*** 48 日比山メソッドの説明と見学 ***
この物語はフィクションであります。
実在する人物や組織に類似する名称が登場したとしても、それはたぶん偶然でありましょう……
東大野球部での俺の練習説明会は続いていた。
「午後の練習は、10分ほどの軽いランニングの後、バッティング練習に入ります。
守備陣は置かずに、主にバッティングマシンを使用した練習です。
試合が近づくとピッチャーの私と打撃陣との対戦になりますね。
最初の3球は緩いストレートを投げて打たせてやりますが、その後の6球は変化球も交えた本気の全力投球にしています。
順番を待っている間、皆はマスコットバットを振ったり、筋トレをしたりしています」
「筋トレは腕立てや腹筋なのか?」
「いえ、ウエイトを使って効率的に行っています」
「どんなふうに効率的なんだ?」
「重量は各人に合わせて、各人が6~8回だけ上げられる重さにしています。
そして8回動かせるようになったら、少しだけ重さを増やします。
その重さはもちろん記録しますが、みんな重さを増やすときは大喜びですね。
それから、例えば8回目に途中でバーベルが上がらなくなったとします。
そのときはバーベルの両端についている補助員が、少しだけ力を貸して8回目を達成させるんです。
この8回目が実にいいんですよ」
(なんか急須からお茶を注ぐときは、最後の1滴が旨いっていうのに似てるな……)
「従いまして、筋トレの際にはほぼ全員が交代で補助員になります。
あ、言い忘れましたが、同じ部位の筋トレは絶対に1日2セットまでにして、毎日やらないように言ってますね。
必ず2日は筋肉を休ませて、3日おきにやらせてます」
「それは何故なんだ?」
「筋繊維は酷使しているときには太くなりません。
酷使されて切れた筋繊維が修復されるときに太くなるからで、それには通常3日かかります。
それでも全身30か所ほどの筋トレをしてましたんで、1日では10か所ほどのトレーニングになりましょうか」
あ、原宿ドクターの目が見開かれてる……
けっこう驚いてるみたいだな、はは……
「6~8回の筋トレ2セットを日に10か所か……
そんなんで本当に筋肉が鍛えられるのか?」
「はい。レギュラーは全員ベンチプレスで80キロ以上挙げられるようになっています」
どよめきが起きた。
「神田くんは何キロ挙げられるんだ?」
「え~っと、自己最高は230キロです……」
絶叫が起きた。
「ですが、本当に大事なのは練習が終わった後のケアなんです。
まずは、また入念に静的ストレッチをした後、20分ほど経ってからアイシングを開始します」
「アイシング?」
(記者会見なんかで何度も言ってたけど、誰も記事にしてくれなかったからなぁ。
『暑さのあまり氷で体を冷やす日比山野球部』とか書かれてたし……)
「氷と少量の水をビニール袋に入れたものを酷使した筋肉に15分当てます。
それから他の部位に移って、15分経ったらまた元の部位に当てます。
投手は特に肩と肘を重点的に冷やしますね」
「そ、そんなことをして肩を壊さないのか?」
「壊さないためにやっていました」
「そ、そうか……」
「それから、アイシングしながらまた大豆ドリンクを飲みます。
筋トレは『トレーニング3割、食事7割』と言われていますから。
それに加えて、マネージャーや1年生たちが交代で作ってくれる特別ドリンクを飲みます」
「特別ドリンク?」
「ミキサーで作った野菜と牛乳と果物のジュースに、クエン酸と少量の砂糖を入れたものです。
砂糖を入れないとマズくて飲みにくいですから」
「クエン酸?」
「はい。薬局で買ってきたクエン酸粉末です。
夜の間に、筋肉に溜まった疲労物質を分解して排出するクエン酸サイクルを補助するためですね」
はは、原宿ドクターの目がさらに見開かれてまん丸になってるわ……
「まあ、レモンを絞ってもいいんですけど、レモンはいつも売っているわけではありませんし、高いですからねぇ。
レモン入りは大事な試合の前だけにしています。
ということで、以上が日比山高校野球部の休日の練習メニューです。
だいたい4時前には終わるんで、3年生なんかにはそれから予備校に行ってるやつもいますね」
「ピッチャーのランニングはしないのか?」
「これはわたしの経験から来たものなのですが、ランニングを頑張れば頑張るほど、遅筋は発達しても速筋は却って細くなってしまうんですよ。
野球に必要なのはほとんど瞬発力のための速筋ですから、長距離ランニングはむしろ逆効果なんです。
ですから筋トレの合間に、各人が20メートルダッシュを20本やっています」
何人かがどよめいた。
きっとピッチャー陣なんだろう。
「そんなんでは投手に必要なスタミナが……」
「実はランニングによって得られるものはほとんど心肺持久力だけなんです。
野球に必要なスタミナと呼ばれる筋持久力を鍛えるには負荷が足りないんですよ」
「そ、そうなのか?」
「それに、わたくしたち投手は、練習の時は全力投球は絶対に100球までしか投げないようにしています。
ウォームアップを含めても120球までですね。
それ以上投げると肩や肘を壊す可能性が飛躍的に高まりますんで。
本当は高校生なら80球までにした方がいいんですけど……
練習試合の時にはなるべく80球以内で交代させていますし。
ですから、筋瞬発力は必要でも過剰な筋持久力は不要と考えています。
筋持久力が有りすぎると、つい投げすぎて肩を壊しますから」
(21世紀のメジャーのピッチャーは、100球以上投げないって契約してるやつもいるぐらいですからね、って…… 言えないよな……)
「ピッチャーが肩や肘を壊す場合は、筋肉ではなく側副靭帯や軟骨の損傷なんです。
そしてこれらの故障は主に投球動作の遠心力で腕や肩が伸ばされることによるものなんですよ。
人間の肩や腕の構造は引っ張られることに弱いですから。
それに投球練習をいくらやっても筋持久力しかつかずに、筋瞬発力はつきませんからね。
ですから投球練習では球速は上がらないんですよ」
「で、でも神田くんは、公式戦で100球以上投げてたこともあったよね」
「ですから左投げを練習していたんですよ」
「「「「「 ………… 」」」」」
「わたしはずっと野球を続けて行きたかったんです。
大学でも大学を卒業した後も。
ですから肩を酷使しないで投げる方法として、左投げは小学生のころから練習していました」
「「「「「 ……………… 」」」」」
みんなが沈黙したあと、原宿ドクターがペンを置いた。
「いや凄まじく科学的かつ合理的な練習方法だ。
まるで21世紀のトレーニング方法を聞いているようだった……」
(すいません、実際に21世紀のトレーニング方法なんですが……)
「これが日比山の夏春夏の甲子園と明治神宮大会4連覇の秘密だったんだね……」
「そうかもしれません」
「ところで、この明らかに日本中で日比山しかやっていない練習方法は、どこで誰に教わったのかな。
非常に興味があるんだ」
「自分で本を読んで調べ、その後自分自身で実験して学びました」
「どんな本なのかな?」
「アメリカと西ドイツのスポーツ医学界の論文誌です」
またどよめきが起きた。
「今度私にも見せてくれないか……」
「そう仰るかと思って少し持って来たんですが、ご覧になられますか?」
「是非とも見せてくれ」
それで俺は、カバンの中から5冊ほどの本を取り出したんだ。
その論文誌は、表紙やページの端が擦り切れ、たくさんの付箋で膨らんでいる。
ページを開ければ色とりどりのラインマーカーが引かれていた。
「こ、これは……
よくもまああれだけ野球の練習をしながら、ここまでの研究が出来たもんだ……」
「あの…… 実はこれ、大半は中学時代に調べたものなんです」
「なんだと……」
「本当は中学に入ったら野球のためのトレーニングをするつもりでした。
でも当時の自分はけっこう長距離走にも向いていると分かったもんですから、マラソンもやってみたんです。
ですが当時の先生が、『1日30キロ以上は絶対に走ってはいけない』って仰ったんで、それなりに時間もあったんです。
それに、これって英語の勉強にもなりますしね」
「こ、これはドイツ語の論文誌だが……」
「ええ、外国語を学ぶときは2か国語以上を同時に学ぶと効率的だそうなんで、ついでにドイツ語も勉強していたんです」
「ふう……
野球の天才は勉強の天才でもあり、長距離走や語学やスポーツ医学研究の天才でもあったのか……
なあ神田くん、3年生になったら、いや1年生のうちからでもいいからウチの研究室に来てくれないか?」
はは、先輩たちが「すげぇ!」とか言ってるよ。
「あの…… わたしが合格したのは理科Ⅱ類なんですけど……」
「大学にはわたしから話を通しておく」
「は、はぁ……」
その後、論文誌は先輩方の間を回覧されていったんだけど、さっすが東大生だよな。
みんなふむふむとか言いながら、すらすら読んでたわ。
ドイツ語の方も……
「神田くん……」
(はは、まだ入学前だから「くん」呼びか……
これが4月になって正式に入部したら「おい神田!」になるんだろうけど……)
「はい」
「お願いがある。
一度日比山高校野球部の練習を見学させてもらえないだろうか」
「「「 おおっ! 」」」
はは、先輩たちが乗り気だわ。
「畏まりました。
これから学校に戻って了解を得てきます。
新チームのキャプテンにも言っておきますね」
「その、20人ほどになると思うが本当に構わんか?」
「ええ、いつもけっこう見学者はいますから。
ですが、あと1週間ほどで甲子園に向けて出発しますので、早い方がいいかもしれません」
「そんな大切な時期にすまんね」
「いえいえ、チームのみんなも憧れの東大野球部のみなさんが来てくれたら、喜ぶと思いますし」
ということで2日後、俺は監督、コーチ、チームドクター、キャプテン、マネージャー、それからレギュラーメンバーたちを引き連れて、昼前に新木場グラウンドにやって来たんだ。
午前中の守備練習はほとんどふつーの練習だから、見学してもあんまり面白くないからな。
「集合~っ!」
高校生たちがわらわらと集まって来た。
おー、上野のキャプテンぶりもけっこうサマになってるじゃねぇか。
「朝も伝えた通り、今日は神田さんがこれからお世話になる東京大学野球部のみなさんが見学に来られている。
ご挨拶するぞ」
「「「「「 よろしくお願いしますっ! 」」」」」
「こちらこそよろしく。大事な大会を前にしてすまないね」
(なぁ、さすが東大生で、みなさん賢そうな顔してるな……)
(いや、あれ賢そうっていうよりは、意思力や集中力が強そうな顔なんだろうな)
(そうか、意思力や集中力が強くないと東大に合格するほど勉強出来ないのか……)
(でも3年生の先輩とか似たような顔つきになってるかも)
(そうだな。まあみんなトンデモな集中力で野球の練習してるもんな)
(神田さんの顔なんかすっげぇおっかないし)
(甲子園連覇とかするとああいう顔つきになれるのかも)
(俺たちもなれるといいな)
(そうだな……)
午前中はそのまま守備練習が続けられた。
守備を交代した選手は、すぐにベンチに行って、水と塩錠剤を補給している。
「ほ、ほんとに水飲んでるよ……」
「あれが塩の錠剤か……」
「センパイ方も塩の錠剤齧ってみますか?」
「ああ、頼む」
「塩だ……」
「塩だな……」
「塩だけじゃ辛いでしょうから、水もどうぞ」
「お、おお、ありがとう」
まもなく守備練習が終わった。
「それじゃあストレッチを始めるぞー」
50人ほどの部員たちが、それぞれにストレッチを始めた。
各自自分で筋肉にハリがあると思う部分を重点的に伸ばしている。
まあ主に背筋やハムストリング、いわゆる『裏側の筋肉』を伸ばしてるな。
ただし絶対に20秒までなんだけど。
それ以上伸ばすと筋肉が収縮しづらくなって、午後の練習に差し障りがあるから。
ストレッチを終えた者からベンチに行って、大きな容器に入った黄土色の液体をコップに移してぐびぐびと飲んでいる。
「あれが大豆で作ったプロテインドリンクか……」
「みなさんもお飲みになられますか?」
「いいのか?」
「ええ、今日はみなさんのために、かなり多めに用意してくれてますから」
「これは…… うん、大豆の味だ」
「ほんのり牛乳と塩や砂糖の味もするな」
「意外と飲みやすいじゃないか」
昼飯は各自が弁当を持って来ている。
東大のみなさんは、みんな途中でパンや牛乳を買っていた。




