7 再会
「オルタナ子爵令嬢」
街に買い物に出て便箋を購入した帰りに、横付けされた馬車の中から声を掛けられた。
その馬車は敢えて家紋の入っていない質素な馬車であったが、使用している材質は上等なものに見えた。このような馬車を使っているのは、お忍びの高位貴族が大半だ。声を掛けられたのは大通りから一本入っただけの路地で、昼間なのでそれなりに人通りも多い。そこまで警戒はしなくて大丈夫かと判断して、それでもすぐに馬車に押し込まれない程度に距離を取って立ち止まった。
「どなたでしょうか」
「こちらを」
馬車の中から眼鏡をかけた商人風の男が降りて来て、ヴィーラに一通の封筒を手渡した。ヴィーラの視線が少しばかり上になる男は、アレクサンダー程ではないが平均的な男性より背が高い。そして、それこそアレクサンダーを見慣れているだけあって、その男も相当鍛えているのが分かった。一見細身ではあるが、動きによって垣間見える肩や腕のラインが明らかに鍛え上げられている。
その男の所作は貴族のものだったし、服の素材は明らかに上等なランクのものだ。どこかの高位貴族のお忍びに付き従う従者兼護衛と言ったところだろうか。
ドアが開いたままの馬車の中にそっと視線を向ける。馬車の中は薄暗くよく見えない。しかし、奥の席に女性らしきスカートの裾がチラリと覗いていた。
「ご同行、願えますでしょうか」
渡された封筒の裏側の封蝋の紋様を確認する。そこには、濃紫の封蝋に何度か見たことのある紋様が押されていた。
「あの…私だけでは判断が付きかねます。一度家に戻って話を通しても…」
「オルタナ子爵令嬢をお迎えに行くように、と命じられております」
「ではそちらに伺う旨だけでも誰かに言伝を…」
「あまり時間が取れないのです。申し訳ありませんが、ご同行を」
「…かしこまりました」
行き先も告げられないのは明らかに怪しいが、男の圧は有無を言わせぬものだった。
封蝋の紋様は、ノマリス家で何度か見た王城の騎士団から送られて来る物と同じだと気が付いた。これまでに騎士団から送られて来たものは、まだアレクサンダーの処遇が未定ということと、怪我をした騎士の意識も戻っていないという似たような内容ばかりだった。確かその時の封蝋の色は赤かったと記憶している。室内と屋外で見ると印象が変わることもあるが、ヴィーラが渡されたものは明らかに違う色だ。
ヴィーラを連れて来るように命じたのは、騎士団でも王城とは違うのだろうか。
仕方なく馬車に近付いて中を覗き込むようにすると、やはり乗っているのは女性らしい。中は大分暗い上に帽子を目深にかぶっていて顔ははっきり判別出来なかったが、ヴィーラの方を向いて僅かに会釈をして来た。ドレスの感じから、若い貴族令嬢に見える。それならばそこまで危険はないだろうと思い、仕方なくヴィーラは頷いて承諾を示す。
明らかに男は安堵した様子で、きちんとエスコートしてヴィーラを馬車に乗せた。
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馬車に乗り込んで、ヴィーラは中で待機していた女性の正面に座った。続いて乗り込んで来た男が女性の隣ではなく、何故かヴィーラの隣に座る。座面も高級で座り心地のレベルが違う馬車ではあるが、大きさ自体は貴族用程大きくない。不必要に男の距離が近くに思えたので、ヴィーラは壁際に張り付くように座り直した。
「あの…手紙を確認したいので、少しカーテンを開けていただいてもよろしいでしょうか」
馬車がゆっくり走り出すと、少しでもどこに連れて行かれるのか確認しようと男に声を掛けた。ヴィーラが張り付いた壁側には、窓はあるのだがまるで鎧戸のように閉じられて外が見えず、そっと引いてみたものの全く動く気配がなかった。反対の男のいる側の窓はカーテンだけで、閉じられてはいるが僅かに光が漏れている。
「その手紙は白紙ですので、読む必要はありませんよ」
「…っ!」
「それに、開けて外から見えると…少々外聞が悪いでしょう?」
男が片手で軽くカーテンを捲ると、馬車の中に僅かに細く光が差し込み、目の前に座っている女性の姿がスゥ…と薄くなった。再び男がカーテンを降ろすと、また薄暗い中に女性がハッキリと目視出来るようになる。ヴィーラが恐る恐る手を伸ばすと、何の手応えもなく女性をすり抜けた。
「簡単な幻影魔法です。強い光が当たるとすぐに分かってしまう程度のものです」
女性がいると思って乗った馬車だったが、実際はこの小さな密室に見知らぬ男性と二人きりになってしまった。ヴィーラは出来る限り男から遠い壁に張り付いて、後ろ手に扉を開けようと体重を掛けた。しかし、予想通りビクともしなかった。
「走ってる馬車から飛び降りたら怪我をしますよ。貴女に危害を加えることはしないと誓いますので、抵抗しないでいただけるとありがたい」
「…貴方を信じろと?」
「怖がらせてしまったのはお詫びします。しかし、貴女と関わる人間は極力少ない方が良いので」
「……分かりました。抵抗はしません」
「聞き分けが良くて助かります」
「その代わり、貴方に全力で『不幸』が降り注ぐように祈ります」
「……それは…!」
ヴィーラの言葉に男が目を丸くしたが、やがて肩を震わせて笑い出した。そして、するりと眼鏡を外す。
次の瞬間、男の姿形は大きく変化し、黒っぽい短髪に灰色の瞳をした美丈夫と呼んでもいい整った顔が現れた。先程までの商人風の男の顔は、靄が掛かったようにぼんやりとしか思い出せない。おそらくその眼鏡に認識を阻害する魔法でも掛かっているのだろう。
もう正体を明かしたからだろうか、男の態度はいかにも貴族然とした振る舞いになっている。元から全く商人風の服にした意味がないくらい貴族感が隠せていないと思っていたが、あれでもまだ気を遣って装っていたのだな、としみじみ考えてしまった。
「それはご勘弁願いたい。卑怯な手で貴女を連れて来たと知れたらきっとアレクサンダーに怒られると思うので、それで相殺ということにしていただけますか」
「アレク…!?会う機会があるのですか?元気にしてますか?体は大丈夫ですか?」
アレクサンダーの名前を聞いて、ヴィーラは警戒も忘れて男の服の袖を思わず掴んでいた。矢継ぎ早に問いかけるヴィーラに、男は苦笑を浮かべて手でその勢いを制した。
「元気ですよ。今後の生活に影響が出ないよう監視付きだが騎士団の訓練に参加させているし、毎日届く貴女からの手紙を嬉しそうに受け取っている」
「そう…ですか」
グレッグ領の事故から、アレクサンダーが王都に戻されて2ヶ月余りが過ぎようとしていた。未だに彼の処遇は決まらず、面会も許されていなかった。ただ中身を検閲することを条件に手紙を送ることだけは許可されたので、ヴィーラは毎日のように手紙を書いていた。取り次ぎの事務官に渡すだけで、返事を貰うことは出来ない。本当に届いているのか分からぬまま、ひたすら信じて手紙を書き続けていたことが報われたのを実感した。
それと同時に、この男が何者なのか分からないのに、その言葉だけで胸が一杯になるほど心が弱っていたのかと自覚した。
「ご令嬢」
声を掛けられて我に返ると、目の前にハンカチが差し出されていた。戸惑って顔を上げると、割と本気で困っているような表情の男と目が合った。
「貴女を困らせた上に泣かせたとあっては、本気であいつが手が付けられなくなる。私を助けると思って、お使いください」
そう言われて顔に触れると指先に濡れた感触がした。あっと思って下を向くと、自分の視界からポロポロと水滴が落ちて、胸元とスカートの上に染みを作った。
「恐れ入ります…」
ヴィーラはまさか自分が気が付かないうちに泣いているという体験をするとは思わず、恐縮しながらハンカチを受け取った。
目元に押しあてると、ヒヤリとした感触がした。
「あ、冷たい」
「冷却付与魔法を使いました。目が腫れてしまうと私が悪人扱いされてしまいますので」
「ふふ…お気遣い、ありがとうございます」
妙な方向の気遣いにおかしくなって、ついヴィーラは泣き笑いの状態になってしまった。
ガタリと馬車が揺れた弾みでカーテンが僅かに捲れて、一瞬男の髪に光が当たる。薄暗い中では黒っぽい髪に見えたが、日の光に透けると紫色だと分かった。その色は、先程手渡された封筒に押されていた封蝋の色と同じだった。そこで、ヴィーラの記憶の中で相手の正体に不意に思い当たった。
「あの…間違いでしたら申し訳ありませんが、もしやミスリル統括騎士団長様でしょうか…?」
「おや、私の顔をご存知でしたか」
「え、ええ…アレクに直属の団長様のことは伺っていましたので…」
「どうせろくな言われようじゃないでしょう」
彼はそう言いながらも、楽し気に笑った。
アレクサンダーから、上司のレナード・ミスリル統括騎士団長は濃紫の髪と灰色の目を持つ侯爵家当主で、剣の腕もさることながら扱う魔法の種類も多彩で抜群の制御力を持つと聞いていた。訓練時は複数で一斉に掛かっても呼吸一つ乱さないで返り討ちにした上、誰も剣先すらかすりもしなかったという逸話の持ち主。そして侯爵という身分でありながら平民出身の新人にも気さくに接するが、よく人をからかうのが難点、とも。
今は、複雑そうな顔をしながらそう言っていたアレクサンダーの気持ちがよく分かるような気がした。
「本日急遽貴女に来てもらったのは、少々内密な話がありまして。だが内密な話が漏れないような場所が私の執務室くらいでね。一応掃除させましたからそこまでむさ苦しくはないと思いますが、目を瞑っていただけると助かります」
「重ね重ね、お気遣いありがとうございます」
「それに、アレクサンダーにも会えますよ」
「!」
「ああ、ちゃんと目元を冷やしてください。それ以上目が腫れてしまっては貴女を泣かせたことがあいつにバレてしまう」
「…はい」
ヴィーラはレナードに言われるがままに、渡されたハンカチに顔を埋めるようにして目元に当てた。ただの濡らしたハンカチならすぐにぬるくなってしまうが、魔法のおかげかいつまでも心地好くひんやりとしていた。しかし、アレクサンダーに会えると思ったら気が緩んでしまったのか、次から次へと涙が溢れて来る。
そして馬車が止まる頃には、ハンカチは絞れそうな程ぐっしょりになってしまったし、どう見ても泣いたとしか思えない顔になってしまったヴィーラに「あの、私がフォローしたことはあいつにちゃんと伝えてくださいね」とレナードにかなり本気のトーンで囁かれたのだった。
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予め人払いをしていたのか長い廊下を通過して執務室に案内される間、誰ともすれ違わなかった。時折、遠くで人の張り上げるような声が聞こえて来るが、おそらく騎士達が訓練をしているのだろう。
ヴィーラを案内して来たレナードが執務室をノックする。ドア越しに微かに返答の声が聞こえたが、その声が紛れもないアレクサンダーの声だと分かるとヴィーラの心臓が跳ね上がり、先程やっと落ち着いた目の奥がジワリと熱を持つ。
「どうぞ」
「失礼します…」
ドアを開けたレナードに促されて部屋に入ると、そこにはアレクサンダーが真っ直ぐにこちらに目を向けて立っていた。彼の金茶の目が驚きで大きく見開かれる。その表情から、もしかしたら自分が訪ねて来ることは知らされていなかったのかもしれない、とヴィーラは思った。
緩く束ねられるくらいに肩の辺りまで伸びていた彼の優しい色合いの髪は、随分短く刈り込まれていた。柔らかい髪質の為に男らしいというよりはフワフワとしてしまい却って幼く見えてしまうので、これまで短くしていることは殆どなかった。そのせいかずいぶんと彼の顔が新鮮に映り、ヴィーラの心臓が更に早鐘を打ったようになる。体格はしっかりしていたが、やはり少し窶れたようだ。頬の辺りが記憶よりも鋭角的になっているように思えた。
「…ヴィーラ…!」
少し信じられないものを見たような顔をした後、クシャリと泣きそうな表情になってアレクサンダーが一直線にヴィーラに抱きついた。
「アレク…!ちょっ、待って。あの、団長様が…!」
アレクサンダーに会えたことは嬉しいが、共に入室して来たレナードに礼の一つも取らずに真っ直ぐ抱きついて来たのでヴィーラは少々焦った。しかし、アレクサンダーはガッチリとヴィーラを抱きしめたまま、彼女の首筋に顔を埋めるようにしてただただ耳元でヴィーラの名前を繰り返していた。
「…あー…ご令嬢」
「…はい」
「私は、これから昼飯を食って来る」
「…は?」
「昼飯がまだでな。腹が減って我慢出来そうにない。話はそれからにしてもらえるだろうか」
何とかアレクサンダーを宥めようとヴィーラが努力していたが、一向に抱きしめたまま動きそうにない様子を見て、レナードがそう言い出した。身動きの取れないヴィーラが視線だけ動かしてレナードを見ると、わざとらしく顔を明後日の方向に向けていた。
「…はい」
「2時間だ。きっかり2時間経ったら戻る。その時は中でどんな状態になっていようと、容赦なくドアを開けるからな。特にアレクサンダー。ちゃんと時間を確認して色々するんだな」
「な…!何を仰っているんですか…!」
「ではごゆっくり」
ヴィーラが思わず抗議の声を上げたが、レナードは軽く笑ってさっさと部屋を出てドアを閉めた。
「ヴィーラ…」
「…アレク。会いたかったわ」
「うん…」
「ね、ちょっと座りましょう。このままじゃ疲れちゃうでしょ」
「うん」
レナードが出て行ってからも、しばらくアレクサンダーはそのままの姿勢でヴィーラに抱きついたままだった。しかし、このままそうしている訳にもいかないので、ヴィーラがそう提案する。次の瞬間、アレクサンダーは顔を上げないままサッとヴィーラを横抱きにすると、部屋の中にあったソファまで連れて行き、自分の膝の上に乗せて座った。あまりにも一瞬過ぎて、ヴィーラは抵抗する暇もなかった。
「ね、ねえアレク」
「もう少しこのままで」
さっきから彼はずっとヴィーラの首元に顔を埋めたまま抱きしめる姿勢で、一切顔を上げようとしない。その肩が微かに震えているのに気が付いて、ヴィーラは抵抗するのを止める。そして何とか動かせる片手をアレクサンダーの頭に回す。コテリと自分の頬を彼の頭に寄せると、まるで彼の頭を胸に抱きしめているような形になった。
「…ゴメン。心配、かけて」
「無事で良かったわ」
柔らかな彼の髪に頬を寄せていると、子供の頃にアレクサンダーを膝に乗せて絵本を読み聞かせていたことを思い出す。今は逆に自分が乗せられているが。
「ヴィーラ…何か話して」
「話?何を?」
ふとアレクサンダーがそんなことを言い出した。もしかしたら彼も、ヴィーラと同じように幼い頃のことを思い出しているのかもしれない。
「何でもいいよ。俺のことは…本当はちゃんと話したいけど、話せないんだ。話したら…」
「いいのよ。騎士様には家族にも言えない任務もあるのは分かってるから」
「本当に何でもいいんだ。ヴィーラの声を聞きたい」
「……そうねえ」
ヴィーラは何か少し気が軽くなる話はないかとしばし考えた。
「ねえ、前に私が建国祭の時に踵が高い靴を履いてたって話、覚えてる?」
「俺が惚れ直した日だ。忘れる筈ない」
「惚れ…んんっ…その話、いい思い出を壊すようで申し訳ないような話になるんだけど…聞く?」
「俺がヴィーラの話を聞きたがらないとでも?」
「覚悟して?」
「うん」
少しだけ気が紛れたのか、首元に顔を埋めたままの状態でアレクサンダーが軽くクスリと笑った。その息が首元をくすぐったので、一瞬だけヴィーラは身体を強張らせてしまった。ほんの一瞬だったので気付かれなかったろうと思い直し、ヴィーラは口を開いた。
「あの頃はね、どうやったら自分が少しでも小柄に見えるか、そればかり考えてた時期だったわ」
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当時、厚底のサンダルが流行っていた。底が厚い分、重くならないようにコルクや軽い素材の木製のものが多かった。ヴィーラの求めるものとは正反対の流行りな上にどの店に行っても似たようなものしかなく、虚無顔で店を回りながら心の中は絶望していた。素敵なデザインのものは多いのだが、どれも踵が高過ぎたのだ。
自分の好みを諦め許容範囲のものを探す方向に切り替えたものの、それでも見つからなくて疲れて来た時、不意に、その時は天啓が降りて来たと思った。
靴底を、掘ればいい。
何故そんなことを思い付いたのかは分からない。しかし、この厚底部分の中をを削ってしまえば、外側からみたら厚底を履いているから背が高く見えるだけの人、に見えるのではないだろうか、と。
そこからは何かに取り憑かれたかのようにコルク製の厚底のサンダルとナイフを購入して、帰宅してから一心不乱に靴底を掘った。本来の靴底の位置から、より地面にスレスレになるように。形としては、ショートブーツに似ていたかもしれない。見た目は足首の位置がおかしくなるので、スカートは長めではあるがややサンダルの厚底の側面部分が見えて、厚底サンダル履いてるから背が大きく見えるんですよーと見えるようにした絶妙な位置。
今思うと、そんな風にごまかしても明らかにおかしいのは丸分かりなのだが、その時は全く思い当たらなかった。
建国祭とはウィリアムと出掛けることになっていた。その待ち合わせ時間ギリギリまで無心に靴底を掘った。そして苦労が報われたのか、自分の満足行くまでに薄く薄く掘りきった靴底に、かつてない達成感を覚えた。
「…ヴィーラ…何やってたの」
「その時は、いいアイデアだと本気で信じてたのよ」
そして満足行くレベルにまで仕上げたヴィーラは、颯爽と家を出た。
が、玄関を出て三歩歩いたところで、靴底が抜けた。
「抜け…たの?」
「そうよ。それはもう、一気に、両足バリッと」
「〜〜〜〜〜〜〜」
「そろそろと後ろに下がったら、地面に薄い靴底だけが並んでポツンと残されてて」
想像をしたのか、アレクサンダーが顔を持たれかけたまま笑っている。声にこそ出してないが、肩や背中が細かく震えている。まあ自分で見てもあれだけ面白い光景だったのだ。他人が想像してもなかなかの破壊力だろう。
「さすがにそれを履いて行く訳には行かないし、もう時間も迫っていたしで仕方なく予備のサンダルを履いて出たのよ」
失敗した時の為に予備として、もう一つ買っていたのだ。最初のサンダルが上手く掘れたのでそれには全く手をつけていなかった。その為、結果的にいつもより厚底で背の高く見えるサンダルを履いて出掛けることになってしまったのだった。
「それでね、ああいう厚底ってちゃんと立って歩かないと危ないのよ。だから必然的にいつもより姿勢よく歩くことになって…」
「それを俺が見て惚れ直したんだ」
「……そういうことね」
しかし、その時に開き直って真っ直ぐに歩くことは意外な程心地好かった。常に縮こまってそろそろと歩いていることがどれだけ気持ちを鬱屈させていたのかをやっと自覚したのだ。
「でもまあ、その時からあんまり気にし過ぎるのも馬鹿馬鹿しくなっちゃって、それ以来なるべく低い靴を選ぶだけで普通に歩くようになったわ」
「そっか」
「折角のアレクの思い出が、実はこんなだったってガッカリしたでしょ」
「しないよ」
アレクサンダーはそう即答すると、更にヴィーラを抱きしめる手に力を入れて頭を密着させた。
「やっぱりヴィーラは最高だ」
「今の話のどこが?」
「……笑うなんて久しぶりだ」
「アレク…」
頭が密着したことで、アレクサンダーの唇がヴィーラの首元に触れているのか、彼が言葉を紡ぐ度に動きが伝わって来る。
「…やっと息がつけた気がする。ヴィーラのおかげだ」
ゆっくりとアレクサンダーの背中が上下するのが分かった。ヴィーラはゆっくりと彼の背中に手を回して、そっと撫でる。ほんの少し、頭を押し付けられた首元が湿り気を帯びたような気がしたが、ヴィーラは何も言わずに背中を撫で続けた。