*** 72 ユーキメソッドの説明 ***
この物語はフィクションであります。
実在する人物や組織に類似する名称が登場したとしても、それはたぶん偶然でありましょう……
芝生の上ではみんながメトロノームに合わせて首を振って、その後ダッシュをしている。
まあ練習を始めて日が浅いんで、まだ誰も真っすぐ走れてないけど。
「これはなんのための練習だ」
コーチが説明を始めた。
「俺はお前ぇに聞いているんだ」
へいへい、ご指名ですかい。
「これはピッチャーの投げ出しからホームベース上まで球を見ているための訓練です。
0.5秒の間に首を120度近く回すと眩暈がして体がふらつきますけど、そうならないように三半規管を鍛えているんです」
「それにしちゃあ音の間隔が1秒じゃねえか」
お、よく見てるな。
「まだみんなこの練習を始めて日が浅いですからね。
でもまあ、朝晩2回ずつやってれば1か月で0.5秒でもふらつかないようになれますよ」
「お前ぇやってみろ」
へいへい。
それで俺はメトロームを0.5秒にセットして、20回ほど首を回した後にダッシュしたんだ。
まあ、ドミニカでもやってたし、こっちに帰って来てからも毎日やってるから、楽勝でまっすぐ走って帰りは片足飛びで帰って来たよ。
「よし、俺もやる」
「あー、最初は1秒でやった方がいいですよー」
「うるせぇ、0.5秒だ」
「それじゃあ気を付けてくださいねー。
こんなところで転んでケガでもしたらタイヘンですから」
「………………」
はは、睨まれちまったよ。
ありゃ、やっぱり地響きたてて倒れ込んでるぞ。
でも意外に上手い受け身で無難に転んでたけど。
はは、地面に胡坐かいて首振ってるわ。
「次の訓練に行くぞ」
「へーい」
それにしてもこのおっさん、なんでまだ他に訓練があるって知ってるんだ?
ジムでは10人ほどが筋トレをしていた。
どうやら普通の筋トレをしながら首の鍛錬の順番待ちをしているらしい。
幕張さんと稲毛さんが2人で介添えしてるんだけど、フィジカルコーチたちも補助が出来るようになってきたから、順番が回って来るのが大分早くなって来たらしいわ。
「まずはお前ぇがやってみろ」
またかよ。
でもきっと後でこのおっさんもやるって言い出すんだろうな。
それじゃあ上級者向けのクイックリフトとレスラーブリッジは省略して、ウエイトも軽めにするか。
「お、おい、ユーキが首の鍛錬するぞ」
「見学しようぜ」
「ああ、見ものだもんな」
あー、なんかギャラリーも集まって来たか。
「えー、さっきのトレーニングはボールを最後まで見るために、首を速く回してもフラつかないように三半規管を鍛錬していましたが、このトレーニングはすべて首周りの筋肉を鍛えてより速く首を回せるようにするためのものです。
それじゃあまず、僧帽筋を鍛えるショルダーシュラッグから始めます」
俺は150キロほどのバーベルを持ち上げて、手を伸ばしたまま腰の辺りで支えた。
そうして肩をすくめるようにして、ほとんど僧帽筋だけでバーベルを持ち上げる運動を繰り返したんだ。
「今は軽めのウエイトでやっていますが、慣れたら8回持ち上げるのが限界の重量で行います。
これを1日3セットですね」
「おい…… 150キロが軽めだってさ」
「まあ、ベンチプレスで320キロ挙げるやつにとっては軽めなんだろう……」
「………………」
あー、おっさん黙っちゃったよー。
「次はネックエクステンションです。
それじゃあ稲毛さん、補助をお願いします」
「おう」
俺はマットの上で四つん這いになった。
そのままやや下げた頭に、稲毛さんが両手を置く。
「こうして補助の人に負荷をかけて貰いながらゆっくり首を上に上げます」
稲毛さんが腕に力を込めた。
それでも俺の頭は持ち上がる。
はは、いつものように稲毛さんがバランスを取って、腕だけ俺の頭に乗せて足を浮かせたよ。
まあ、このひとも相当に筋力あるからな。
ベンチプレスでも180キロ挙げるし。
「なんであれで頭が上がるんだよ……」
「サーカスみてぇだな……」
「言い忘れましたけど、首を降ろすときにもゆっくりと降ろしてくださいね」
「あんなトレーニングしながら喋ってるよコイツ……」
「バケモンだな……」
「これも8回を日に3セットですね。
慣れてきたらヘッドハーネスを使ってもいいでしょう。
次はネックフレクションです。
これは胸鎖乳突筋を鍛えるトレーニングですが、ヘッドハーネスを使ってやってみましょう」
俺は頭部にハーネスを装着してベンチに仰向けに寝る。
そうして体をズラして頭と首だけをベンチから下に下げた。
稲毛さんがハーネスから下がるチェーンに80キロのウエイトをつけてくれる。
俺はそのままゆっくりとウエイトを上下に動かした。
「これは最初はウエイト無しでもOKです。
頭部の重さだけでけっこうな負荷になりますから。
ですからウエイトは軽めにしてください」
「80キロが軽めかよ……」
「見ろよあの首、なんであんなに太っといんだ?」
「頭の幅と変んねぇな」
「次はこの状態からベンチの上で体を横に向けて行うネックラテラルフレクションです。
もちろん左右ともやります」
「………………」
「最後にネックハーネスを行いましょう。
これは立ったまま腰を落として前屈みになり、ハーネスにウエイトを付けて首を前後に動かす運動です。
ウエイトを軽めにして、首を左右に傾けたままやっても効果的ですね」
俺は80キロのウエイトをつけたまま首をぐるぐると回した。
「以上で首の筋トレメニューは終了です」
「まだあるんじゃねぇのか?」
なんで知ってるんだこのおっさん……
「実は上級者用メニューなんで省略してました。
それじゃあレスラーブリッジをやってみましょう。
これはマットの上で、仰向けの状態から体を反らしてブリッジをするものなんですが、ゆっくりと手をマットから離して上半身を首だけで支えます。
まあ、それだけでしたら素人でも出来るんですけど、上級者になるとそのまま首を回すんです。
大変危険なトレーニングなんで、必ず介添え人をつけてください」
俺は上半身にベスト型のハーネスを着込んだ。
そのまま鉄棒の下に行ってブリッジをする。
稲毛さんがハーネスについている硬質ゴム製のベルトを鉄棒のフックに引っ掛けてくれた。
俺はそのまま手を離し、上半身を首だけで支えながら首を回し始めた。
稲毛さんが俺の背中に手を当ててくれている。
「こうすれば事故は減らせます。
慣れてきたらウエイト付きのハーネスを着て負荷をかけてもいいでしょう。
それじゃあ最後にクイックスナッチをやりましょう。
これはオリンピックの正式種目でもありますから、目にしたこともあるでしょうね。
ですがやはり大変に危険な種目でもありますので、行うときはこの木枠の中に1人だけ入って行います。
足の甲と脚全体を保護する鋼鉄製の防具も忘れずに装着してください」
「………………」
「注意点としては、体に負担がかかりすぎてると思ったときは、すぐにバーベルを床に落とすことです。
また、これも8回繰り返しますんで、ウエイトは軽めのものにします」
俺は180キロのバーベルを素早く持ち上げて頭の上で制止させた。
そのままバーベルを落としてまた同じ動作を繰り返す。
「ひ、180キロ……」
「お、俺こないだ調べたんだけどさ……
この種目の世界記録って210キロなんだと」
「あと30キロで世界記録かよ……」
「はは、その30キロが大変なんだよ」
(実はこの間ジムに誰もいないときに220キロ挙げてたんだけど……
ジャークは280キロ……
でもこれが広まると、また日本のジジイたちが煩せぇだろうからな。
「我がニッポンのためにオリンピックに出ろっ!」とか言って。
だから秘密にしてるんだわ)
お、今度はおっさんが俺にもやらせろと言わんな。
まあさすがにシロウトには危険だってわかったんだろ。
この時期に怪我するわけにはいかないだろうしな。
首の筋トレが終わると、俺たちは食堂に移動した。
そこでは3人ほどが動体視力アップのためのトレーニングを行っている。
このトレーニングは座ってやるから、練習の合間の小休止にはちょうどいいんだよな。
今度はおっさんも最初からやってみるって言うんで、俺がやり方を教えてやったんだ。
まずは準備運動で次は眼球の追従性運動、それから跳飛性運動と瞬間視運動だな。
おー、さすがだわ。
しょっぱなから動体視力20.0ポイントを叩き出してるよこのおっさん。
「お前ぇもやれ」
へいへい。
「………………」
あー、俺の動体視力105.0ポイント見て黙っちゃったよ。
「俺はこの2年間毎日のようにこのトレーニングをしてきましたからね。
それに動体視力は普通の静止視力と違って、訓練すればするほど上昇しますから」
「そうか……
ワイルドキャッツの平均は何ポイントだ?」
「20日前にトレーニングを始めた時は5.2ポイントでしたけど、今は10ポイントを超えて来ています」
「やればやるほど動体視力が上がるのか……」
「はい。
ですが、この訓練はやりすぎると眼球周りの筋肉が硬直して却って逆効果になります。
ですから1回あたり15分以内、1日2回までにしています」
「よし、次はお前ぇの投げてるところを見せてみろ」
へいへい。
それで俺はミゲルを探してみんなでブルペンに行ったんだ。
何故かミゲルはおっさんを見て盛大に硬直してたけど。
それでミゲルが防具を付け始めたら、おっさんの目が少し開かれてたよ。
ほんの微かだけど、けっこう驚いてたみたいだ。
そうして俺は肩を作り始める前におっさんにメニューを渡したんだ。
「なんだこれは。
俺はレストランにメシ喰いに来たんじゃねぇ」
「あー、それ俺の変化球のメニュー表なんですわ。
作ったひとがちょっとお茶目して、本物のレストランメニューに似せて作ったんスけど勘弁してください」
「…………」
お、なんかメニューを開いたおっさんの目が真剣になったぞ。
俺は15分ほどかけて肩を温めた。
「それじゃあメニューナンバー1番から投げますよー。
最初はストレートで、まずはど真ん中からですー」
それで俺はストレートを投げ込んで行ったんだ。
最初は158キロ、次は162キロ、168キロ、最後は176キロ。
スピードガンの球速表示を見たおっさんの顔色が変わった。
「次はコーナーに投げまーす」
といってもまあ俺はミゲルのミットの20センチ下目掛けて投げるだけだけどな。
俺も標的があるからラクだし、ミゲルもミット動かさないからラクだろう。
あ、おっさんがミゲルのミットを見始めたか……
コイツが全然ミットを動かしてないことに気が付いたんだろう。
「次はメニューナンバー2番の50センチフォークですー」
うーん、今日の俺、変化球のコントロールいいなー。
絶好調だわー。
それでフォークとジャイロ投げ終えて、カーブを投げ始めたんだ。
あ、おっさん、またミゲルのミットだけ見てるわ。
さては俺がミゲルのミット目掛けて変化球をコントロール出来てるのに気づいたな………