6話 長女の懸案
その夜は、嵐のようだった。
窓を叩きつける雨の音が止む気配はなく、不定期に吹き荒ぶ強風によって壁や窓枠は嫌な音を立てて軋む。
これ以上雨風が酷くならぬうちにと、ビクター夫妻には早々に離れに下がってもらった。庭を気にするエレナには外出禁止を固く言いつけ、フィリスを目付に部屋へ籠らせている。
静かになったクラリス邸の執務室でアリシアは一人、領経営の事務仕事に追われ、ペンを走らせていた。
もう何度目かわからない北方の連合国との小競り合いは、先日の祝勝会の通り今回もコンラッド王国の勝利に終わり、とうとう和平条約を結ぶに至った。小競り合いといえども戦争、毎度の敗けが重なり、ただでさえ資源に乏しい北方の国々は、いよいよ困窮極まったのだと思われる。
東西南北に広く領土を持ち、豊かな資源に恵まれたコンラッド王国も、度重なる出兵によって国庫を削っており、その都度、各々の貴族は愛国心と権威を示さんと自領の精鋭や兵糧を送り、国を助けてきたのだった。
これらの行為は、あくまで自主的な国への献身である。国から爵位と領土を与えられた貴族にとっては、暗黙の義務でもあろう。アリシアもその点に関しては、何の異議もない……献身が正しく国に尽くされているのであれば、という前提はつくが。
問題は、慢性的に若者不足のエスティア領から出せる兵などあるわけがなく、代わりになけなしの穀物を献上し続けてきたおかげで、領内経営は火の車だということだ。温暖な春の内から対策を講じておかなければ、領民全てが安心して冬を迎えることは難しい。
かくして彼女は、今日も今日とて夜更けまで領主業に精を出していたのだが、不意に雨風に紛れた馬の嘶きが耳に入り、あれだけ無心に走らせていたペンを置くと、溜め息と共に立ち上がった。
途中、部屋に戻ってタオルを取り、主に家人と忍んで外出するフィリスが使う裏の勝手口へと向かえば、外側から扉が開くのと同時に、びしょ濡れの外套を羽織った叔父のダスティが現れた。
「やれやれ……こんな勝手口で、領主様直々の出迎えを受けるとはな」
「領主代理、です。こんな夜に限って、叔父様は訪ねてきますから」
もっと常識的な時間に正面の玄関から入って来てくれと言わないのは、それが叶わないと父親が亡くなってからの七年間のやり取りで散々学んだからである。無駄な労力を使うつもりはないが、さりとて家長代理として後見人である叔父を無下にするわけにもいかず、こうして互いに裏口で毎度同じやり取りを交わすことになるのだった。
アリシアが差し出したタオルを受け取り、フードを上げて無造作に髪を拭うものの外套を脱ぐ気配のない叔父は、今回もまた、最低限の用事だけ済ませて帰るつもりなのだろう。そう察したアリシアがお茶を用意することもなくその場で黙って待っていると、ダスティは少々疲れた様子で話し出した。
「条約締結と互いの王族の婚姻を目的に、北の第一王女と外務大臣が一月後にうちに来ることになった」
「ハンヴラウスの第一王女といえば、確か次期女王と噂の…?」
「そうだ。連合の宗主国であるハンヴラウスの王女と、うちの第二、第三王子辺りを結婚させて、確実な和平を内外に示そうってことだろうよ」
作物の実りが少なく、遊牧によって生活を成り立たせてきた北方地域では、古より部族毎に王国が乱立しては消えていくといった具合で争いが絶えなかっという。そこへ、ハンヴラウス国を打ち立てた初代王の登場により、北方地域の国々は束ねられ、連合国の体を成すようになった。
同時に、この頃から隣接する資源豊かなコンラッド王国への侵略行為が始まり今に至るわけなのだが、初代から三代を経て連合にも歪みが生じ、度重なる戦闘行為の疲弊もあって、和平を結ぶこととなった。
互いの王族同士の婚姻、それもただの王女ではなく、次期女王との呼び声も高い王女が相手となると、連合のみならずコンラッド王国内でも燻る好戦論者達への牽制にもなるだろう。何より、
「王位継承争いの好敵手が一人減る、か……」
「おい、滅多なことを口にするな」
「あまりに露骨だったものですから、つい」
珍しく険しい声音で嗜める叔父に鼻で笑えば、心底呆れたといった様子で深く息を吐く。壁に耳ありとはよく言ったものだが、権謀術数渦巻く宮中から遠く離れたこの家に限っては、案じることもないだろうに。
恐らく妹達は知らないであろう、不精者の叔父が持つ酷く慎重で神経質な一面に今度はアリシアが息を吐きかけるが、それも無理ないことかと思い止まった。
「それでは、歓迎の晩餐会でも開かれますの?」
「ああ、王宮主催のものになる、ここにも招待が届くだろうよ……で、本題だ」
本来の調子を取り戻し、ニヤリと浮かぶ笑みに眉根を寄せていると、叔父は一通の手紙を投げて寄越す。封に押された蜜蝋のガリレウス侯爵家の刻印に眉間の皺を益々増やすアリシアに構わず、叔父は本題とやらを話し始めた。
「名目上は歓迎会でも、実質的には両国の王子王女の見合いの会だからな、勿論舞踏の場も用意されている。お二方が自然な流れでダンスに向かえるよう、年頃の連中はパートナーを伴って積極的に踊れと然るべき立場の貴族様方に秘密裏のお達しが出たって訳だ。勿論、マークスもその中に含まれてる」
「……それで?エレナに相手を務めろと?」
「お前なぁ…言い方ってものがあるだろう?麗しのエレナ嬢に是非お相手を願いたいとのお誘いさ、文面の8割はウィルヘルム公爵が張り切って考えたけどな」
「前にも言ったけれど、人が悪いにも程があるわ。悪趣味よ」
「お断りして」と切って捨てるアリシアであるが、存外に真面目な叔父の瞳にぶつかり、それ以上の言葉を飲み込む。
言いたいことも、思うところも、山程ある。けれど、それら全てを噛んで含んで腹に据えた上で今在る場所を選んだ叔父を前にしては、どんな言葉も幼子の駄々と同義になってしまう気がしたからだ。
「あいつの身の上は知ってるな?ウィルヘルム公爵家に近しい侯爵家の当主、戦勝最大の功労者と唱われる騎兵師団の団長、そういった肩書きを以てしても、パートナーを見つけることは難しい」
「だからって……!」
「わかってる、お前はそんなことで相手を判断するような人間じゃあない。エレナは勿論、マークスのことも案じてやってるんだろう?」
ふと表情を緩めての一言に肯定も否定も返さぬまま、アリシアは黙って視線を逸らす。
姉の直感とでも言おうか、アリシアにはマークスを一目見た瞬間、激しい危機感と根拠のない確信を得た。エレナをこの男に近づけるのは危険だ、と。
もし、姉妹でもとりわけ優しい末妹が例の件を知ってしまったら…加えて、その際にガリレウス侯マークスへある一定の感情を抱いてしまっていた場合、妹はどれだけ傷つくだろう。
また、一方でこうも思うのだ。エレナを始めとした自分達姉妹と関わりを持つことは、彼にとってあまりに酷である、と。事実、祝勝会でのマークスの表情は非常に硬く厳しいものであったし、ダンスとはいえエレナに触れることを酷く躊躇っているようでもあった。
そういった反応を思い返すにつけ、彼方にしても積極的に接触を持つつもりなどないだろうに、叔父にしろ公爵にしろ、何故要らぬ世話を焼きたがるのか。
理解に苦しむ事態を体現したかのような、厄介な封書をアリシアが睨み付けていると、ダスティは苦笑混じりに頬を掻いた。
「まあ、なんだ……年長者として、一つだけいいか」
「……一応、聞いておきます」
「エレナが傷つくと決めつけてやるな。普段はおっとりしてるが、あれでなかなか芯のある娘だからな……断るかどうかは、エレナにちゃんと選ばせてやれ」
叔父から思いがけず発揮された後見人らしい言葉の数々にアリシアが目を見張っていると、「なんだその反応は」と照れ隠しらしき一言を残して、ダスティは再び目深にフードを被る。
それが暇の合図だと気付き、慌てて濡れたタオルを受け取ろうとするが、叔父に離す気配はなく。怪訝に思いながら互いにタオルを掴んで見つめ合えば、一瞬の逡巡の後にダスティが口を開いた。
「前回もシエラに言伝てを頼んでいたんだが……アリシアも今度こそ着飾って来いよ、妹の前に先ず自分の旦那探しだろ」
「またその話ですか。私は妹達が結婚なり仕事なりで身を立てるまで、相手を探すつもりはありません」
「お前なぁ……言いたかないが、もう24だぞ?このままだと本当に嫁き遅れちまうだろうが!何より、あと三年で、」
「それまでには算段をつけます。この家を取り潰す気は更々ありませんから、その点は安心なさってください」
突然父親が亡くなった後、叔父や両親が懇意にしていた人々の取りなしもあって、男子を持たないクラリス伯爵家は長女のアリシアが当主代理となることで、廃嫡によるお家の取り潰しを免れたのだが、その際に課された条件が一つある。それは、十年以内に婿を迎え入れて当主に立てることだ。
女性の文武への進出が見られるようになった昨今、正統な女系当主を認めないなど時代錯誤も甚だしいとは思うが、当時の状況を鑑みるに殆ど嫌がらせのようなものである為、致し方ないとアリシアは諦めていた。むしろ、即刻取り潰しとならなかっただけ、感謝すべきであろう。
「……お前は本当、生き辛いやつだな。まだ若いんだ、恋愛の一つもしてみたらどうだ」
「初恋に殉じて何十年の叔父様に言われたくありません」
「アリシア!!」
「私、絶対に恋なんてしないと決めてますの」
恋なんてしない、けれど家の為に結婚をするつもりはある。それで十分ではないかとアリシアはアイスブルーの強い瞳で見つめるが、今度は叔父の方から視線を逸らされてしまう。
そのまま無言で嵐の中へと戻っていく背中を見送りながら、叔父の目の下に浮かぶ隈に今更ながら思い至り、嗚呼また人のことより自身を労れと言いそびれたなと、アリシアは遠く馬の嘶きを聞いた。
結局、この手の話は毎回こうして有耶無耶に終わるのだ。
叔父は意味と結論から目を逸らし続け、自分はつまらぬ意地を張り続けている。聡い次女や世慣れた三女が気にかけていることには気付いていたが、十年以上も拗らせたこの感情をそう簡単には解せそうになかった。
翌朝、朝食の席でアリシアはエレナにマークスからの手紙を渡した。
黄色い声を上げてはしゃぐフィリスの隣で、黙って手紙を見つめ続けるエレナにどうするか尋ねると、少しの間を置いてから、ぽつりと声が落ちる。
「アリシア姉様、私……ダンスの練習がしたいです」
「……行くのね?」
「はい。今度はちゃんと、あの方の目を見て、胸を張って、踊りたい。だから……その、」
「任せなさいっ!ビクターがしっかり仕込んで、私がばっちり飾り付けてあげるわ!!」
恐らく、妹にとっては勇気を振り絞っての返答だったろう。それがわかるからこそ、フィリスは飛び上がらんばかりに喜び、彼女なりの祝福と声援を送っている。エレナはそんな姉に狼狽えながらも、どこか嬉しそうだ。
二人の微笑ましい様子に目を細めながら、長女は一人静かに心中で呟く。どうか、二人にとっての恋は、きらきらと眩しく、温かなものでありますように、と。そして、その真っ直ぐな眼差しを忘れずにいて欲しいと。
叔父に負けず劣らず初恋を拗らせている自覚のあるアリシアは、ただ、愛する妹達の幸福を祈った。
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