8話 三女の気付き
「…というお手紙が届いたのよ」
「さすがシエラ、仕事が早いわね」
「感心している場合ではないでしょう?」
ラクレシア侯爵家で開かれたお茶会の片隅にて、密やかに会話する令嬢が三人。
次女シエラから届いたという手紙について、アンリナの報告を聞いて舌打ちするフィリスに、カサンドラが心から呆れたといった様子で溜め息を吐いている。
そんな彼女達に向けて、つい最近ラクレシア侯と結婚して侯爵夫人となったエリーゼが、夫の隣から遠目にチラチラと視線を送っていた。会話に参加したくてしょうがないのだろう。
フィリスが社交の場に出掛ける際は、いつもこの三人と一緒だ。面倒なしがらみの多い貴族社会において、奇跡的にも気の置けない友人となった彼女達の交流は、エリーゼが結婚し、カサンドラが従兄弟と婚約をして花嫁修行に追われるようになっても、途切れることなく続いている。
そのことをよく知る姉のシエラは、フィリスについて心配事がある度(主に社交に関することなのだが)に、こうして友人達に面倒を見てやってくれと平身低頭した手紙を送るのだった。
「フィリスもいい加減に口を慎みなさいな、せっかく華やかな容姿をしているのに勿体ないですわ」
「私はただ、売られた喧嘩を買っているだけだもの」
「フィリス……それをね、慎みなさいってアンリナは言ってるのよ……」
仲間内でも年長のアンリナが代表して諭そうとするが、言い分を聞く限りシエラが反省した気配はまるでない。困ったようにカサンドラが微笑んだところで、三人の耳に嘲笑が飛び込んでくる。
「ほら、あの方が田舎貴族の…」
「貧乏が祟って盗人風情に騙されたとかいう…」
「人目に出て恥ずかしくないのかしら…」
同じ年頃のご令嬢達からクスクスと笑う声に紛れて聞こえる囁き声に、フィリスはじっと耳を澄まし、友人達は顔を青褪めさせていく。不穏な空気に気付いたエリーゼが、三人を何とかこの場から離れさせようと近付いてきたところで、禁断の一言が落とされた。
「まともなご当主がいらっしゃらないから無理もないわ、ご兄弟もたかが知れるというものね」
「待って、フィリス待って!」
「そ、そうよ!お姉様のお手紙を思い出して!」
「ちょっと、フィリス!」
「アンリナ、カサンドラ、ありがとう。先に謝っておくわ、ごめんなさいエリーゼ、貴女の開いたお茶会なのに」
それは最早、宣戦布告の合図。
残された友人達は、近付くシエラに目を丸めるご令嬢方を憐れに見遣るしかなかった。
「ごきげんよう、皆様。楽しそうにしていらっしゃいましたけど、先程のお話、私の顔を見てもう一度言ってくださいます?」
自分のせいで殺伐とした空気となったお茶会の翌日、フィリスはグランツェルンの街を訪れていた。本当はとても出掛けるような気分ではなかったのだけれど、半ば一方的とはいえ約束があるのでどうしようもない。
それに今回は、各方面で進展があったため、聞くべきことも多いのだ。姉妹の幸せを思えば、多少の憂鬱も厄介な相手との攻防も…
「こんにちは、可愛い君。物憂げな表情も素敵だね」
無理かもしれない。
待ち合わせ場所のパン屋の前に着くやいなや、持ち前の顔の良さを最大限に生かした甘ったるい笑みを浮かべ、歯の浮くような台詞を並べ立てた上、これまでの経験から自衛のため素早く隠した両手に代わり、掬い上げた髪先に口付けられたところで、早くもフィリスのなけなしの忍耐が切れかかる。
「おや、本当に機嫌が麗しくないらしい」
「……誰だって、そんな日くらいあるでしょう」
「昨日の今日だからね、無理もないさ」
さらりと言ってのけるハルを思わず見つめれば、「知人に聞いたよ」と涼しい顔で嘯く。
「行こう」と差し出された手を渋々取ってついていけば、ハル曰くのデートでよく寄る商店街を抜けて裏路地に入り、廃屋の勝手口に続く階段の上という、いつもの情報交換での定位置へとたどり着いた。
そこへ隣り合って座ると、頬杖をついたハルが些か面白くなさそうな様子で、知人から聞いたとかいう内容をつらつらと話し始める。
「君は淡い薄紫色のドレスを着ていたそうだね、きっとピンクプラチナの髪によく栄えて似合っただろう。実際、とても綺麗だったと知人も褒めていたよ。僕の知らない君の姿をアイツに見られたと思うと、本当に頭にくるな」
「……アイツって、誰ですの?」
「茶会が始まって早々、鴉派のご令嬢方に絡まれたとか……何かおかしなことはされていないかい?大丈夫?まったく、出会った時もそうだったけれど、フィンは無茶をするね。君のその胆力が僕は好きだけれど、あまり無理をしては、」
「貴方は、私の素性を知っているわけね」
最初の質問を無視されたことで、ハルが情報源について話す気がないことを察したフィリスは、切り口を変えて冷ややかに問いかける。
ハルは気不味げに視線をさ迷わせていたが、やがて観念した様子で溜め息を吐いた。
「……検討はついている、けど、最後の確認は取っていない。そんなところかな」
「つまり、知人の方も、貴方も、ラクレシア侯爵家と面識を持つくらいの貴族という解釈でいいかしら?」
「黙秘する。ただ、僕は侯爵を直接知らないし、茶会に招かれるような仲でもないことは証言しておく……侯爵夫人が質問攻めにあっては申し訳ないからね」
昨日の茶会は、ラクレシア侯爵夫妻が自宅の庭園にて開催した、極めて私的なものだった。そのため、招かれたのはフィリスのような古くからの友人や、侯爵の仕事関係で付き合いのある貴族ばかり。
ラクレシア侯爵は、皇后と第一王子率いる王太子派にも、宰相のランウェル公爵・軍司令のウィルヘルム公爵が組む二公派にも属さない中道派である。そのため招待客は皆、近頃の政情も鑑みて両派からバランスよく招待されていた。
ハルの口振りからして知人というのは男性、しかも王太子派の裏での蔑称…皇后と第一王子の漆黒の髪色からつけられた鴉派を呼んだことから、二公派の人間だと思われる。
ラクレシア侯爵は確か軍部で文官を務めていたはず、ということは、昨日の出席者の中で二公派の軍閥貴族は…などとフィリスが考え込んでいると、酷く慌てながらハルが顔を覗きこんできた。
「駄目だよ、推理なんてしたら!君は賢いしやたら顔も広いから、知人や僕の正体がわかってしまう!」
「成る程、知名度のある階級の方なのね?」
「っ……詮索しなくても、直ぐにわかる。一ヶ月後に北方の使者を歓迎する会があるだろう?そこで嫌でも顔を合わせるだろうからね、そうしたら君は……きっと、僕を軽蔑する」
「失礼ね、私は理由もなく人を軽蔑なんかしないわ」
「理由ならあるさ、僕は君が最も忌むべき種類の人間だ、失望するに決まっている。だからっ……それまでは、僕が誰なのか探らないで欲しい。ただの"ハル"として、君の側に居させて欲しいんだ」
そのまま深く項垂れて身動ぎしないハルの姿に、昨日のいざこざによる不機嫌も、謎のお坊ちゃんと知人の正体探しの好奇心も忘れて、フィリスは唯々戸惑う。
どうせ一ヶ月後にバレるなら、今すぐ言ってしまえばいいのにと、この状況で至極真っ当に思える指摘も、こんなにも落ち込んだ姿を見ては言えるわけもなく。
暫し対応を悩んだ末、ここまで落ち込んでいる要因の一つに不服ながら自分も含まれているらしいことから、放っておく気にもなれず、とりあえず目の前のブロンドの髪を撫でてみることにした。
まるで大きな子犬だ。彼に関わる大抵の人間はそんな感想を抱き、放っておけずにあれこれ世話を焼いてしまうのではないだろうか。
それはそれで立派な人たらしの才能なのだが、今のハルに言っても逆効果になりそうなので、黙っておく。代わりに、別の話をすることにした。
「……大抵のことじゃ失望も軽蔑もしない自信があるわよ。それを言ったら、私も大概だし」
「フィンが?そんなことあるわけ…」
「一つ、秘密を教えてあげる。まあ、貴族社会じゃ結構広まってる話だから、秘密も何もないんだけど、貴方は知らないようだから」
「……どんな秘密なんだい?」
「ハルと出会った時、乱暴しかけた五人組を追い払った修羅場話があるでしょう?あれはね、八割が実話、私の実体験」
その瞬間、地面に沈んでしまうのではと心配するくらい深く項垂れていた頭が勢いよく上がり、髪を撫でていた掌を両手でひしりと掴んでハルが叫んだ。
「君、結婚しているのかい!!??」
「そんなわけないでしょ、落ち着いて思い出しなさい」
何故、心なし涙目になっているのか。
見た目だけなら御伽噺の王子様なのに、時々どうしようもなく言動の節々に残念さが滲むのが、心底勿体無いと思う。
これまでの重苦しい空気はどこへやら、かつてない程の真剣な表情に変わったハルは、あの時のことを必死に思い出しているようだった。
「3年くらい前に、結婚を申し込んできた年嵩の子爵がいて、相手の方が爵位は低いけど気にならなかったから、お受けしたの。感じの良い方だったし」
正確には、爵位については誰も口を挟まなかったが、その為人について信用出来るのかということは、姉達は少々気に掛けていた。妹もあまり良い印象を持っていなかったようだ。今思えば、女の勘というものだったのだろう。
その忠告を素直に聞いておけばよかったのだが、エスティア領もクラリス家も厳しい財政事情を抱える中、早く嫁いで一人分でも負担を減らさなければとの一心で、フィリスは婚姻の話を進めてしまった。
ところが、ある日、珍しく非常に険しい顔をした叔父が家を訪れたと思ったら、その子爵の悪行の数々―…娼館に入り浸っているだとか、ギャンブルに注ぎ込んで子爵家を潰す寸前だとか、かつての恋人に暴力を振るって裁判沙汰になるのをお金で解決しただとかを、束になった証拠の書類と共に知らせたのである。
それらを全て読み終えた長女のアリシアが直ぐ様家の金や納戸に閉まっていた父母の遺品を確認すると、それらの一部が盗まれていたことが発覚した。どうやら、婚姻を進める為の話し合いで家に来た際、隙をついてくすねていたらしい。姉が血の滲む努力で、いつか妹達が結婚する時の為にと貯めていた金をだ。
これらをしっかりと証拠として纏めた叔父と長女が裁判所に申し立て、その男は窃盗の罪で収監され、もともと傾いていた子爵家も取り潰されることとなったわけだ。
以上のことを、フィリスは時に冗談を交えて愉快に話したつもりなのだが、ハルはまた段々と顔を俯かせてしまう。しかも今回は、気落ちしていない代わりに何とも不穏な空気を漂わせるものだから、予想外の反応にフィリスの背を冷や汗が伝っていく。
「……あいつら……わざと知らせなかったな……」
「あの、ハル?ええと……軽蔑した?」
「するもんか!!だって君に恥じるところなんて、何一つないじゃないか!!」
再び勢いよく顔を上げ、両手を掴んでの精一杯の叫びに、思わずフィリスは吹き出してしまう。
声を上げて笑う様に虚をつかれたのか、ポカンと呆けるハルにまた一つ笑いながら、フィリスもまた彼の手を握り返した。
「ありがとう、ハル。貴方がそう言ってくれるなら、私も少々のことには目を瞑ってあげる。それでおあいこよ、ね?」
「フィン……」
「それにハル、言ってたじゃない。変わるためにここへ来たんでしょう?しっかりしなさい!あんまり暗い顔してると、好きになってあげないわよ?」
冗談じみた口調で最後の一言を告げた途端、ハルの顔を見るより先に思いきり抱き締められて目を見張る。
段階を飛ばしすぎだと思うが、その性急さが彼の必死さを知らせている気がしたため、軽口を叩くのは控えておいた。
「フィン、好きだよ」
「はいはい」
「本当に、好きなんだ」
嘘ではないのだろう。まだ片手で足りる程にしか会っていないが、気軽に嘘を言えるような性格ではないと思う程度には、ハルという人間を信頼している。
だからこそ、フィリスは言えずにいた。
もしもハルが彼女の思う通りの高位の人間であるならば、自分は隣に立つ資格などない、と。
いくら騙された被害者の立場で更に結婚まで至らなかったとはいえ、世間的に見ればフィリスは傷物である。
フィリスが玉の輿を狙っているのは、先妻に先立たれたどこぞの裕福な商人の後妻だとか、いいところの貴族様の三男など、傷物でも角が立たないような相手だ。ハルがそれらに該当する立場だとは、とても思えない。
だが、真っ直ぐに自分への想いをぶつけてくるハルに、正直な本音を言える筈もないフィンは、にこりと笑って誤魔化すことにした。
「ところでハル、大事なことを忘れてない?貴方と一日一緒に過ごす対価に、私の聞きたいお話を聞かせてくれるんでしょう?」
「ああ……うん、君は本当、流されてくれないね……」
「今日もガリレウス侯爵の話と、あとランウェル公爵のとこのセシリアン様についても、ちょっと聞いておきたいことがあるのよねぇ」
「いいよ、僕をどんどん利用するがいいさ。それでフィンの役に立てるなら、あわよくばほんの少しでも好感度が上がるなら、友人知人だって売ってみせる…!」
そうは言いつつ、ハルが強請られた人物について話す時、当人について極めて繊細であろう点に関しては一線を超えないよう、細心の注意を払っていることにフィリスは気付いている。
ふと、先程彼の手に触れた際にもう一つ気付いたことを思い出し、右手をヒラヒラさせながら微笑みかけた。
「そういえば、ハル、頑張ってるのね」
「え?」
「右手、痕があったわ」
あの辺りにマメの痕があるということは、武器ではなくペンだろうなと見当を付けていると、ハルが肩を戦慄かせながら呟く。
「君はもう、本当、そういうところだよ…!」
「何が?」
「好きだ!!」
「あら、そう」
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