どうぞ、ほんの少しの心をあげる
目に優しくないピンク色に眼痛を感じ、長い瞬きをした。
瞼の裏の中でもきゃらきゃらとした声は聞こえ続け、浅い溜息が漏れ出る。
「……胸焼けがする」
きゅ、と胸元のシャツを握れば、脇に立っていた真っ赤な髪の幼馴染みが「うーん」と苦く笑った。
胸に落ちるような甘い匂いが嫌いなわけではなく、もっと言えばチョコレートは好きだ。
ただ、その日本でいうところの女性が男性へと愛を込めてチョコレートを贈るバレンタインデーが苦手である。
「毎年毎年……ボクはこの日が来る前に死んでおきたいと思うよ」
今度は深く長い溜息を吐く。
「まぁまぁ、作ちゃんもチョコ、好きでしょ?」
目の前にずずい、と差し出されたこれ見よがしにハート型にされたチョコレート。
幼馴染みのMIOちゃんは非常に楽しそうで「でも作ちゃんには手作りあげたいなぁ」声を弾ませた。
「チョコは好きだよ。チョコレートは、ね。この雰囲気は好きになれない」
「まぁ、作ちゃん甘ったるい雰囲気嫌いだもんね」
腕を引かれ、チョコレートとは違う意味の甘い匂いの中、進む。
きゃらきゃら聞こえてくる声は、どれも楽しそうで、それがまた心を重くする。
視線を左右に揺らしながら、凝ったラッピングを見て、隣ではしゃぐ声を聞く。
「私、あれ」
「……ん?」
「あれ、崎代くんに贈りたい」
白い指先がすいっと宙を泳ぎ、あれ、とディスプレイの方を指差した。
桜貝のような爪が指し示す方向を見遣れば、真っ赤なハート。
プラスチックケースの中に入っていたのは、真っ赤なハートを模したチョコレートだ。
当て付けようなそれに眉を顰めるが、ボクの腕に腕を絡めているMIOちゃんは、笑いながら首を左右に振った。
毛先を切り揃えた赤色が揺れる。
「あれね、大きいハートだけど付属の専用ハンマーで叩き割るんだよ」
「叩き割る……」
指を差したまま、MIOちゃんはケラケラと笑い声を上げた。
ディスプレイされてるそのチョコレートは、確かに一緒に細身のハンマーが添えられている。
良く良く見れば、商品名も和訳で『私のハートを壊して』となっていた。
写真付きで解説も載せられており、覗き込んで見れば、叩き割った大きなハートのチョコレートの中には、更に小さなハートのチョコレートが入っているようだ。
デザイン的にも可愛らしさと遊び心がある。
色もイエロー、ダークブラウン、レッド、と三種類でそれぞれ味も違うらしい。
「私が崎代くんにあげるからね。だからね、作ちゃんがあのハート叩き割ってね」
「えっ」
「それで中身を作ちゃんが食べて、外側を崎代くんにあげてね」
邪気の無い、その通りの無邪気な笑み。
邪気はなくとも悪意は滲んでいるような気がして、瞬きの回数を増やし、付き合いが長い幼馴染みであるはずのMIOちゃんの顔を見詰めた。
元々下がり気味の目が、笑みを象ることで更に下がって見える。
「……MIOちゃんって、崎代くんと仲良くなかったっけ」
「いいよぉ。高校の時に出来た友達一号」
目の前に差し出されるVサインに、だよねぇ、と相槌を打つ。
そも、ボクが崎代くんと出会ったのもMIOちゃん経由である。
割と似通ったテンションで、やはり似通った好意を向けてくる二人に、高校時代はうんざりと言うよりげんなりしたものだ。
何かお互い感じるものがあったのだろう、ボクには分からないがそういうことにしておき、双方から向けられる好意に今でも時折目眩がする。
ピッタリ、引かれていた腕を絡め取られ、身を寄せてくるMIOちゃんに、浅く息を落とす。
「でも、私の方が作ちゃんとの付き合い長いから」と親指をサムズアップさせるMIOちゃんに、はぁ、と曖昧に頷く。
そっかぁ、と適当な相槌を打つのは、下手に踏み込むと自分が如何にボクのことを知っているのかを語り出すからだ。
毎度毎度飽きず、こちらとしては聞き飽きた、それこそ耳タコの話を延々と、長々と、だ。
「祝福してるし、応援もするよ」
腕を組んだまま、ボクを引き摺るようにして言う。
合間には「そのチョコ下さい」と、ディスプレイのそれを指す。
笑顔で受け答えする店員のお姉さんは、お一つですか?と確認をしながら、丁寧にラッピングされたそれを小さな紙袋に詰める。
マジで買うんかい、という突っ込みは、周りの喧騒に飲まれて消えた。
お礼を言いながら受け取るMIOちゃんだが「でも」とまだ会話が続く。
「私も作ちゃん大好きだし。何故か、二人は同棲して事後報告だし」
「いやぁ、大学近いって便利だよね」
歩きながら話すが、まだまだ店内を見て回るつもりらしい。
横目で並ぶカラフルなラッピングを見ながら、MIOちゃんの小言を聞く。
ザワつく店内だというのに、その声はやけに鮮明にボクの鼓膜を揺らす。
「どっちも好きって面倒くさいんだよ」
ふわり、綺麗に切り揃えられた前髪が揺れ、困ったように笑う。
元々下がり気味の眉も瞳も、そろって下を向いており、何だか悪いことをした気分になる。
いつもそうだった、MIOちゃんはここぞと言う時に押しの弱い子だ。
「嫌だなぁ」鮮明に聞こえる呟きに「うん」短く頷く。
「でもチョコは渡そうと思うから、もっと嫌だな」ガサガサ、紙袋が音を立て、ボクはやはり「そうだね」と頷いた。
「私、作ちゃんからのチョコが欲しいな」
瞬きを一つ。
「良いよ。好きなの買ってあげる」
肩に引っ掛けていた鞄の中から、愛用の長財布を引っ張り出して薄く笑う。
なかなか動かさない表情筋は固く、その癖頬の肉は柔らかい矛盾だ。
ボクとは違い表情筋が柔らかく、逆に頬の肉が固めのMIOちゃんは朗らかに笑い「えぇ?手作りがよかったなぁ」とお茶らける。
残念ながら、今年はレポート提出などがあるのでそんな暇はないのだ。
***
コロン、手の中の箱が可愛らしい音を立てた。
赤い包装紙に赤いリボンの小箱は、何と言うか、胸を擽り、居心地の悪さを感じる。
現在は二人で暮らしている自宅の自室だと言うのに、そんな座りの悪さを感じては気分が良くないというものだ。
書き殴ったレポートを前に、後頭部で結い上げていた髪を解き、さて、どうしたものか、と小さく息を吐く。
机の隅に追いやられた卓上カレンダーは、二月のページで御丁寧にも十四日には小さなハートマーク。
指先で拭っても滲まないそれは、元々印刷されていたものだった。
回転椅子をぐるぐる回し、背中を預けてはギシギシと軋ませ、最終的には引き出しへと手を掛ける。
机の一番上の引き出しには、買い置きしてある文房具のスペアが大量に仕舞い込まれていた。
ずっと昔から、予備がないのは落ち着かなかった――決して若年性アルツハイマーだとかで買ったことを忘れる訳では無い。
そんな引き出しから引っ張り出したのは、百円ショップで買ったフレークシールだ。
桜と猫をモチーフにしたそれは、お気に入りながらも活躍の場面を逃し続けているものでもある。
持っていた小箱は机の上に滑らせた。
そうして、数種類入っているシールの中から、猫の顔が印刷されたそれを出し、転がっていたボールペンを持ち上げる。
ノック式が主流の中で、使い分けを好むボクはレポートを書く時に関してはキャップ付きのボールペンを愛用していた。
書き味が違うのだ、ブランドも違うが。
書き慣れた文字で『崎代くん』と綴る。
口に出すのには慣れ過ぎた、しかし、その手で書くのには未だ慣れない名前だ。
猫のシールにそう書いてから思い出すのは、視線の先の小箱を買った日のMIOちゃんの捨て台詞のような言葉だった。
『二月十四日は覚悟しといて……って崎代くんに言っておいてね』
増えた紙袋を腕にぶら下げた状態で、崎代くんではないボクを指差して言ったMIOちゃんは、ほんの少し、いや、かなり間抜けに見えた。
特定の店内や売り場がピンクになり、当日も甘ったるい匂いで空気感がピンクになる時期に不釣り合いな喧嘩腰であったと言える。
シールを箱の角に合わせるように貼り付けながら、なら今日訪ねてくるな、と予想が出来た。
学生時代には誕生日に良く見かけるパイ投げを、わざわざチョコレート仕立てにして崎代くんにぶん投げようとしていたことがある。
あわや制服がチョコレートクリーム塗れで、デロデロになるところだったのを思い出し、懐かしいと思えるのは、あくまで傍観者だったからだ。
ボクはあのハート型の大きなチョコレートを思い出し、下手したらその場でMIOちゃんがそれを叩き割る気がしてならないと思う。
終いには、自分で食べそうだと考え、ふはっ、と笑い声が漏れる。
ならば来る前に済ませなくては、とすっかり固まって重くなった腰を持ち上げた。
形状記憶さながらに動くことを拒む体は、酷く軋んだ不快で不安な音を立てる。
ページ数も印字されたレポートをダブルクリップでまとめ、その上に小箱を置いて持ち上げた。
紙は一枚一枚は軽いものの、まとめると存外重い。
手首がポキリと音を立て、お婆ちゃんかよ、と自分の体に呆れてしまう。
そうして軽く一日篭っていた部屋から出て、開けたリビングへ向かった。
素足でぺたぺたと床を叩けば、その音に気が付いた同居人――同棲という言葉をMIOちゃんはサラリと口にしたが、ボク自身はどうにも気恥しいものがある――崎代くんがソファーから身を起こす。
リビングのテレビからは犬の鳴き声。
DVDデッキが動いているところを見ると、それはDVDの映像で、あれだ、今日のわんこ的な番組のやつだ。
ボクは動物は全般好きだが、犬猫どっち?と聞かれれば猫派である。
「おはよう、作ちゃん」
ピッ、と軽い音を立ててテレビの中の映像が止まった。
しかも、おはようと言う時間には微妙なもので、もう少しで昼だよ、と減らず口を叩いてしまう。
それだというのに、崎代くんは楽しそうに笑ってみせる。
「と言うか、寝た?」
「全然。寝落ちなく一睡もせずに仕上げたよ」
「だよねぇ。隈、すごい」
八の字に下げられる眉を見ながら、うーん、と曖昧に頷く。
そういえば鏡を見ていないと思うが、どうせ寝れば消えるものだと思う。
「作ちゃん、肌白いから」だから目立つんだよ、と言われてもインドア派だから、の一言しか返せない。
「それで、作ちゃん……」
あの、と言いにくそうに口を動かした崎代くんに、ボクは首を右へ傾けながらレポートを押し付ける。
上に乗せていた小箱も、差し出された方向へと滑り落ちていく。
「えっ」
「あげる」
「えっ、俺に?」
はぁ?と言わない代わりに眉を歪め、眉間にシワを刻みながら目を細めれば、崎代くんは肩を跳ねさせてから小箱を抱き締める。
代わりにレポートが膝の上に落ちた。
それ、提出物なんだけど、と更に眉を寄せておく。
「ヤバい嬉しい」
ソファーの上で丸まる体。
好きな猫で例えるなら、ごめん寝、というやつだろうか。
喜びを抑えようとしているようにしか見えないそれを見下ろしながら「そっかぁ」と気のない返事を返す。
高校時代にも渡してた気がするんだけど、なんて言うのは良くない気もして、ゴクリ、喉を鳴らす。
それから、手持ち無沙汰に壁に引っ掛けてある時計を見れば、丁度長針も短針も真上を向き、昼を指し示している。
午前中に現れなかったMIOちゃんのことを考えると、昼頃、そうじゃなければ三時のティータイムか。
どちらにせよもう少し、大雑把にそう判断すると後は簡単な行動だった。
「崎代くん」
「なに?……ってちょっ!!」
大切そうに抱き抱えていた小箱を抜き取る。
それから包装紙の繋ぎ目を確認するために引っくり返し、繋ぎ目に貼り付けられたセロハンテープを見て爪を立てた。
カリカリ、控えめな音に崎代くんが素早く動く。
「それ!俺にくれたんじゃないの!?ねぇ!!」
「煩い!耳元で騒がないで」
カリカリ、爪の動きを早め、少し剥がれたセロハンテープを指先で摘む。
「作ちゃん!」
「ちょっと待って!!」
こちとら完徹して調子良くないの、叫ばせないで、という意味も込めて強い拒絶の意思を見せる。
案の定体を一瞬固めた崎代くんを尻目に、我に返るより先にセロハンテープを引き剥がす。
包装紙破かないように外し、リボンと合わせてガラスのローテーブルの上へ放る。
「あぁぁぁぁぁぁ……」徐々に尻すぼみになっていく声を聞く。
煩い、一蹴するのは簡単だ。
小箱をぱかりと開けて、中からチョコレートを取り出す。
甘い香りが鼻先を掠めていく。
そこには四つのチョコレートがお行儀良く鎮座していた。
王冠の形をしたミルクチョコレート、馬をモチーフとしたミルクチョコレート、コインっぽいビターチョコレート、真っ赤なハートのストロベリーチョコレート。
鮮やかな赤いハートが寝不足の目には優しくなく、ぐっと瞼の奥の神経が痛む。
しかし、力を込めた瞬き一つで持ち直し、そのハートを取り出す。
背後では「うぅ……」亡霊のような呻き声を上げる崎代くんがいる。
どんだけショックなんだよ、とは言わないでおく。
振り返ってみれば足元に縋る姿。
うわっ、と声が漏れたのは致し方のないことだと思う。
光を好き通らせる色素の薄い茶髪は、心なしかくすんで見える。
「生きてる?」
「……うぅ、死にそう」
珍しい物言いに、おやまあ、と思いながらもしゃがみ込み、視線を合わせる。
髪よりも少し濃い色の瞳が揺れていた。
水の膜が張られた瞳を見ながら「はい」指先を突き出す。
今度はその水の膜を払い除けるように、瞳を大きく見開く崎代くん。
「あーん」
つまみ上げたチョコレートを崎代くんに向ける。
赤い色が蛍光灯の光に当たり、キラキラと光って見えた。
当の本人は、食べるでもなくポカンと口も目も開いたまま固まっている。
「あーん」催促してみたが、次の瞬間、何故か消えたと思った水の膜が再度出現し、決壊した。
目からはダバーッと効果音が付きそうな勢いで涙が流れ、ボクはぎょっとして身を引く。
えぐ、ひっく、と嗚咽が聞こえた。
突然泣き出したことに「えっ、何、怖い」素直な言葉を吐き出すが、本人は未だに嗚咽を響かせている。
その合間合間に「嬉しい」と聞こえるのは、気のせいではないだろう。
次には「夢じゃない……」なんて言いながら、ボクの手を握る。
「いや、溶けるから早く食べて」
体温は特別高い訳では無いが、だからといって長時間チョコレートを持っていれば溶ける。
指の腹にチョコレートが少し溶けたような、ぬらりとした感触を感じていた。
「食べる!食べます!」
言うが早いか、大きく口を開けた崎代くんはチョコレートを口に含んだ。
歯が爪とぶつかり、カチリと音を立てる。
並びの良い、白い歯だ。
崎代くんの口の中に消えていったチョコレートは、もごもごと動く口によって溶かされていることが分かる。
「いちごだ」若干もたついた声で言う。
目尻を下げて最後まで味わった崎代くんは、えへへ、と笑い声を漏らしながらお礼を口にする。
別段、そんなに大層なもんでもないだろうに、と思うが、きっと崎代くんが言いたいのはそういうことではないのだ。
だからこそボクは素直に「どう致しまして」と頷く。
しかし、頬に寄せられる唇までは予想しておらず、存外柔らかな感触に眉を顰める。
眉間に皺を刻んだまま、横目でその顔を見れば、何故かピンと立った耳と千切れんばかりに振られる尻尾が浮かんでは消えた。
一緒に暮らしているだけあって、当然正式なお付き合いをしているわけで、雰囲気に酔ってなだれ込んでも不自然はない。
ない、が、ピーンポーン、軽快な音はそれを許さないのだ。
「えっ」と声を上げる崎代くんに対し、ボクは大きく息を吐いて、長い瞬きを一つ。
きっと扉を開ければ、鮮やかな赤い髪が揺れ、やはり何となくだが、あの赤くて大きなハートはMIOちゃんの手で割られる気がしている。