*** 93 『神田メソッド研修会』2 水分塩分摂取 ***
原宿助教授は会場を見渡した。
「多くの中高生スポーツの指導者は、生徒さんが怪我などをしたときや意識不明になったときに救急車を呼ぶことを躊躇う傾向があります」
「「「 !!! 」」」
「これは、校内行事中の事故として教育委員会に届け出る必要があるため、学校側が救急車を呼ぶことを嫌うからですが、仮に熱中症で意識を失った生徒さんを放置した場合、致死率は50%近いとご理解ください。
まして気絶から覚めても水分を与えなかったとしたら、致死率は80%に増加します」
「「「 ……………… 」」」
((( で、でもそれで生徒が死んでも『水を飲ませるな!』って命じた監督のせいで、俺のせいじゃないよな…… )))
(神田: なんなんだこの↑カス共は!)
「人間はその体の60%から75%が水で構成されています。
高校生でしたら70%ほどですから、体重60キロの高校生のうちの42キロほどが水ということになります。
そしてそのうちの20%、つまり8.4キロを失うと、死の危険が飛躍的に高まるのですよ。
体重50キロの生徒さんならば7キロです。
((( たったそれだけで人は死ぬのか…… )))
((( 汗7キロってどれぐらいの量なんだ? バケツ7杯ぐらいか?
そんなに汗をかいてる奴なんかいないぞ? )))
(神田: ↑ここまで阿呆な奴って本当にいるんだな……
水1リットルが1キログラムっていうことすら知らんのか……)
(註:汗の比重は水とほぼ同じ)
「真夏など気温30度以上の中で野球の練習などの激しい運動をしていると、驚くべき量の汗をかきます。
これは毎日運動しているひとほど発汗量が多くなる傾向がありますので、生徒さんたちは6時間ほどの練習で5リットルから7リットル近い汗をかいている可能性があります。
つまり生徒さんたちは毎日死の一歩手前まで行っているのですよ」
((( な、なんだと…… )))
「だ、だが、練習中に水など飲ませたら、生徒たちの根性が鍛えられないだろうに!」
「それはどのような根性なのでしょうか?」
「そ、それはだな、辛い練習を乗り越えたり、最後まで諦めないで戦うための根性だ!」
「今年正月の箱根駅伝で、○○大学の○○選手は、途中ふらふらになりながらも最後まで諦めずに襷を渡し終えました。
確かにあの根性には素晴らしいものがありましたね」
「ほ、ほら見ろ!」
「ところで、毎日20キロ以上も走り込み、鍛えに鍛えていたはずの彼が、あれだけの運動機能不全に陥った理由をご存知でしょうか?」
「な、なんだと!」
「あの○○選手は、少しでも体重を軽くしてタイムを稼ぐために、愚かにも数日前から水分摂取を極端に減らしていたそうです」
「「「 !!!! 」」」
「つまり、『脱水症状』による運動機能低下があの大ブレーキの原因だったのですよ。
それ以外にも過去10年間の箱根ランナーのうち、ブレーキを起こした選手たち55人への聞き取り調査の結果、15人は体調不良やレース途中での筋挫傷や疲労骨折が原因でしたが、40人は『脱水症状』だったのです」
「「「 あぅ…… 」」」
「真冬とはいえ気温が12度を超えると脱水症状に陥る選手が急増します。
ですからほとんどのマラソン大会は冬に行われているのですね。
もしも真夏の30度以上の気温の中で箱根駅伝など行ったら、選手の8割が脱水症状に陥り、5割が途中棄権し、そのまま死亡する選手も出ていることでしょう」
「「「 あぅあぅ…… 」」」
「よろしいですか、箱根駅伝の各区間はおおよそ20キロ前後です。
一流の学生ランナーであればこの区間を1時間ほどで走ります。
それが途中で脱水症状による運動機能不全を起こしているのですから、真冬でも30分から45分ほどでそうしたブレーキ状態に陥ることになります。
これが真夏でしたら30分以内にそうした状態になってしまうでしょうね」
((( たったそれだけの運動であんなにふらふらになってしまうのか…… )))
「○○選手は確かに根性がありました。
おかげで襷が繋がって途中棄権は免れたのですから。
ですが、その後の襷渡しでは繰り上げスタートとなってしまい、結局襷は繋がらなかったのです。
しかもそれまで3位を走っていたチームは一時最下位まで落ちてしまい、来年は予選会からの出場になってしまいました。
そういう意味で結果は途中棄権と全く変わらないのですよ。
つまり、いくら根性があっても、水分が足りなければ最良のパフォーマンスどころか普通に走ることすら出来ないのです。
これは、根性などという精神論でどうにか出来るものではなく、純粋に生理学的なものですから」
((( ぐうぅぅっ…… )))
「仄聞するところ、高校野球の指導者の方の多くは夏の公式戦の最中ですら生徒さんたちに水を飲むのを禁止されておられる方がいらっしゃるそうですね。
その試合の後半、投手など選手の動きが鈍くなって負けてしまった場合、それは疲労などが原因なのではなく、ましてや根性が足りなかったわけでもなく、脱水症状が原因だったと考えられます。
先ほど体内水分量の20%の水分を失うと死の危険が飛躍的に高まると申し上げましたが、実は運動機能の低下は体重のたった3%の水分を失っただけで始まるのです。
体重50キロの生徒さんならば1.5リットルの汗です。
真夏の炎天下で運動すれば、1時間以内にこうした状態に陥るでしょう。
いえ、朝から水を飲ませていなければ、野球場に着いた時点で既に運動機能の低下は始まっていることと思われます」
「「「 !!! 」」」
「つまり試合に負けたのは、監督やコーチの誤った指導の結果だったということになりますね。
それで『お前たちの根性が足りなかったせいで負けたのだ!』と指摘されるのは理不尽の極みだと思いますが」
「「「 !!!!!! 」」」
((( そ、そうだったのか…… )))
((( ウチのエースは最後に負けた試合で真っすぐ歩けないほどにフラフラになっていたな……
それで試合後に監督に『負けたのはお前に根性がなかったからだぁっ!』って怒鳴られて殴られてたけど……
あれは監督が阿呆だったからなのか…… )))
(神田: 選手に水を飲ませるよう監督に進言しなかったコーチのお前らも十分に阿呆だけどな……)
「今度練習前と練習後で生徒さんの体重をチェックされてみられたら如何でしょうか。
もちろん昼食分の体重増加の影響を除外するために、午前の練習の前後と午後の練習の前後で。
この際にユニフォームに沁み込んだ汗や汚れの影響も除外するために、どちらもアンダーウエア1枚の状態で計測せねばなりませんが。
そして、もしも体重が3%以上減っていたとしたら、その生徒さんは練習時間の後半、ほとんど効果の無い練習をしていたことになります」
((( ………… )))
「また、水分塩分摂取に際して神田くんが良く口にしていた言葉があります。
それは、
『喉が渇いてから水を飲んでも遅いんだ。
そのときには既に水分不足で運動能力が低下しているから。
だから水を飲むときは喉が乾かないように小まめに飲むんだよ』
というものでした」
((( ……………… )))
「因みに神田選手は中学3年生の時にモントリオールオリンピックのマラソンで金メダルを取っていますが、2時間少々のレースの中で8回に分けて計1.5リットルもの水分を補給しています。
彼に言わせると、脱水症状による途中棄権やパフォーマンス低下だけは絶対に避けたかったからだそうですが」
「だ、だがヤツもゴール直後に気絶していたではないか!」
「あれは脱水症状によるものではありません。
直後に病院で行われた検査結果を見せて貰いましたが、あれは純粋に脳に供給される酸素の不足によるものでした。
血中酸素濃度は著しく低下していましたが、体内水分量は十分に残されていたのです。
因みに陸上のトップアスリートに言わせると、脳に供給される酸素不足で気絶するなどということは、常識では考えられないことだそうです。
その前に脳が運動を停止するよう強力な信号を発しますから。
そのアスリートによれば、鳥肌が止まらないほどの常識外の根性だったそうですね」
「ぐう……」
「さらに言わせて頂ければ、神田くんはオリンピック前には2年間に渡って毎日30キロ走っていたそうですが、その間必ず5キロおきに水分と塩分を補給していたそうです。
ですからあなたの仰る『水分を絶って根性を鍛える』という根性練習はまったく行っていなかったにもかかわらず、超人的な根性をもって金メダルが取れたのですよ」
「ぐ、ぐぅぅぅぅぅ……」
「そうそう、申し遅れましたが、生徒さんたちに水分を補給させる際には必ず同時に塩分も補給させてください。
塩分を補給せずに水だけ飲ませると、体内の塩分濃度が低下してこれも死に至る危険が大きくなります。
ですから、ロードワーク中にこっそり水を飲んでいるのも危険です。
どうか練習中に水分と塩分を補給するように指導してください」
((( 塩なんか舐めたら余計に喉が渇くんじゃないのか? )))
「重ねて申し上げますが、彼はマラソンの練習中にも5キロおき、すなわち15分おきに必ず水分と塩分を補給していました。
それでオリンピックから1か月ほど経った或る残暑の厳しい日、仮に水分塩分を補給しないとどうなるのか、自分の体で試してみたそうです。
その結果は10キロ過ぎで運動機能の低下が始まり、20キロを過ぎた時点では走れなくなるどころか、真っすぐ立っていられないほどの状態になったそうなのです。
よろしいですか、世界最高記録保持者といえども、気温が33度を超えているとたった1時間、20キロのランニングで行動不能になったのですよ」
((( な、なんだと…… )))
「神田くんは東京大学合格発表の後、すぐに東大の野球部を訪れて入部希望を伝えました。
その際に野球部のスポーツドクターを務めているわたくしも含め、監督、コーチ、キャプテンからの依頼で、部員全員が甲子園で3連覇した日比山高校野球部の練習内容を聞かせてもらう機会がありました。
日比山高校の野球部長兼監督は野球の経験が無かったために、野球部の練習は全て神田くんの指導によって行われていたのです。
ですから彼は中心選手であっただけでなく、コーチも兼任していたことになりますね。
つまり彼は甲子園出場どころかチームに甲子園3連覇も齎した、日本最高峰の優秀なコーチだったことになりましょう」
((( 現役高校生のガキが、お、俺よりも優れた指導者だというのか…… )))
((( なんというナマイキなガキだ…… )))
(神田: 自分の無能さを棚に上げてナマイキとか言ってるうちはオマエラも進歩しねぇな……)
「その練習内容報告会の際に、『日比山高校では練習中に水と塩分を積極的に摂取するように指導している』と聞かされた東大野球部は驚きました。
そんなことを聞いたのは初めてでしたから。
それで、それを訝しむ皆に神田くんが教えてくれたアメリカでのエピソードがあります。
アメリカではあの1929年の世界恐慌の際に、余剰労働力を吸収するべくテネシー川流域開発公社を作り、フーバーダム建設を初めとするいくつかの公共事業を始めました。
ところがその工事現場では作業員が突然倒れて意識を失い、そのまま死んでしまうという事故が相次いだのです。
そうした死者があまりに多かったために、アメリカでは社会問題になりつつありました。
そのためアメリカ政府は大規模な調査団を派遣して死因の調査を始めたのです。
それで判明した作業員の突然死の原因は、ほとんど全て『水分不足』による熱中症だったのですよ。
作業員たちもまた失業者に戻りたくはなく、現場監督にサボっていると思われないよう、遠方の宿舎などに水を飲みに行くことを控えていたのですね。
水筒を持ち込んでいた者も、肩から下げたり腰につけたりすると邪魔になるために、せいぜい300ccほどの軍用水筒しか使っていませんでしたので」
((( ……………… )))
「そこで公社は建設現場のあちこちに給水施設を作りました。
ですが、建設員の突然死事故は減るどころかますます増えたのです。
おかげで慌てた政府は再度調査を行いましたが、その結果判明したのは、作業員の死因が今度は体内の塩分不足だったことでした。
人体の血液を含む体液には約0.9%の濃度の塩分が含まれています。
汗によってこの塩分を失っている状態で水だけを大量に飲むと、この体内塩分濃度が一気に低下します。
この急激な浸透圧変化によって体内の細胞膜が破壊され、意識混濁の末に死に至っていたとのことでした。
そこで水場には必ず塩も置いて作業員に塩分も接取するように指導した結果、このような死亡事故は激減したそうです。
また、作業員たちの集中力も保たれるようになったために、不注意による事故も減っていったそうですね」
((( ………………………………… )))
原宿助教授は険しい表情で聴衆を見渡した。
「念のために申し添えさせて頂きますが、法学部と医学部の法医学研究室に確認しましたところ、今まではいざ知らず、これからは中高生の学校での死亡事故については、ほぼ全てのケースで司法解剖が行われることになるそうです。
その際に『野球部員が練習中に突然倒れて意識を失い、そのまま死亡した』などというケースについては、真っ先に熱中症が死因として疑われて綿密な検死が行われます。
そうして、死因が水分や塩分不足であり、かつ警察の捜査の結果、監督やコーチが水を飲むことを強く禁じていた場合には、『業務上過失致死』として刑事罰の対象になるそうです」
「「「 !!! 」」」
「業過致死罪の場合は示談による不起訴は有り得ません。
つまり指導者は『前科1犯』になり、長年にわたってそういう無謀な指導をしてきたなどの悪質なケースでは執行猶予もつきません。
実際に刑務所で服役することになるでしょう」
「な…… な、なんだと……」
「さらに遺族からの損害賠償請求訴訟も起こされます。
その場合には、最近の判例から言って、裁判所から学校側と指導者に合わせて4000万円から6000万円の賠償金の支払いが命じられるはずです」
「「「 !!!!!! 」」」
「炎天下の練習中に水を飲ませないなどという暴挙は、それほどの責任を問われるものとご理解くださいませ。
また、被害者の気絶が数分以上に及んだ場合には、十分に傷害罪の該当要件になるそうです」
「「「 !!!!!! 」」」
「生徒さんが水分不足で気を失った場合、そしてもしもその場に警察官が居た場合には、その警察官は直ちに救急車を呼ぶでしょう。
そしてあなたやコーチ、生徒さんたちは警察署で事情聴取を受け、あなたが水分摂取を強く禁じていたことが明らかになれば、あなたは傷害罪で逮捕されます」
「「「 !!!!!!!! 」」」
((( な、なんとかして警察官がグラウンドに近づかないようにしなければ…… )))
(神田: その前に水と塩を摂らせろよ!
その方がずっと簡単だろうによ!)
「つまり、この暴挙は生徒たちのパフォーマンスを低下させるだけでなく、死の危険すら伴い、併せて指導者の刑事、民事責任すら問われるものなのです。
メリットはひとつもありません。
唯一あるとすれば、指導者たちに生徒に苦痛を与えているという歪んだ喜びをもたらしてくれることだけでしょうかね。
そもそもそれは、指導者としての資質が決定的に欠けているということの証左でもありますが」
((( ……………… )))
「ヒトは何か好ましいことが起きると、脳内に自力でエンドルフィンと呼ばれる快楽物質を分泌してより多幸感を得ようとします。
例えば、『努力の結果実績を残せた』『頑張って勉強した結果成績が上がった』『子供が生まれて家族が増えた』『会社内で昇格出来た』などの場合ですね。
このようなときに、エンドルフィンによるさらなる多幸感を得ることによって、また努力して行こうという動機付けが行われるのです。
そしてこの『好ましいこと』の種類には相当な個人差があることがわかっています。
ですが、こうした前向きな『好ましいこと』以外にも、やはりエンドルフィンを分泌させる困った『好ましい』こともございます。
たとえば、『ギャンブルで儲かった』『努力せずに他人を出し抜いて利益を得た』などというものですが、甚だしいものとして『他人を脅して従わせた』『他人を自分の命令通り動かした』などというものもあるのです」
((( …………………… )))
「あのアドルフ・ヒトラーはよく若手将校を招いて晩餐会を開いたそうなのですが、その中で5時間も演説することがありました。
そして、その演説の途中で若手将校たちが口を挟んだり私語を交わしたりすると、烈火のごとく激怒したそうです。
また、あのキューバのフィデル・カストロ首相は、支持者を集めた演説で周囲を親衛隊に囲ませて誰も会場から出て行けないようにしたまま8時間も演説を続けたことがあるそうですね」
「「「 !!! 」」」
(な、なぁ、アダルト・ヒトラーとかカステラって誰だ?)
(さあ?)
(神田: なんなんだこの↑阿呆共は!)
「こうした方はいずれも『他人を自分の意思に従わせた』ということでエンドルフィンを得ていたのでしょう。
日本でもこうした性向を持つ人はたくさんいます。
そうした方々は、昔は軍人になることが多かったようですが、現在では教師になろうとすることが多いようですね。
朝礼の最中に私語を交わしている生徒を激怒しながら怒鳴りつけたり、体育の授業中に『気を付け!』だの『前へ倣え!』だのの号令を延々とかけ続ける教師などはその典型でしょう。
まあ、ヒトラーやカストロと大差無い行動ですね」
((( ………… )))
「そしてもちろん、残念ながら運動部の監督やコーチの方たちの中にもこうした傾向を持つ方がいらっしゃるのですよ。
つまり、
『生徒たちが自分の命令に従って苦しむ様を見ることによってエンドルフィンを得る』
『よって生徒たちが苦しまなければ満足出来ない』
『生徒たちが自分の命令で苦しめば苦しむほど、エンドルフィンが分泌されて満足感が大きくなる』
などというケースなのです」
「「「 !!! 」」」
「そのために、最も手軽に生徒さんを苦しませる方法こそが、『練習中に水を飲むことを禁じる』というものなのでしょう」
「「「 !!!!!!!! 」」」
「指導者の方の中には、
『やはり冬や春先の練習は効果が薄い』
『真夏の炎天下の練習こそ最も効果的である!』
などと思っておられる方も多いそうですね」
((( そ、それウチの監督が言ってることそのままだ…… )))
「願わくは、その効果が『夏の方が水を飲むなという自分の命令で生徒が大いに苦しむので自分が最も満足出来る』というものではなく、『生徒さんに野球能力の向上を齎してやれた』という喜びの効果であって欲しいと願ってやみません……」
((( ……………………………………………… )))




