ、藪から棒に」
「…………」
黙り込んだリアンに、ガイルは軽く息を吐いてから言った。
「さあな。とにかくお前は手を動かせ。今は大事な収穫の時期だ。冬になったら、今度は剪定のやり方を覚えてもらわなくてはならんからな」
「……わかってる」
わかってるけど……。今度はリアンがため息をついた。
「俺はそれより、また剣を教えて欲しいんだけどな」
するとガイルは手を止めて、横目でリアンを見た。
「剣術などは、必要以上に覚えなくていい。護身ができれば十分だ」
「でもさ。……楽しかったから……俺は」
畑の世話よりも、とは言わなかった。
「そうか……なら、この仕事を覚えたら、また教えてやる」
「約束だよ」
「昨日みたいにサボらなければな」
痛いところを突かれて、リアンは渋い顔をした。
収穫が終わり、夕飯を食べたら、今度は母に倣って家事の手伝いをする。
母親の名前はミレイユ。優しいし働き者だけど、いつも病気がちで寝込んでいることも多い。
「なに? リアン、今日は掃除もしてくれるの?」
「うん……なんか、いつも悪いなって思って」
今までは家のことをなんでもやってくれる母に甘えてきたけど、なんだかリアンは、それじゃいけない気がした。
「ふぅん」ミレイユは、嬉しそうに微笑んだ。「なんだか、急に男の子の顔になったね」
「からかわないでくれよ」
「あはは」
ミレイユは本当に喜んでいるのだろうけど。実の母親にいきなり優しくするというのは、男子として思った以上に恥ずかしい。
そんな気持ちを誤魔化すようにリアンは急いで居間の掃除を済ませた。
「じゃあ、俺、書斎のほうやってくるから」
「うん。おねがい」
そうして振り返りもせずに、リアンは隠れるように書斎の中へと入っていった。
リアンたちが暮らしているのは、ぶどう畑のわきに作られた一軒家だった。村の端っこにあって、窓から見える景色は自然豊かで、のどかだ。コルツ村は田舎だけど不便を感じないくらいに文明の恩恵が受けられる、いいところだと思う。そのぶん退屈ではあるけど。
文明の利器といえば、リアンが使っているこの魔法のランタンもそう。高級品ではあるけど、火がなくとも火よりも明るい光を発する便利な機器だ。その灯りで書斎の中を照らしながら、リアンは掃除を続ける。
「夢……か……」
セーラと会ってから、ずっとそればかりが頭から離れない。
夢。自分の夢は、いったいなんなのだろう? セーラの問いかけに、どう答えればよかったのだろう。
胸を刺すような切なさが、なぜか抜けない。リアンは何か大事なことを忘れているような気がした。
そのとき。
ばさり、と、書斎の本棚から一冊の本が落ちた。
「わっ。びっくりした。……この本、なんで落ちたんだ?」
書棚には本がきっちり並べられていたから、この一冊だけ落ちてくるなんて、そうそうないはず。不思議に思いながらリアンは本を拾い上げて、表紙を確認した。
そのタイトルは。
「……ラスベル……冒険記……」
かつて、リアンが好きだった本。憧れた英雄の名前。冒険。
それを見た瞬間――。
リアンの心の中に、かつて幼い頃の記憶が、感情が、奔流となって蘇ってきた。
ラスベル冒険記は、昔、よく母に読み聞かせてもらっていた本だった。
そのときの記憶が、当時感じていた色彩や匂いとともに、鮮明に浮かび上がってきたのだ。
リアンは本のページを開いた。古く色褪せた紙。それでもしっかりと読み取ることができる。今なら、読み聞かせてもらわなくても自分の力で読むことができる。
するといつしか、夢中になって読み進めている自分がいた。本のページをめくるたびに、ああ。あのときの、幼い少年だった頃の気持ちへと戻っていく。
母に何度も読んでほしいとせがんだこの『ラスベル冒険記』の内容は、記憶の底にしまっていただけで、すべて覚えていた。
本の内容を要約すると、こうだ――。
ごく普通の村の青年に過ぎなかったラスベルが、世界を股にかけて冒険をするうちに、いつしか勇者と呼ばれるようになる物語。
その傍らには、旅の途中に出会った恋人のエレナがいつもいて。
やがては人々を脅かす災いの黒龍をその手で倒し、物語のラストでは、出会った者の願いを叶えるという伝説の霊鳥フィリオスルピアを見つけ出す。
ああ。冒険したい。世界を股にかけた冒険を。そして……伝説の霊鳥フィリオスルピアに会いたい。
それが、幼い頃にリアンが夢見たこと。バカげているかもしれないけど、本気でそう思っていたんだ。
どうして忘れていたんだろう。必要ないから? それが大人になるということ?
リアンはその日の晩、掃除を終えてから眠りに落ちるまで、懐かしのラスベル冒険記を読み耽った。




