絞殺ジェットコースター
ガチャン、と安全バーが下りて、体を固定する。ついに動き出したマシンは、カタカタ……と音を立てながらゆっくり焦らすようにレールを上っていく。
ジェットコースターなんていつ以来だろうか。こんな遊園地、子供の遊び場と思っていたが、男は童心に返って楽しんでいた。
胸を高鳴らせながら空を見上げていると、ふと、首にひやりとしたものが当たる。
何だよ、と男は笑いながら、隣に座っている恋人を見た。てっきり彼女の悪ふざけだと思ったのだが――その彼女の手は両方とも、しっかりと安全バーを握っていて、恐怖からかぎゅっと目を閉じている。
男は冷水を浴びせられたような寒気を覚えた。
では。
では、今この首に触れている手は――何だ?
コースターはカタカタと頂点まで上る。逃げ出せない。体が動かず、ただその冷たい手は、くっと男の喉仏のあたりを掴む。
微かに爪が刺さるような感触があったが、それほどの痛みではない。だが。
ガクン、とジェットコースターが動きを止め――次の瞬間に急降下を始める。
男は恐怖した。指が喉に食い込み、息が潰れる。意識を失う瞬間、紫の光が見えた――気がした。
■■■
「まあ、水落くん、このジェットコースターに乗るの?」
「乗った方がいい……ような気がするんです」
俺はそう言ってため息をついた。弓岡さんは俺の顔を見て、ふうん、と目を細める。
「絶叫系が苦手なのに、彼女に誘われて嫌々乗る時のような顔ね?」
「もともと、絶叫系は大丈夫な方ですけどね」
富士山の見える絶叫マシーンのメッカに行ったこともある。そんな俺がこのジェットコースターに乗りたくないのは、ここから、ただならぬ気配を感じるからだ。振り子を見る必要もない。
それでも俺がこれに乗らないといけないと思うのは、いわば、勘だ。
「勘? 霊感かしら」
「どちらも似たようなものですよ。無意識のうちに見聞きしたものに違和感を覚えたら、自分でもわからないけど、奥底では理解しているものです」
人間は、五感から感じる情報を取捨選択し、重要なものだけを処理する。しかし、捨てたはずの情報も一度は認識しているのだ。
その引っ掛かるような感覚を集め、繋ぎあわせたものが、いわば第六感と言われるものだ。
俺は直感を信じている。ダウザーとして――鍛えた感覚がそう告げる。
「そう……じゃあ、私はそこで座って待ってます。頑張って」
ひらひらと右手を振る弓岡さんに見送られ、俺はジェットコースターに乗ることになった。
ほどなく運転を再開したジェットコースターの列に、俺は一人で並ぶ。
ジェットコースターの周りは笑顔で溢れている。……人が一人運ばれていったのに、すぐに日常風景に戻ったことは、むしろ不気味にさえ思えた。
あっという間に順番が回ってきて、俺はコースターの一番後ろの座席に案内された。安全バーの固定音が、檻が下ちた時に聞こえた。
「それでは、いってらっしゃ~い!」
係員の陽気な声を合図に、コースターはカタカタとレールを上り始める。
俺はダウジングをする時のように意識を集中させた。もちろん、こんな状況で水晶の振り子は使えないが、もともと水晶はダウジングの補助具だ。
(――大事なのは、感覚を研ぎ澄ませること)
だから俺は、首の裏を掠めたチリッという痛みに、咄嗟に反応し――。
「くっ!」
喉元に自分の手首をあてがい、間一髪で首を絞められるのを防いだ。
「なっ……?」
俺の隣には誰も座っていない。そして俺の席は、一番後ろだ。
ならば、この手は。
冷たい手は、ほっそりとしている割に、俺の手をぎりぎりと強く握ってくる。そうする間にも、コースターはどんどん高く上り、ついに一番上にたどり着く。
(落ちる……!)
このまま一気に重量加速度をかかれば、俺の手首を挟み込んだ状態とはいえ、手は確実に俺の喉を突くなり絞めるなりしてしまう。そうなる前に、どうにかしなければ。
俺はもう片方の手も添え、俺の首を絞める謎の手を引き剥がしにかかる。
「離れ……ろ……」
渾身の力で押し合い、手が俺の喉から数センチ離れた。白い手は何もない空間から、一本生えている。
手を捕らえた、と思った次の瞬間、胃がひっくりかえる浮遊感が襲う。
「――っ!」
ジェットコースターが急降下を始めた。見た目以上の勢いに、俺は手を放してしまう。不味い、と思ったが、宙に浮かぶ白い手は、そこでかき消える。
消える瞬間、俺は確かに見た。
――手の薬指に嵌まる、紫に輝く指輪を。
■■■
その後は上下左右に揺られ、よく覚えていない。ただ、コースターを下りた時、全身が嫌な汗でべっとりしていて、掴まれていた方の手首を確かめると、人の指の形の痣がくっきりと残っていた。
いや、何だ、下手したら死ぬとこだった……。
憔悴して戻ってきた俺に、弓岡さんは少し休みましょうかと言った。
「喉が乾いたわね。何か飲み物買ってきましょうか」
「あ、じゃあ、俺行きます」
近くにあった自販機で、水とお茶のペットボトルを一つずつ買った。
木陰のベンチで待っていた弓岡さんにどっちにするか尋ね、お茶と言われたので、蓋を開けて渡した。
冷たいお茶を一口飲み、弓岡さんは口元を緩める。
「優しくて気配りができるのね。由佳ちゃんの彼氏さんがいい人で良かったわ」
「ぐふ」
水を一気飲みしていた俺はむせた。
「由佳とは付き合ってませんよ」
「そうなの? ……まあ、言われてみたら、そんな感じねえ。由佳ちゃんって、いつまでも純真無垢って感じだから、変な男に引っかかる前に、水落くんが守ってくれたらいいのに」
「はあ……」
何と返したものか反応に困る。
とりあえず本題に戻ることにした。
「指輪のことなんですが……確認させてください」
「ええ」
弓岡さんは、飲みかけのペットボトルをベンチに置いて、乗せた蓋を指でくるくると回して蓋をする。
「……指輪をなくしたのは、このジェットコースターに乗っている間だと言いましたよね」
「そうね」
「それは、嘘ではない……けど、正確には、違うものをなくしたんじゃないですか?」
弓岡さんは寂しげに微笑んだ。風で揺れた木の葉が、ゆらゆらと陰影を作る。
「凄いわね。ダウジングってそんなことも分かるの?」
「人より感覚が鋭いつもりではいますからね。じゃあ……」
「ええ、考えている通りよ」
ざわざわと音を立てるほどの強い風が、弓岡さんのサマーセーターの袖を揺らす。
それは旗のようにはためいて流れ、その中身がないことを見せつける。
「あなたが、ここでなくした、俺に本当に見つけてほしかったものは――自分の左手ですね」
弓岡さんは、静かに頷いた。