2 思い込みとすれ違い
「ウィル!」
部屋にズカズカと足音も荒く入って来るなり、アレクサンダーは一言も無しにウィリアムを殴りつけた。
標準的な体形のウィリアムに対し、騎士として鍛えて今は背も体格も人より二回りは大柄に育ったアレクサンダー。その彼に殴りつけられたのだから、ウィリアムは座っていた椅子ごと吹っ飛ばされて離れた壁に打ち付けられた。
それを見て、母のノマリス子爵夫人が悲鳴を上げる。
「お前!お前なんでっ…!何で!!」
「止めなさい、アレク!止めて!」
倒れたウィリアムの胸倉を掴んで容赦なく引きずり上げるアレクサンダーに、夫人が縋り付くように腰に抱きつく。
「止めるんだ、アレクサンダー!」
物音を聞いて執務室から飛び出して来た父のノマリス子爵が厳しい声を上げた。
アレクサンダーは、奥歯を噛み締めて怒りを呑み込み、渋々ウィリアムからその手を離した。ウィリアムはそのまま床に座り込んで、口の端に付いた血を袖で強引に拭った。殴られた頬の部分が見る間に赤黒く腫れ上がる。
「手加減はした」
「……ああ」
見下ろす形になったアレクサンダーの目には、いつもの柔らかな色とは違い、剣呑な侮蔑が宿る。それを見上げるウィリアムも、自分が充分に手加減されていたのは承知していた。アレクサンダーが本気で殴っていたら、この程度では済まなかっただろう。
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ウィリアムの手当を終え、家族は当主の執務室に集まった。
使用人を全て下げ、アレクサンダーがいないところで決まったオルタナ家との婚約解消と、それに付随する今後の条件などを告げた。途中、何度かアレクサンダーが激昂しかけて握りしめた拳が震えたが、最後まで黙って耐えて聞いていたようだった。
「…ヴィーラは」
長い沈黙の後、アレクサンダーは低い声でそれだけを呟いた。
「いつも通り過ごしているようだよ。お前がこの家を継ぐのかどうか、それを決めてから王家には正式な申請をすることになっている。だからその前に婚約解消したことが周囲に知られないよう、配慮してくれている」
「婚約解消した後のことは…」
「そこまでは分からない。我が家が言えることも、関わることも何も出来ないだろう」
既に切れた縁の相手である以上、父親の言うことももっともだった。
長く婚約を続けていた同士が解消になれば醜聞になる。それがたとえ互いに納得ずくの円満な解消であったとしても、周囲は勝手な憶測で噂し注目される。そしてその噂は、大抵女性側に不利に傾いてしまう。どんなに男性側に原因があったとしても、女性の将来に少なからず影を落とす。
「ウィルの方はどうなるんだ」
「…商会で、数年は外国を拠点にして働くことになっている」
「そうか。良かったな」
口ではそう言いながら、アレクサンダーの声には全く温度が含まれていなかった。
そして再び訪れた長い沈黙。アレクサンダーは何かを考えているようで、その目が忙しなく動いていた。時折、彼の胸の前で組まれた手の指が空を滑る。その長い時間、誰も口を開かずアレクサンダーの答えを待った。
「…父上。俺がこの家を継ぎます。ただその為に、提案があります」
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「アレク!戻ってたのね」
「ヴィーラ…その…ウィルが、申し訳なかった」
「いいのよ。私が勧めたことなの。それより、ウィルと喧嘩してないでしょうね」
「……あー…」
「やらかしたのね」
「…うん」
「貴方意外と血の気が多いんだから。ちゃんと仲直りしてね」
「……いつか」
「お願いね」
話し合いを終えて、アレクサンダーはヴィーラを訪ねた。いきなり訪ねたこととノマリス家との婚約解消のこと件のもあり、彼女の父でもあるオルタナ元子爵にはあからさまに面会を渋られたが、声を聞きつけたヴィーラが顔を出して取りなしてくれたことでようやく屋敷に通された。
しかし警戒されているのか、使用人がいつも以上に近くに控えている。
あまり話を聞かれたくなかったアレクサンダーは、庭のガゼボに行くことを提案した。見晴らしはいいので姿は見える為、話の聞こえないところまで離れてもらうように頼み込む。使用人にはあまりいい顔はされなかったが、渋々とどうにか離れてくれた。
「また背が伸びた?」
「ああ、うん。多分」
少々荒っぽい動作でアレクサンダーの前に紅茶を置いて、使用人が離れたところに控える。いくら歓迎されてない来客だとしてもかなり失礼な態度ではあるが、それだけ彼女は使用人達に愛されているのだろうと、アレクサンダーは苦笑しながら紅茶を一口飲む。幸い、紅茶の方に何か仕掛けられていることはなく、昔からアレクサンダーが好んでいる渋みの少ない茶葉で淹れられていた。
おそらくヴィーラが頼んでくれたのだろう。色々思うところもあるだろうに、いつもと変わらない様子でアレクサンダーを迎えてくれたことに彼にはありがたさしかなかった。
オルタナ家に遊びに来たときはよくこのガゼボで過ごした。ベンチにヴィーラとウィリアムが座って本を読み、その近くでアレクサンダーが素振りをする見慣れた光景。もうその光景を見ることは二度とないだろう。その事実に、ほんの少しアレクサンダーの胸の奥が疼いた。
「あのさ…俺、ノマリスを継ぐことにした」
「そう。無理はしてない?嫌だったら断ってもいいって言われたでしょ?」
「大丈夫、俺の意志だよ」
ヴィーラはアレクサンダーの顔をじっと見つめた。彼自身気付いていないが、自分をごまかしたり嘘を吐く時はほんの少し斜め上に視線を彷徨わせて片方の目が細くなる。すぐに答えた彼の目は真っ直ぐに見つめ返して来たので、ヴィーラは少しホッとした。
「それで、ヴィーラにお願いがある」
「何?私に出来ることなら何でも言って」
即答したヴィーラに、アレクサンダーは口元に手をやって「そんなに簡単に何でもって…」と小さく呟いた。この時彼の耳が赤くなっていたのだが、いつも肩を越えるくらいの長さの髪を緩く括っているため隠れてしまっていた。そしてその呟きは小さ過ぎて、ヴィーラには全く聞こえなかった。
「君に、もう一度婚約者になってもらえないかと思って」
「は?」
「その、家同士の契約なら、事情によっては相手が兄弟と交替することもあるだろう」
「それは…まあ、たまに聞く話だけど…それだと、アレクと私が婚約するってこと?」
「うん。もしヴィーラがウチに愛想を尽かして、二度と縁を持ちたくないって思ってるなら無理にとは言わない」
「そこまでは思ってないけど…貴方はそれでいいの?」
思いもよらない申し出に混乱する様子のヴィーラに、彼は説明をした。
もともと後継者教育を受けてなかったアレクサンダーが、これからそれを修めるには長い時間が必要となるだろう。
しかも彼は、学園卒業後は騎士団に所属することが既に決まっている。そこではすぐに正騎士になれる訳ではなく、少なくとも2年は仮の見習い騎士として訓練と実地研修で各領地が所有している騎士団に派遣されることが通常だ。それを終えて、充分な力があると認められてようやく国から正騎士としての資格を得られるようになっていた。
それを鑑みると、後継教育を受けながらアレクサンダーが騎士を続けるのはなかなか厳しい状況になる。
そこで後継者の妻として既に補佐役の勉強をして来たヴィーラに、ノマリス子爵から後継者としての教育を受けて欲しいと申し出たのだ。
「俺は全然後継者になる予定もなかったし、向いてるとも思えないし。ヴィーラなら問題ないと思ってる。その…負担になるかもしれないけど…」
「君に、後継者を育てて欲しい」
アレクサンダーのいる騎士科は殆ど男子で占められており、通常より周囲は脳筋男子が多かった。くだらないことで笑ったり、頭の悪い悪戯を仕掛けては学園一怖いと言われる教師にキツいお仕置きを受けたりしながらも、男ばかりの気楽さで楽しい日々を送っていた。
そして折しも思春期に入る年頃でもある。誰かがどこかのご令嬢が気になると言えば、どうしたらお近付きになれるかとか、お付き合い出来るかとか、その他諸々頭の中がピンクで一杯になったりもする。
既に相手がいる令息などは、どうしたらスマートに関係を進めて婚姻まで進めるか悩み始める。ある程度の年齢と経験値があれば、相手に合わせてのプレゼンも出来ただろうが、皆夢見がちな若者である。
ストレートに言うのは恥ずかしく、さりとて何か思い出に残るような印象的な言葉について、皆で色々な告白構文を考えた。それこそ数年後の黒歴史が確定しそうなヤツを。
「共に朝ご飯を食べたい」「一緒に領地経営をしよう」「夕日を見てから朝日を見に行こう」などなど。そしてその中に「後継者を産んで欲しい」というのもあった。
誰が言い出したか分からないが、アレクサンダーはそれが頭に残っていたのか、それでもストレートだと思ったのか、より分かりにくいアレンジを口走った。
そう、先程ヴィーラに告げた台詞は、アレクサンダーなりに一世一代のプロポーズだったのだ。
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「いいわよ」
「ホントに!?俺から言い出してなんだけど、結構勝手な話だよ?」
「そんなこと思わないわよ。すぐには信じてもらえないかもしれないけど、私とウィルとは本当に納得した上での円満解消だったのよ」
あまりにもあっさりと納得してしまったヴィーラに、話を持ちかけたアレクサンダーの方が慌てる。
ヴィーラは、社交界をそれなりに穏便に切り抜けて来た。デビューする時には既に婚約者がいたし、家格の合う下位貴族同士であったのでそう嫉妬を集めるようなこともなかった。上位貴族との派閥争いや鞘当てなども、自分には全く関係ない物語の世界に等しかったのだ。多少陰で揶揄されてしまった事案はあったが、特に実害はなかった。
誰かと争うことも奪い合うことも知らないまま、幼馴染みの延長で穏やかな愛情をウィリアムと育てて来たヴィーラは、他のことはともかく恋愛経験値が決定的に不足していた。
そのせいで「後継者を育てて欲しい」という言葉は、当初の婚約解消の条件にあった「将来産まれるであろうウィリアムの子供の内の一人を後継者として育てる」使命だと判断した。
ウィリアムと現当主のノマリス子爵は縁を切ると決めていた。それ故に、後継としてウィリアムの子供を引き取って育てるのは条件に反する。しかしアレクサンダーがその子を育てるのはそもそも無理がある。だから間にヴィーラを教育係として挟むことで問題解決しようとしているのだ、と。
ただ、やはり赤の他人が後継教育を施すというのはよろしくない。アレクサンダーが家同士の契約の態で婚約の継続を言い出したのは、婚約者と言う名の教育係に任命してくれたのだな、と斜め上に解釈をしたのだ。
「ヴィーラには、申し訳ないけど、少なくとも俺が正騎士になるまで、今後2年は婚約者でいてもらうことになる…その…」
「いやあね、気にしないで。なかなか女の身で後継者教育を受けるなんてないことだもの。結構楽しみになって来たわ」
「ありがとう。明日にでも父から正式な書面で申し出があると思う」
「じゃあ夜に私からも両親に前もって話を通しておくわ」
ちょうど紅茶を飲み終わったところで話の区切りがついた。そろそろ日が傾き始めたので、細かい話はまた後日改めてか書面で、と言って席を立った。
「ヴィーラ」
少し歩き出したところで、アレクサンダーが前を歩いていたヴィーラの手を取った。その瞬間、背後から使用人の殺気を感じたが、それは敢えて無視することにした。
「どうしたの?」
「あの…俺は、ヴィーラには…」
彼女の手を握りながら、アレクサンダーの呟きはどんどん小さくなっていく。ヴィーラはそれを聞き取ろうと、彼の側に一歩近付く。背の高い彼女よりも、更に頭一つは大きなアレクサンダー。側に立って見上げる行為が何だかとても彼女には新鮮に感じた。
「婚約者になってくれて、感謝してる」
アレクサンダーが、意を決したように真っ直ぐヴィーラを見つめてこう言った。
「私も感謝してるわ」
残念な脳筋のアレクサンダーと、恋愛経験値底辺な上に妙な方向に深読みしがちなヴィーラとの間に深くて大きな誤解が生じていたのだが、肝心の当人達はそれに全く気付いていなかったのだった。
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ヴィーラは現在適齢期の範疇ではあるが、貴族女性としてはその上限ギリギリとされる年齢だ。学生時代からウィリアムと婚約をしていたことを知っていた人間は多い。それだけにこれから新たな縁を探してどこかに嫁ぐのはなかなか難しいだろう。美人の部類に入るし頭も良い方ではあるが突出した何かがある訳ではなく、実家は既に兄が継いでいて家格も血筋もそうメリットはない。
そして何より、ヴィーラの持つささやかな「秘密」ゆえに、婚姻と共に生じる厄介ごとの方がよほど大きい気がした。
逆に、男性は女性よりもずっと適齢期の幅が広いし、家同士の契約で兄の婚約者を「仕方なく」引き受けたと世間は思うだろう。数年後に後継教育の目処が立ってから婚約解消をしたところで、アレクサンダー側の瑕疵は殆どない筈だ。その頃にはヴィーラの縁談話は無くなっているだろうが、後継教育の出来る家庭教師、或いは後妻としての話ならあるかもしれないので、どちらにも悪い話ではないとさえ考えていた。
このアレクサンダーの感謝の意味も、ヴィーラには「後継者の教育係を受けてくれてありがとう」と解釈した上に、内心「アレクも貴族っぽい合理的な考えをするようになったのねえ」などと感慨深く思っていたことは、幸か不幸か、アレクサンダーには全く伝わっていなかったのだった。