煙を喫む
タバコの煙が揺蕩う。
右手に持ったタバコの端から絶えることなく煙が燻り、何もない部屋に、しかし何かに反射して煌めくかのように宙へ昇っていく。
何もない部屋だった。
白くも、黒くもなく、かといって他の何色でもないような部屋。
私はそこにうな垂れるようにして存在しているように思えた。
椅子も、机もなく、しかし、私は立っているわけでも座っているわけでもなかった。
当たり前のことだった。
この部屋のありようは、私の存在はここでは当然のことであると私にはなんとなくわかっていた。
それが分かっているからこそ不安に思うことも、恐れることもなかった。
何もない、無感動で無機質で、しかしそれら全てすらないような部屋で私はただただ煙と共にそこに充満しているだけだった。
充満、そう、そうだ。
いつからか、私の私としての器は、外と中を区別する境界は優しく崩れていた。
私は今や自分を指してこれが私であると証明する方法をなくしてしまった。
それでも、それに恐れを抱くことはない。
ただ、不可思議な納得と共に私は煙と混じり合っていく。
不意に、情景が浮かび上がって来た。
目に見えるわけではなく、そもそも知覚器官を失くした私はこれが記憶であることを悟った。
私の記憶にない、記憶だった。
それは夢だった。
私が心から望んでいたものだった。
心から信頼できる友。
寄り添い合うことのできるパートナー。
豊かな食事風景と暖かな家族。
朝起きて隣にいるパートナーに微笑み、昼会社で同僚とくだらない話題で笑い合い、夜家でパーティーを開き子どもに満面の笑みを浮かべさせる。
それらは私の知る人物であったり、あるいは全く知らない人物であったりした。
まるで、どれが良かったかと問いかけるように。
あるいは、こんなこともできたのだと示すかのように。
代わる代わる浮かび上がる情景は夢幻のように無限に続くかに思えた。
けれども、煙は薄れて行く。
それは、夢だった。
私が望み、思い描いた夢想。
いつだって心の片隅に刺さり続けていた小さなトゲ。
それを感じた私はそれでもどこか穏やかな心持ちだった。
そして、悟る。
ああ、これは夢だ。
私が望み、描いた夢。
心のどこかで夢見た美しい夢。
微睡みの中で揺蕩う小さな小さな夢。
けれども、それを見ることが示すことを私は理解していた。
卵を落とせば割れることのように。
手首を切れば血が吹き出すことのように。
銃を握れば引き金を引くしかないことのように。
当然の帰結であることを私は知っていた。
やがて、煙は薄れていく。
情景もどこか遠く、しかし、矮小な醜い自分が自分に戻っていくことを微かな忌避感と共に感じていた。
納得していた。
これが夢であることも、もはや叶いようのないものであることも。
夢は夢でしかなく、手に入れようとも煙のように手をすり抜けていくだけのものと悟っていた。
薄れゆく煙と意識の中、私はどこか安堵していた。
自らの体と引き換えに精神を失くすかのような感覚の中、私は自ら目を閉じる。
やがて、煙と混ざり合った私を何かが喫むことを知っていたとしても。
私はやはり満足して、安堵していたのだ。
つぶやく。
嗚呼、とてもよい夢見だった。
そして、それに反応するかのように何かが私を掬い上げる感覚を覚えてーー。
僕は、手を合わせていた。
穏やかな表情のまま眠っている男性を前に私はしばらくの間目を閉じ、祈るように手を合わせ続けた。
「ご苦労、執行官」
やがて、手を下ろし瞼を開けると背中から声をかけられた。
言葉こそ横柄に聞こえるものの、それが優しく、慮る感情の現れであることを僕は当然知っていた。
「いえ…僕はただ夢を見せただけですから」
仕事ですよ、と呟き改めて辺りを見回す。
殺風景な部屋だった。
あるのは男性が眠るベッドと椅子が一脚のみ。
真っ白の小さな部屋だ。
寂しい部屋、と表現するのが正しいのだろうか。
部屋のせいか、眠る男性の姿はどこか小さく見えた。
それらを見た後、男性の方に向き直る。
常々硬い表情をしているように見える既知の男性は、いつにも増して表情が硬かった。
その様子に内心で嘆息しながら自分でもいつから持っていたかわからないものを差し出す。
男性はそれを見て一瞬迷うような表情を見せた後、それを手に取った。
そして、彼はそれを口に咥え、マッチを擦った。
独特の微かな音を立て、マッチに火が灯る。
「…息を、吸ってください」
マッチから移らない火を見て、僕は呟いた。
彼は、迷うように目を閉じ、ゆっくりと息を吸った。
煙が、揺蕩う。
それは夢だった。
現実では冷酷非道と呼ばれ、指名手配することも躊躇われるほどの大罪人。
多くの人を苦しめ、人の尊厳を踏みにじり、世界を嗤うようなそんな男の小さな夢だった。
淡い色あいのタバコは彼が煙を喫むたびにその長さを短くしていき、灰に変わっていく。
吸い方を知らないのであろう彼は、ぎごちなく、煙を吸い、その重さに噎せる。
ゆっくりと、それを味わうかのように吸い続ける。
揺蕩う煙は、眠る男性の想いを映すように淡く輝き、やがて消える。
「…俺とあいつを結ぶものは怒りと憎悪だけだった」
タバコを燻らせ、彼は懺悔するかのように言う。
「あいつが、全てを騙っていたと知った時、俺はあいつの全てを憎んだ。何をしても、されても平然と嗤うあいつを見るたびに、感じるたびにあいつの何もかもを許せなくなっていった」
火は、短くなっていく。
「赦すことなど、できなかった。何もかもがねじ曲がり、歪んだようなあいつを赦すことなど」
どうあってもできなかった。
彼はそうつぶやいた。
「…俺はあいつを見ていなかったのだろうな。こんな想いなど、今の今まで知りもしなかった。歪み、ねじ曲がっていたとしてもあいつは」
言葉を切るように彼はタバコを口にする。
煙が淡く輝き、何かの形を象ったように見えた。
「…彼は、やがて忘れられます。緩やかに」
僕は口を開いた。
「それはあなたも例外ではない。僕の仕事はもう、終わってしまった」
「……ああ」
彼は、絞り出すようにその言葉を吐いた。
「……それがただの仕事だとしても、俺はお前に感謝している。俺はあいつの想いを知り、望みを識り――夢を、見た」
彼は、俯いた。
僕は低い天井を仰いだ。
「先ほども言った通り、僕の仕事はこれでおしまいです。……後は、お任せします」
彼に一礼し、僕は部屋の扉に手をかける。
永遠の眠りについた男性はあまりにも悲しみを撒きすぎた。
多くの人に植え付けられた疵はあまりに深く、大きい。
だから、僕がその記憶を喫んだ。
彼の記憶は曖昧であやふやなものになり、やがて煙のように人々はあの大罪人を忘れる。
しばしの間だけ、彼の存在は人々の記憶を揺蕩うだろう。
けれど、半年もすれば彼を思い出すものはいなくなる。
彼の体も誰かも分からぬまま、燃えて灰になり朽ちる。
そうして、彼は塵一つ――灰一つ残さず消えていく。
誰の記憶にも残らぬままに。
「……」
そのことになんとも言われぬ感傷を抱きながら部屋を出た。
仕事は終わりだ。
少々の疲労感とともに、帰ったらひと眠りしようと考えた。
閉まる扉、その最後に。
「さようなら……義父さん」
夢が、灰になる音がした。