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その1

 それは毒のようにあまいけれど、決して手にとってはいけないものだった。知ってしまえば、おろかな程無知でしあわせなあの頃へは戻れない。

 でもその存在を知ってしまえば、手に入れない選択肢なんてどこにも見当たらなかった。


 だから私は落ちる。


 どこまでも深い、決して取り返しのつかない底まで——。




 楽しそうな笑い声が聞こえる。遠くでは兄弟だろうか、はしゃぎながら追いかけっこをしていた。風で木々が揺れるたびに木漏れ日がキラキラと柔らかく降り注いでくる。その眩しさに思わず目を細めた。


 休日の穏やかな一コマを眺めながら、私の心は深く沈んだ。


(私もよくああやって遊んでもらってたな)


 雛鳥みたいに後ろをよくついて回っていた。頭を撫でるその手が、優しい声が本当に大好きで。


 私の大切な——。



「大切なものを失くしたの?」


 ざわり。


 落ちてきた声を聞いた瞬間、今までの空気が変わった気がした。


「どうしたの?もしかしてびっくりした?」

「…………誰」


 いつの間に私の近くに来たのだろう。声をかけられるまで全然きづかなかった。ぼーっとしていた私も私だが……。目の前の少年は私と目をしっかり合わせるとにこりと笑った。


「僕?僕はチェシャって呼ばれてるよ!それで、どうなの?君は何を失くしたのかな」

「はぁ……」


 相変わらず笑顔の少年に怪訝な顔をした。年は同じくらいか少し下か。その声の低さがなければ女の子だって言われても頷けるほど可愛らしい容姿をしていた。

話しかけるにしても何故私なのだろうか。私は誰かとおしゃべりする気分ではなかったし、そうでなくとも初対面から意味の分からない質問をする少年と雑談すらしたくない。しばらくここで本でも読もうと思ったけど、そんな気分ではなくなった。私はおもむろに立ち上がった。


「大事なヒトが自分の許に帰ってくる方法があるとしたら、──どうする?」


 すれ違いざまに低い声でささやかれて足が止まった。その言葉に驚いて振り返ると柔らかそうな髪が風に揺れていた。少年、チェシャは大きな瞳を細めてにやりと笑った。


「へぇ。君が失くしたのは大事なヒトだったんだ」

「なっ!!」

「あぁ、怒らないでよ。茶化すつもりじゃないからさ」


 からかわれたのかと思わず拳を握ったら手をひらひらとさせてみせた。こいつ、本当に何なのだろうか。そして意味不明な奴の言葉に踊らされるなんて私も随分冷静ではない。それでも馬鹿らしいと立ち去らないのは。


「僕が話しかけられるのは、『大切』を失くしてどうしようもなくなった人だけなんだ。そして僕の姿が見えるのも」


 『大切』な何かを失った人だけ。

 さっき君の失くしたものを当てたのは、僕が話しかける人は、大切な『モノ』よりも大切な『ヒト』を失った人が多かったからさ。


 そういうと、チェシャは楽しそうに笑った。


「あんたは幽霊か何かなの?」

「幽霊!!驚いた、それは初めて言われたなぁ。残念だけど幽霊ではないよ。さっき言ったでしょう?僕はチェシャだって。それ以外のなんでもないよ」

「じゃあ」

「はいはい、質問タイムは終わりだよ。話が進まないじゃない。……それが『アリス』だとしてもね」


 私がさらに問いただそうとすると、チェシャはしぃっと人差し指を私に押し当ててきた。


「この薬を飲むと、『不思議の国』へ行ける」

「帰ります」

「ちょっと待って」


 ピンク色の怪しい液体を懐から出してそう言ったチェシャに間髪を容れずに言った私は悪くないと思う。


「せっかちはいけないよ。ここまできたんだから話を聞こう?」

「…………」

「そこで『不思議の国』の住人からのお願いされるんだけど……周りにいる人に教えてもらえるから、とりあえずその人たちについていけばいいよ!失ったものを取り戻す方法を知ってるから!!」

「思った以上に説明が雑だった」


 話を聞いて損した。こいつが胡散くさいという以前に話を信じられない。


「あれ、本当にかえっちゃうの?」

「そんな話を聞かされてはい飲みます、って言うとでも?」

「うん!!」

「……頭おかしいんじゃない?」

「だって君は」


 それ以外方法は無いって知っているもの。


 チェシャの口が三日月に歪んだ。その笑みを、瞳を見て肌が粟立つのを感じた。とっさのことで何も言えず、目の前を歩く彼を見ていることしかできなかった。


「さぁ────僕と遊ぼうよ、アリス」


 その薬はあげるからさ。


 チェシャが薬を私に放る。それをキャッチしたときにはもう彼の姿は見えなかった。




「さて、どうするべきか」


 チェシャからもらった薬を眺めながていたら、景色がオレンジ色に染まっていた。辺りにはもう誰もいない。ばかばかしいとこの薬を捨てられたらどんなによかっただろう。いつもの私だったらきっとそうしてた。それを私がしないのは、もう打つ手はないから。


 この薬を飲んで言うことを聞いたら。本当にあの人に会うことができるのであれば。そうでなくとも──。


 私は意を決して薬を傾けようとした。



「『チェシャ猫』から薬をもらったな?」


 今日はどうしても人から声をかけられる日らしい。今度は何だ。私はヤケクソ気味に答えた。


「チェシャって人からならもらったけれど」

「その薬を飲むな」

「どうして?」

「ロクなもんじゃない」

「でしょうね」


 それは百も承知だ。声のする方へ振り向くと、そこにはまるでどこかの本から切り取ってきたかのような美丈夫がいた。思わず目を見開く。男はこちらへ来ると難しい表情で言った。


「死にたくなければその薬を今すぐ捨てろ」

「これ、毒か何かなの?」

「毒よりもたちが悪いな」

「へぇ」


 毒、ね。チェシャの言う『不思議の国』よりもそちらのほうが信じられる。でも私はその言葉を聞くと一気にチェシャからもらった薬をあおった。


「何しているんだ!?今すぐ吐け!!」

「……ははは、本当に毒だったかもしれないね」


 薬を飲んだ瞬間目が回った。とても立っていられるような状態じゃない。見た目クールそうな彼の必死な形相を見てたらむしろ笑えてきた。


「お姉さんがいないなんて耐えきれない……」


 チェシャに騙されていたってよかった。このまま死んだってかまわない。あの人のいない世界に興味はないのだから。でももし本当の話だとしたら。


(待ってて)


 何があってもあなたを取り戻してみせる。心の中で誓うと、私は意識を手放した。




「ふぅん。やっぱりアリスは薬を飲んだんだ」


 動き出した銀時計の針を見つめて独りでにニヤリと笑う。



「大事なものを取り返すのだから代償がないなんて、思ってないよね?」

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