老いたメス猫のかくれんぼ
「今日も疲れたぞー! うおりゃああ!」
玄関から、ガチャリと鍵の開いた音がしてすぐに、けたたましい声が家中に響き渡った。声の主は、リビングに入ってくるやいなや、わたしのことを抱き上げて、顔をスリスリとこすりつける。ちょ、なんか、醤油臭いんですけど。さては、帰りにチキンの類を食いやがったわね。
「にゃー」
せめてもの抵抗にと、わたしは鳴き声を発したが、彼女はそれが愛情表現だと思っているらしく、なおのこと強くわたしを抱きしめる。
「そうか、そうか、お疲れ様って言っているんだね。やっぱりちゃちゃは優しいなぁ。よしよし」
茶っぽい色をしているからという、あまりにも雑につけられたわたしの名前を呼びながら、彼女はいつかテレビで見たムツゴロウとかいう動物愛好家にも負けないあついスリスリをしてくる。臭い。せめてミントのガムを噛んで欲しい。でもスリスリは気持ちいいからやめないで。そんなことを思うけれど、わたしにはにゃあしか言う事ができないし、人間の彼女と猫のわたしとでは体格に違いがありすぎて、抵抗するにもできない。
「ちなつー、おやつあるけど食べる?」
「食べる! ちょっと待ってて」
ちいちゃんは、母親からの一声に、興味はわたしからおやつへと移ったらしく、わたしを地面に置いて、洗面所へ駆けていった。醤油臭いのは嫌だったけど、スリスリをやめられるのは寂しくて、少しムッとした。わたしもおやつになりたい。
洗面所へ向かったちいちゃんの後を追って、洗濯機の上にひょいと飛び乗る。鼻歌を歌いながら丁寧に手を洗う彼女の後ろ姿は、元気すぎて、ちょっとキモい。でも、こっちまで楽しくなってくるその姿は、それはそれでいいことだ。
昔、ちいちゃんが小学生だった頃、泣きながら抱きつかれたことがあった。ちいちゃんは何も言わないでわたし以外に誰もいないソファの上で泣いていた。あの時の、内側から切り裂いてくるような、どうしようもない寂しい気持ちを考えると、やっぱりわたしは元気なちいちゃんが大好きだ、と思う。
手洗いを終えたちいちゃんは、おやつが待つリビングへと猛スピードで走っていった。おやつがなくなるわけじゃないのに、どれだけせっかちなんだ。少しは「待て」を覚えなさい。ちいちゃんを追ってわたしもリビングへ行きたかったが、それではあまりにもちいちゃんが好きだと思われてしまうので、やめた。彼女はすぐに調子にのるから気をつけないといけない。とは言え、ガタガタと動く洗濯機の上は居心地が悪いので、洗面所をでて、廊下を抜けて、ちいちゃんの部屋のベッドの上に座り込んだ。ここはすこぶる気持ちがいい。落ち着くし、静かだし、何よりちいちゃんの匂いがする。
3年くらい前から、ここの場所で過ごす事が増えた。この場所が好きなのは変わらない。けれど、昔はもっとリビングへ行ったり、母親が料理を作る邪魔をしてやったものなのに、今はそれほどの元気が出ない。洗濯機の上に乗るのが精一杯で、それでさえこうして休息を取らないとやっていけないくらいだ。もう、年齢的にも限界がきているのだろう。
たぶん、たぶんなのだけれど、わたしはあと一週間くらいで死ぬ。
生殖器官を奪われた直後も同じことを考えたけれど、今はそれより、もっと確かな感じがする。なんというのだろう、とにかくなんとなくだけれどわかるんだ。
1ヶ月ほど前から、眠るときに、少しでも気を抜いたらそのまま死んじゃうんじゃないかって感じがするようになって、何となくグッとお腹に力を入れてから眠るようにしていた。そうすると次も起きられる気がして、実際にちゃんと目を覚ます事ができた。でも、最近は、グッと力を入れられる余裕もなく、気がついたら眠ってしまう。どうやら、私にはもう、死の眠りに抵抗できるだけの体力が残っていないらしい。眠いと思ったら眠ってしまうし、死ぬとなったら死ぬのだろう。さらに、最近では時間が経つにつれて、眠る時間も増えてきている、このペースでいけば、たぶん一週間後には私の全てが眠りになっている。そんな気がしてならないのだ。
けれど、わたしには怖いという感情はない。行くところは決まってますみたいな感じで、当たり前のようにそれを受け入れている。まあ、十八年間も生きたんだ。今さら後悔なんてない。ただ、ちいちゃんの今後だけがどうにも気がかかりだ。ちゃんとうまく生きていけるのだろうか。わたし以外に泣きつける相手を見つけられるだろうか。そんな心配もあって、わたしはまだ死ぬわけにはいかない。
やめろ、やめろ。来るんじゃあない。これ以上近づくと、枕にションベン垂れ流すぞ!
「ちゃちゃ、逃げちゃダメ! お風呂に入って綺麗にならないと!」
翌日の夜、わたしは全力で家の中を駆け回っていた。いくら老いていると言えども、ちいちゃんが元気はつらつな高校生だとしても、絶望的に運動神経が悪い彼女にはわたしのことを捕まえられない。
お風呂なんて死んでもごめんだ。さっき毛づくろいをしたばかりだというのに、濡れたら全部無駄になるじゃないか。それにあの、ジャーって音が嫌。なにあれ、放尿音? セクハラ? まじありえないんですけど〜!
追跡が鈍くなったなと思い、後ろを振り向くと、ちいちゃんはハアハア言いながら立ち止まっていた。疲れすぎて、顔がモアイ像みたいになっている。ははん、ようやく諦めたわね。体力の限界がきていたわたしもちいちゃんと一定の距離をとってから床に座り込む。瞬間。
「ママ、今だ!」
「ガッテン承知の助!」
どこか古臭い返事が後ろから聞こえたと思った時には、もう遅い。わたしの体はふわふわと宙へ飛び、あっという間に母親の胸の中におさまった。しくった、奴の存在を忘れていた。
「グッジョブ、ママ」
「当たり前だのクラッカーよ」
本当は暴れてやりたいところだったけれど、残念ながら体力は底を尽きていた。せめてもの抵抗にニャーと鳴いて意思表示をするが、ちいちゃんと母親はそんなの知ったこっちゃないとばかりに、勝ち誇ったような表情で「にゃっはっはっは」と笑った。
放尿音を聞かされて、悪魔の水をぶっかけられたわたしは、無様なまでに毛がボワボワになり、猫としての魅力がガタ落ちになった。この怒りを、自慢の爪で、ちいちゃん一家にぶつけてやりたい。が、穏便でとても優しいわたしは、もしも、ちいちゃんが彼氏を家に連れてきたときは、顔に飛びついて、スッピンにしてやるという復讐を決意するだけで許してあげることにした。
「よし、それじゃあ、ゴシゴシタイムを始めるよ!」
そう言いながらタオルを持ってきたちいちゃんは、濡れたわたしの前に立った。
待ってましたよ、ゴシゴシタイム! わたしはお風呂は嫌いだけど、ゴシゴシタイムだけは好き。これが、引っ掻かないであげた大きな要因でもある。ちゃちゃ、ゴシゴシ、好きー。
目の前で座ったちいちゃんは、タオルでわたしの体を包み込む。
ゴシ
ゴシ
と、ゆっくりとわたしの体を拭いて、毛から水分が消えていく。いやあ、極楽、極楽。この生まれ変わっていくような開放感がたまりませんなー。
「さて、それじゃあ、ちゃちゃ、あそこ行くよ!」
え? あそこ? って、なに、あそこ!? や、待って。まだ、心の準備が。もっと踏ん張ってからじゃないとあそこは、あ、だめー!
「にゃふん」
「無理やりお風呂入れてごめんって。謝るから機嫌なおしてほしいな」
ちいちゃんの枕の上で、寝かせるものか、と、どでんと座り込んだわたしに対して、ちいちゃんが土下座して謝る。
違う、お風呂もだけど、お風呂だけじゃない。あそこだ。あそこの件が一番罪深い。反省しろ、変態! 依然、姿勢は崩さないまま、そっぽを向いて、にゃあ、とできるだけ低い音で鳴く。わたし今、不機嫌です。
どうだ、反省したか、とちいちゃんの方をちらりと見ると、何かがおかしい。あれ、さっきはもっと遠くだったような……。しばらく見てると、やっぱりおかしいことに気がつく。土下座の体制のまま徐々にこちらに近づいている!?
「ごめん、ごめん、めんご、んめご、ごめーん!」
謝る気がまるでない謝罪とともに、ちいちゃんはわたしの体を抱きしめた。そして、そのまま顎の下を触られる。
「にゃん」
気持ちよすぎて、声が漏れた。全てがどうでもよくなるほどの快楽が身体中を襲う。もっと、もっと撫でなさーい!
「よしよーし」
「にゃあん」
昔から何も変わらないこのやり取り。どんなに相手に怒っても、言葉が通じなくても、こうして顎の下を撫でられれば、なんだって許せてしまう。こうやってわたし達は、ちいちゃんがもっと子供だったときからずっと、お互いを許しあってきた。
覚えているかしら。ちいちゃんが6歳くらいの時、わたしが毛づくろいをしているのに、ちいちゃんが「遊ぼう」って言ってしつこく邪魔してきて、思わず引っ掻いちゃった時のこと。あの時、ちいちゃんはわたしのことをこれからずっと怯えてしまうんじゃないかと思ってすごく後悔していたのよね。でも、ちいちゃんはわたしに怯えることなく、こうして顎の下を撫でて「ごめんね」って言ってくれた。懐かしいな。それが初めてのこのやり取りだった。
なぜか、自分でも恥ずかしいくらい感傷的になってしまい、ちいちゃんへの大好きが溢れ出る。そんな気持ちを表そうと、ちいちゃんの側にもっと近づいて、頭を差し出す。わたし今、機嫌がいいです。
「なんだ、ちゃちゃ、甘えんぼさんだなあ」
ちいちゃんはいつも、一言余計だ。
たくさん撫でられるうちにだんだんと眠くなってしまう。もしも、このまま眠ってしまって、起きられなかったらどうしよう。ちいちゃんは泣いてくれるかな。泣かれるのは嫌だなあ。
翌日の朝十時、学校も部活も休みだというちいちゃんとわたしは、家に二人きりだった。母親はパート、父親は仕事があるらしい。こんな日はアレだ。アレしかない。
「猫じゃらしじゃあああい!」
「にゃああ!」
一軒家なのをいいことに、声高に叫ぶちいちゃんは、リビングの隅にある収納ボックスから、長い棒を取り出した。棒の先には釣竿みたいに糸がついていて、餌の代わりに、カラフルな羽がくっつけられている。ゆらゆらと揺れる羽。これから始まるのは、素早いそいつとわたしの一騎打ち。ワクワクが止まらないわ。
「それじゃあ行くよ、ヒョイっと」
ちいちゃんは、棒を巧みに操り、わたしの前に例の羽を落とした。それをわたしが必死に取ろうとすると、羽は上へ左へと移動して行く。なかなかやるわね。でも、負けないわ。
「にゃん! にゃん! にゃ!」
「それそれ〜」
右手、左手と身体中を使って捉えようとするけれど、昔と違って、なかなか捉えることができない。やっぱり老猫には厳しいのか…! 心はこんなにもワクワクしているというのに。
あっという間に体力の限界を迎えたわたしは、目を閉じて、羽を見ないようにして座り込んだ。負けたわ、今回はあいつの勝利ね。
「もう終わりにするの?」
にゃあ、と力を振り絞って返事をする。そうです、もう終わりです。限界なんです。許してください。
「やっぱり、最近元気ないよね……。平均寿命超えているんだから、当たり前なんだけどさ……」
目を開けると、寂しそうな顔をして、今にも泣き出しそうなちいちゃんの顔が見えた。心の温度が一気に上がり、胸が熱くなる。
そんな顔するんじゃないわよ。
「にゃあ!」
ちいちゃんがうつむいている間に、カラフルな羽を捕まえる。ははん、さっきのは油断させる罠よ。ひっかっかたわね!
「あ、ずるいぞ!」
そして、第二ラウンドが開かれた。体力はもう限界。でも、負けない。今ここで遊ぶことは、言葉の通じないわたしにもできる、ちいちゃんのためにしてあげられることなんだから。
朝、目が覚めて、いつものようにちいちゃんを起こしに行こうと立ち上がったら、体が尋常じゃなく重たいことに気がついた。寝ている間に溶かした鉄を体の中に入れられたんじゃないかと思うくらい重たい。そして、とにかく眠い。もう一度地面に座り込んだら最後、そのまま眠りに落ちてしまいそう。
わたしこれから、死ぬんだ。
体を通して伝わるこの感覚はなんとなくというものではなく、確信的なものだった。今までの感じとは違う。踏ん張るとか踏ん張らないとかじゃなくて、この眠気はあまりに暴力的すぎる。
隣で眠るちいちゃんはそんなこととはつゆ知らず、「ピーマン炒め」とかなんとかわけのわからない寝言を言って、幸せそうに眠っている。
本当は今すぐちいちゃんに起きてもらって、最後にもう一度だけ顎の下を撫でてもらいたい。でも、目の前で死んでしまうなんて、残酷すぎるよね。
わたしは、眠気という名の死と戦いながらもどこか身を隠せるところを探した。しかし、ちいちゃんの部屋はドアが閉められていて、外に出ることはできそうにない。仕方なく部屋の中を探すと、まず最初に机の下が目に入った。ここはダメだ、外から部屋に入ったときにすぐに見つかってしまう。次に、カーテンの中。ここもダメ、そこに行けるだけの体力がない。それじゃあ、ベッドの下。うん、ベッドの下なら、ちゃんとしゃがまないと見つからないかもしれない。ここだ、ここにしよう。
身を隠す場所を決めたわたしは、体重が十倍になったとも感じられる体を引きずってベッドの下の奥の奥の方へ入っていった。とりあえず、一安心。これならいつ死んでも大丈夫ね。でも、もうちょっとちいちゃんとの思い出に浸っていたい。
捨てられたわたしに同情ではなくて、対等に接してくれたちいちゃん。どんな時でも誰よりも構ってくれたちいちゃん。泣き虫で優しいちいちゃん。
て、どうしてだろう。もっと具体的な思い出があるはずなのに、ちいちゃん本人のことばっかり思い浮かんでしまう。
「ちゃちゃ?」
耳が痛いほどの静けさの中で、真上から彼女の声が聞こえた。いつも起こしても起きてくれないちいちゃんが自分で起きるなんて。今すぐ、にゃあ、と鳴いて居場所を教えたい。でも、それじゃあ、ちいちゃんを悲しませてしまう。会いたい、でも会えない。
「もー、こんなところにいた」
え? 隙間から見える、ちいちゃんの顔に驚いて一瞬、眠気が吹っ飛んだ。どうして?
「かくれんぼ、下手すぎだよ。わたしの部屋の隠れるところなんてここしかないんだから」
そう言って、にゃはは、と笑うちいちゃん。全く、どこまでも憎たらしくて、あったかいんだろう。
「ねえ……ちゃちゃ、死んじゃうの……?」
ベッドから降りて、床に転がり、弱ったわたし見たちいちゃんは、先ほどの明るい表情とは一変して、猫じゃらしの時に見せた、あの、寂しそうな顔を浮かべた。
せっかく見つけてくれたのに、こんなにも、嬉しい気持ちでいっぱいなのに、ちいちゃんを悲しませることしかできないわたしが憎い。
「昔、ママにね、猫は死ぬ前に隠れるって聞いたことがあったの。ちゃちゃもそうなの?」
「……」
「わたしが昨日、無理して遊んじゃったからだよね……。ごめん、ごめんね、ちゃちゃ。こんな私、嫌いだよね」
違う。謝らないでよ。
「気づけば、私はいつもちゃちゃから元気をもらってばかりでちゃちゃには何もしてあげられなかった。私の寂しさを埋めてくれる都合のいいペットにしてほんと最低だ。ごめん、本当にごめんね……」
そんなことない! わたしはずっと幸せだったわよ! 大嫌いなお風呂から逃げてる時、ゴシゴシタイムで拭いてもらっている時、あそこを突然拭かれた時、猫じゃらしでバカみたいに遊んでいた時。ずっとずっと幸せだった。それでね、さっき一人になって気がついたんだけれど、わたしは、ちいちゃんからもらったどんな幸せよりも、ちいちゃんのことが大好きなんだよ。だから、何もしてあげられないとか、ごめんねとか言わないで。ちいちゃんと一緒にいられて、わたしはすごく嬉しかった。
こんな時に言葉が通じないことがすごく悔しくなる。でも、わたしは諦めない。わたしたちにはそれ以上のものがある。
最後の力を振り絞って、涙を流しているちいちゃんの元へ歩み寄る。お願いだから、わたしを撫でて。例えそれで死んでしまっても、ありがとう、だけは伝えたい。
ところが、思うように足が動かなくて、転んでしまう。まだ、まだ頑張ってわたし。
「ちゃちゃ? 大丈夫?」
そう言ってちいちゃんは寝転がったままベッドの下に入ってきて、わたしの体を抱きしめた。電気もついていない真っ暗な中で、ちいちゃんの涙が毛を濡らす。わたしはそのまま頭をちいちゃんへ投げ出して、いつもと同じ撫でて欲しい時の格好をした。
「撫でて欲しいの?」
「にゃあ」
「わかった、ほんと甘えんぼさん」
ちいちゃんはわたしの顎の下を撫でた。いつもの憎まれ口も今だけは愛おしく思える。やっぱりこの感触は最高だ。
「ありがとう、ずっと大好きだよ」
わたしもそう、そして、好きなまま死ぬんだからいつまでだって好きなままよ。
ああ、だんだんと眠くなってきた。きっとわたしが死んでしまうことで、たくさん悲しませちゃうのよね。だから、せめて、あの世の神様にお願いしてくるわ。
どれだけ涙を流しても、ちいちゃんが幸せでありますように。
「おやすみ、ちゃちゃ」
「にゃあ…………」
ーおわりー