5 伝わる拗らせ
「ねえ…婚約解消、しましょうか」
ヴィーラが、なるべく重くならないように出来るだけ軽く、必死に色々な感情を抑えながらサラリと口にした。これを申し出るのは2度目だし、そんなに大した事はないと言い聞かせる。しかしまさか兄弟に同じことを言うとは思わなかったが。
「どう、して…」
たっぷりと間を取ってアレクサンダーが呻く。その顔色は、先程のヴィーラに負けずに悪くなっているようだった。もっとも日焼けしていたので分かりにくかったけれども。
「私もさっき分かったばかりだし、いい案は浮かんでないのよ。ウィルの子供の事とか、後継教育とか色々あるし…でもこういうことは早い方がいいでしょう?正騎士になって、子爵家を継いでしまったら、手続きとか色々大変でしょうし」
「ねえ、ちょっと待って」
「貴方は騎士になる事が夢だったでしょ。その夢が叶ったんだし、それを無駄にしては駄目よ。ほら、小さい頃は旅の騎士になってあちこち冒険する絵本が大好きで…」
「待って待って待って」
「アレク?」
無理にでも笑った顔を作ろうとしているヴィーラだったが、切羽詰まった様子のアレクサンダーに止められて言葉を切った。
「何で急にそんなこと言い出すの?何があった?」
「何…というか」
「パットのヤツが何を言った?あいつ、ヴィーラに酷い事したんじゃ」
「それはないわ。全然、大丈夫だから!」」
急速に剣呑な空気になったアレクサンダーに、ヴィーラが慌てる。
「パット様には、アレクと辺境領でのことを教えていただいたのよ。ちょっと抱きつかれたりして距離感が近くてビックリしたけど、可愛らしい方だったし。すごく、貴方とも仲が良さそうで…」
「あの野郎…」
「アレク!?」
パットとのやり取りは、抱きつかれて戸惑う事はあったが割と和やかだった筈だ。それを説明すればする程アレクサンダーの空気が悪くなって行く。
「もしかして騎士団の任務は口外しちゃいけないことだったの?それなら私、絶対に他言しないからそんなに怒らないであげて…」
「ヴィーラ」
オロオロとするヴィーラを、アレクサンダーは軽く手で制する。その表情は俯いていて見えなかったが、何かを決意したような硬い空気が漂う。
「ヴィーラ、少し長い話になるかもしれないけど、最後まで聞いて?」
「え、ええ。分かったわ」
ヴィーラは居住まいを正してアレクサンダーを真っ直ぐ見つめた。そんな彼女の様子に、アレクサンダーは片手で顔を覆うようにしてしばし俯いていたが、やがて意を決した表情で顔を上げた。その顔は、僅かに上気しているようだった。
「…その…この場所で、初めてヴィーラと俺達兄弟が会ったの、覚えてる?」
「ええ」
「その時のヴィーラ、絵本を抱えてたよな。緑色の髪の毛が日に透けてキラキラしてて、こんなに綺麗な色、初めて見たと思ったんだ」
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「はじめまして。ヴィーラ・オルタナです」
「はじめまして。ウィリアム・ノマリスです。こっちは弟のアレクサンダー」
「アレク、です」
初めて交わした言葉は多分こんな感じだった。どちらも貴族の子供だけに、挨拶と礼儀はしっかりと教えられている。アレクサンダーはまだ幼かったことと少しばかり人見知りしていたこともあり、同席していたノマリス夫人のスカートの陰に隠れてはいたが、名乗るときは顔を半分だけ出しながらもピョコリと頭を下げた。
最初は緊張感の漂う雰囲気だったが、やがてお菓子や果実水などで場がこなれて来ると、年の近い子供達は次第に距離が近くなって行った。
「まだ字が読めなかった俺に、絵本読んでくれたでしょう」
「覚えているわ。あの頃のアレクは私の膝に乗るくらい小さくて」
「んんっ……そ、その時に読んでくれた本、黒騎士の話があったよね」
昔から、男女問わず子供達に人気のあった、黒騎士の冒険譚の絵本だった。黒い鎧を纏った騎士が、あちこちを冒険して回る物語で、何冊もシリーズが出ていた。
その時ヴィーラが読み聞かせたのは、ドラゴンに囚われたひとりぼっちのお姫様を救い出し、祖国へ帰す話。攫われてから長い時間が経っていたので、誰も知っている人がいないから国に戻ってもひとりぼっちだ、と泣くお姫様に、「私の『花嫁』になってくださればずっとひとりぼっちにはしません」とプロポーズして終わる。特に女の子に人気のあったエピソードだった。
「あれを読んでもらって、俺は騎士になろうと思ったんだ」
「そうだったのね。あの話で騎士になる夢を」
「正しくはちょっと違う」
その話を読み終わった後、ヴィーラは目をキラキラさせながら「騎士様ってステキねぇ」と言った。その顔が年上なのにあまりにも可愛らしくて、アレクサンダーは自分の顔が熱くなったのを良く覚えている。ずっとお隣の優しいお姉さんだと思っていたれけど、きっとこの目の前にいる女の子はお姫様に違いない、と思った。
「俺は騎士になって、目の前にいるお姫様を『花嫁』にするんだ、って思った。その時は花嫁の意味も分からなかったけど、ずっと一緒にいられる約束みたいなものだと思った。ずっと一緒にいたいと……意味が分かるようになってからも、俺の気持ちはずっと変わらなかった」
「俺はずっとヴィーラに、花嫁になって欲しかったんだ」
ヴィーラはしばらく目を瞬かせていたが、時間差でスゥッと頬に赤みが差した。何か言葉を紡ごうと口を動かしたが、良い言葉が浮かんで来ないのか、ただ口をパクパクさせるだけに留まっている。
「あの頃、とにかくヴィーラの気を引きたくて、読書の邪魔もしてつきまとってた。どんなにしつこくしても必ずヴィーラは手を止めて笑って構ってくれたから、絶対ウィルよりも俺の方が好きだと思ってた」
その頃の事をヴィーラは思い出してみたが、確かによく懐かれてはいたがそこまでしつこかった記憶はなかった。読書の邪魔と言っているが、一冊読み終えたタイミングだったり、休憩しようと顔を上げた時に声を掛けられることが多かったように思う。ヴィーラの中では、やんちゃではあるけれどきちんと気配りの出来るえらい子、という印象しかない。
「だから、学園に入学する時にウィルと婚約した時はショックで…それからウィルのこと『兄さん』って呼ぶの止めたんだ」
「そういえば…いつの間にか呼ばなくなったなあとは思ってたけど…それが切っ掛けだったの?」
(確か一時期アレクがやたらとつんけんしてた時期があって、おばさまに相談したけど『ただの反抗期よ。ハシカみたいなものだからそっとしておいて』って笑ってたっけ。え?そう言えばハシカって…)
初恋の熱に振り回されることを「ハシカ」と揶揄することもある。ノマリス夫人は知っていてそう言ったのではないかと今更思い当たった。
「いや、本当はさ、頭では普通長男と婚約するよなあ、って思ったよ。俺、年下だし。でも納得行かなくて…でも諦めなきゃと思って」
学園に入学後は、アレクサンダーは実家から距離を取ろうとした。もともと騎士科は集団生活も訓練の一環として入寮が必須であったので、騎士を目指していたアレクサンダーには距離を置くのにちょうどいい機会になった。
そこで、極端に女子との出会いも交流も少ないながらも他の女性に目を向けるように努力した。告白されたけど二股を掛けられてて振られたり、別の令息狙いの踏み台にされたり、別の相手を煽る為の当て馬にされたり……割と運のない出会いばかりであったが、それでも少しずつではあるが友人に恵まれて初恋への気持ちは薄れつつあった。
「俺が学園に入って1年くらい経った頃…かな。まだウィルもヴィーラも学園にいてさ。ヴィーラの身長が一時的にウィルより高かったことがあっただろ」
「そうね。アレクよりも高かったわね」
「…そういうことはいいから。今は俺の方がずっと高いし!」
何故かそこは張り合ってフンスと鼻息を荒くするアレクサンダーに、ヴィーラは少しだけ和んで表情を緩めた。その顔を見て、アレクサンダーもフワリを微笑む。正面からそれを受け止めてしまったヴィーラは、急に妙な羞恥心が発生してしまい、ごまかすように視線を逸らした。
空は夕暮れのオレンジ色が半分、夜の群青色が半分くらいになっていた。ちょうどその色の境目が、僅かに緑色を帯びている。その色は、少し彼女の瞳の色に似ていた。
「それを気にしてたのか分からないけど、ウィルの隣にいるのを見かける度にちょっと背中丸めててさ…あれが何か腹が立って。いや、俺が怒るものじゃないのは分かってるんだけど、何だかモヤモヤして」
「…そうね。あの時は、自分の身長を気にしてた。馬鹿みたいに無駄な抵抗してたり」
「無駄な抵抗?」
「お風呂でバケツを被ると身長が止まるとか?それを聞いて実践して、様子を見に来たメイドに絶叫されたり。あと、スカートの中で膝を曲げたまま歩いてたり」
「何それ」
「無駄に太ももに筋肉が付いただけだったわ」
身長が高いのを気にしてひそかに努力をするヴィーラを想像して、アレクサンダーは思わずクスリと笑い声を漏らしてしまった。それを耳聡く聞きつけて、ヴィーラはちょっと赤くなって軽くペシリと彼の手を叩く。
「俺はさ、ヴィーラは凛とした姿がとても綺麗だったのに、何も言ってやらないウィルに腹が立ってたんだと思う。ヴィーラが隣にいてくれるのに、あいつ、何で放っておくんだ、って」
「…ありがと。でも、何も言ってはくれなかったけど、ウィルなりに気を遣ってくれてたのよ。それは、知ってるから」
ウィリアムの名誉の為にヴィーラは口にはしなかったが、ウィリアムがいつも大きめの靴を買っては踵に密かに布を詰めていたのを知っていた。そして身長が殆ど伸びなくなっていてもわざわざ好きではない牛乳を無理に飲んでは、何度も青い顔をしてトイレに駆け込んでいた事も。
だから二人でどこかに出掛けても、ウィリアムは歩きにくい靴で上手くエスコートが出来ずに周囲から揶揄われることも多かったし、ヴィーラは何度も足が吊りそうになってしまい、お互いすぐに疲れて短時間で帰宅してしまう事が多かった。夜会に出てもダンスを踊らないまま帰ることも殆どで、影で色々と囁かれてはいたが、言葉にしない気配りが二人の間で通じていれば良いと思っていた。本当はもっとお互いに自然体でいてもよかったのに、と微かに甘くて苦い思い出が胸に去来する。
「でも、多分、ヴィーラが卒業する年の建国祭の時だったかな。その日ウィルと待ち合わせてたヴィーラは、いつもより踵の高い靴を履いて真っ直ぐ立ってて…すごく綺麗でさ…ああ、やっぱり駄目だな、って思った。諦めるの、無理だ、って」
口では「多分」と言ったが、その日はアレクサンダーの中では絶対に忘れられない日だ。
「無理だけど、どうにもならないなら遠くに行こうと思って」
学園で進路相談を受けた際に、アレクサンダーは「とにかく遠い場所」の配属を希望した。最初は何処でも良かったのだが、そのうち学園内で仲の良かった同期の中で一番遠くの出身だった友人がいるクロヴァス辺境領を選んだのだった。どうせ遠い場所で過ごすなら、せめて仲の良い人間のいるところがいた方がいいと考えたのだ。
騎士科の中でも、出身地でもない限り遠隔の土地への配属を希望する者はあまり多くない。アレクサンダーの希望は、間違いなく通る筈だった。
「だけど、まさかヴィーラとこんなふうになれるなんて思ってなかったから。研修で派遣されるのは我慢するけど、正式の配属には王都かその近郊で…その妻帯希望を申し出てたんだ。だけど連絡がどうも行き違ったみたいで。今回出た辞令が単身でクロヴァス辺境領に配属になってて、慌ててどうにかならないかとパットに強引に頼んで戻って来たんだ」
アレクサンダーは、ヴィーラの手を握りしめる。平均的な女性の手よりも細くスラリとしているが、全体的にはあまり大きくない彼女の手は、ずっと大きな彼の手の中にすっぽりと収まってしまう。ヴィーラは今日は書き物はしていない筈なのに指先にインクが着いている事に気付き、急に気恥ずかしくなって少し手を引こうとしたが、アレクサンダーが両手でガッチリと握りしめていて全く動かせなかった。
ヴィーラの動作を一瞬の拒絶と取ったのか、アレクサンダーは哀しそうな表情になって潤んだ瞳で見つめて来た。そして手を離さずに祈るような形で、ヴィーラの手を包んだまま自分の額に押し当てた。
「ヴィーラ、ずっとずっと好きだよ。今も、これからも変わらない」
「…アレク…私…」
「婚約解消なんて、絶対イヤだ……ヴィーラ、俺の隣にいて。手を、離したくないんだ」
ギュッと手を握ったまま、ウルリとした金茶の瞳がヴィーラを見上げて来る。しばらく見ない間により精悍な顔立ちになって帰って来たアレクサンダーの顔に、幼い頃の丸くてプニプニとした頬の可愛らしいアレクサンダーの顔が重なる。
「あ、のね…じゃあ私が後継者を育てる話はどうなる…のかし、ら」
そう言われた瞬間、アレクサンダーの顔がブワリと真っ赤になった。勢い余って、握りしめている彼の手の甲まで赤く染まるのが分かった。
「そ、れは。その、ヴィーラと、俺の、子を、育ててもらう、ってことで…」
「え!?ウィルの子じゃなく?」
「何で!!」
アレクサンダーの叫びは、ほぼ絶叫に近かった。
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ヴィーラは、着替えもしないでベッドにゴロリと横になった。
すっかり暗くなってしまったので、改めてアレクサンダーに正門まで送ってもらって帰宅した。使用人達には連絡もなく帰りが遅い事で心配をかけてしまっていた。
あまりにも色々ありすぎて、頭がパンク寸前になっていた。
『俺は婚約を解消するつもりなんて全くないから』
『もう絶対に、手放す気はないよ』
『ヴィーラ、大好きだ』
短い帰り道、アレクサンダーはしっかりと手を繋いだままだった。そして一度言ってしまった事で箍が外れたのか、その間ずっと甘い言葉を囁き続けていた。
『また明日、もっとちゃんと話し合おう』
そう言って、自宅の正門前で彼が躊躇いなく指先に唇を落として来たのを思い出し、ヴィーラの顔は真っ赤になった。
「嘘でしょ…」
暗くなってしまったので話は切り上げになったが、取り敢えず自分が盛大な勘違いをやらかしていた事だけは理解した。
アレクサンダーが言った「後継者」は、将来産まれるかもしれないヴィーラとの子供のことを指していて、それがどうやら彼なりのプロポーズだったということが分かった。そして自分はその「後継者」をウィリアムの子供のことだと勘違いしていたことも。そこからズレが生じていた為に自分を形だけの婚約者だと思い込んで、まさかアレクサンダーが本当の婚約者として想いを寄せていてくれたとは考えもしていなかった。
(……違う。私は最初から考えないようにしてたんだ。私は、ずっと傍観者だと、思い込んでた)
ウィリアムと婚約を結んでいた時も、夢を叶える為に懸命に頑張っている彼の側でサポートする事が自分の役割だと思っていた。誰かが夢を叶えた側で、それを祝福する。ずっとそれが自分の役割だと。
だから、自分がもしかしたらウィリアムの夢の障害になってしまったかもしれないと思い当たった時、また別の形で彼の夢が叶うかもしれない機会が来たことに迷わず背を押した。そこに躊躇いはなかった。
ウィリアムに対して愛情がなかった訳ではない。夢を叶えてもらう為に自ら手を離すことも紛れもなくヴィーラの愛情だったのだ。
だが、そのことに自分以上に腹を立ててくれた人達がいた。
自分の両親だけでなく、ノマリス子爵夫妻、そしてアレクサンダーも。ヴィーラが納得ずくだった為に表立って言わずに納めたが、長年婚約者として支えてくれていたのに説得に応じてしまったウィリアムと、裏からヴィーラに身を引くように手を回そうとした商会長に対して腹に据えかねるものがあったという。
婚約解消の条件として「ウィリアムと商会長の娘の間に生まれた子供の一人をノマリス家の後継として引き取る」という内容を入れたのは、これ以上商会側に裏から手を回されないように旨味のある条件として与えておいた表向きの方便であって、実際は遠縁の親類から養子を迎えるつもりだったそうだ。そう言われてからその時の書面を確認すると、しっかり「指名すべき後継がいない場合」と記されていた。
(でも!あれはプロポースとしてはナイわ!!)
何となく八つ当たりしたくなったヴィーラは、枕をボスボスと殴りつけた。それが半分照れ隠しというのは自分でも承知している。
今まで婚約者の弟だと思っていたし、婚約者になってからも名ばかりだと思い込んで全く意識していなかった。いや、どうせ将来的に婚約解消するのだから考えないようにしていたのかもしれない。
ヴィーラに告白して来た時のアレクサンダーは、真っ直ぐにこちらを見ていた。嘘を吐く時の癖など一度も見えなかった。
アレクサンダーの素直な気持ちを告げられて、急に色々な過去を思い出した。幼い頃に一度だけ好きだと言った花を覚えていて毎年誕生日にくれたこと。社交界で一時「首長尾鳥令嬢」と揶揄されていた時にウィリアムの代わりに腹を立ててくれたこと。婚約解消時には誰よりも自分よりも怒ってくれたこと。そして将来ウィリアムを支えようと頑張っていたことを見て、認めていてくれたこと。
気が付けば、常にそっと心に寄り添ってもらっていたことを今更ながら自覚した。
「…どうしよう…」
別れ際に寄せられた唇の感触を思い出して、その指先にそっと触れた。
ヴィーラは、自分ではどうしようもないくらい顔が赤くなっているのを感じていた。
「ちゃんとあのことも、伝えなくちゃ…」