33.ピンチはチャンスの代名詞 <清美>
『ピンチはチャンスの代名詞』とは、試合中誰かが言った名台詞だ。
何事もポジティブに捉えればなんとか乗り切れる、そう自分たちを叱咤激励して実際最悪の状況を覆したゲームは幾つも経験している。
今、俺は『ピンチ』の最中にいる。
しかし、決してこれは『チャンス』には成り得ない。
布団に包まり微かな寝息を立てる、小さな塊を見下ろして、俺ゴクリと喉を鳴らした。その塊の横にピタリと付けられたもう一組の布団は空席だった。
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ねーちゃんは目をシパシパさせて布団に潜り込むと「ごめんね……お先におやすみなさい……」と小さな声で囁いた。
「おやすみ」
と出来るだけ優しい声で応答して、俺は和室の照明を一番暗い段階に抑えた。それからテレビにイヤホンを差して、麦茶を片手に深夜番組をチェックすることにした。
全国区で活躍している北海道を拠点に活動する演劇集団が、無名の頃から続けている地方局のバラエティ番組がちょうどオンエアされていた。声を殺しつつ笑っていると、襖の向こうがいやに静かな気がして立ち上がった。
襖をゆっくりと開けて、ベッドを見る。
かーちゃんは熟睡していた。
うそーん!
かーちゃんの腰をがっちり抱え込んだとーちゃんの顔の上に、ばっちりその肘が乗っている。とーちゃんは抱き枕を離さなかったが、そのかわり、抱き枕にしている女性の下敷きにされ、うなされていた。
そこまでして離したくないのか……!
とーちゃんの執念を感じる。この情けない姿を見れば、受付嬢や居酒屋のバイトのおねーさんの潤んだ瞳も、サッパリと乾いてしまう事だろう。
「しっかし、どーすんだ……」
ピンチである。
俺は襖をそっと閉めて、和室に戻った。
もうすぐ深夜0時。そろそろ俺の意識も限界だった。だからフカフカのベッドで眠ろうと思ったのに。
俺はゴクリと唾を飲み込んだ。
開いている場所は、ねーちゃんの隣の一組の布団。
しかも、ぴったりと彼女の籠った布団にくっ付いている。
「無理無理無理……」
こんなすぐ隣に横になって、眠れるハズがない。
完徹するか……?
と悩んでいて、解決策に気が付いた。
「ドーヨーし過ぎだよ……俺」
布団は引っ張って離せば良いんだ。何も、そのままねーちゃんの横に寄り添って眠る必要はない。
ズルズルズル……と布団を、あった場所からなるべく遠くへ引っ張っていく。
ふーっこれで一見落着だ。
「……」
俺はねーちゃんから目いっぱい遠ざけた布団の上に、胡坐を掻いて座った。腕を組んで、布団に包まれた小さな塊が、静かに上下するのを見つめる。
惜しくなんか……無い。
勿体無くなんて……無い……ぞ
「……」
俺はのそりと立ち上がり、一歩踏み出して止まった。
「いやいやいや……何してんの」
『何してんのって……いや、ちょっと寝顔をだね……見てみたいなーと思っただけだよ?だってこんな状況もう無いだろうしねーちゃんが東京に行っちゃったら顔も見れない日が続くんだから、じっくり目に焼き付けるくらいは……許されるんじゃない?』
「いや、まずいって。覗き込んだ瞬間に目を覚ましたら、気まずいでしょ?」
俺は踏み出した足を戻した。
『熟睡してんじゃん!顔見るくらい大丈夫だって』
心の中の悪魔に唆されて、俺はそろりそろりともう一組の布団へと踏み出した。
「ダメだ。だって、見るだけって……我慢できるのか……?」
囁いた静止の言葉は、虚しく空を切った。
すでに俺の足は、ねーちゃんの布団のすぐ脇に辿り着いていたからだ。
膝を折ってその場にしゃがみ込み、壁側を向いて丸くなる小さな肩の向こうを覗き込む。ふくふくの頬っぺたが見えた。相変わらずつきたてのダイフクのように柔らかそーだ。
もっとよく、顔が見たい。
最近は以前のように、不躾にねーちゃんの顔をじぃっと見ることができない。もうすぐお別れなのに―――!
もっとよく顔をじっくり見たい。何度でも思い出せるように。
白い柔らかな頬っぺたを見た途端、制止していた人格は何処かへ消えた。
俺は大胆に回り込もうとしたけれど、ねーちゃんと壁が近すぎて体が収まらない。自然、ねーちゃんの体を四つん這いで跨ぐ形になる。ねーちゃんの体に重さを感じさせないように、腕に力を入れたまま顔を覗き込む。
わぁ……
久しぶりにねーちゃんの顔を間近で見ることに成功した。
心臓がぎゅうっとなる。
切なくて、嬉しくて、大事すぎて。
ああ、おかしくなりそうだ。
小さくて苺のように朱い唇、柔らかそうな頬、しっかりとした眉の下に伏せられた睫毛はびっちりと隙間なくその黒曜石の瞳を大切に覆い隠している。
額を隠す前髪を中指でそっと避けると、シミひとつない透き通るような額が現れた。
衝動的にそこへ唇を落とす。
ちゅっと、小さな音を立てて唇が離れたとき。
初めて、我に返った。
「ん……」
もぞもぞと、触れられた当人が囲んだ腕の中で身じろぎしたのを合図に、俺はものすごいスピードで、音も無く自分の布団に飛びずさった。
まるで下着泥棒の現場を押さえられたような、凄まじい後ろめたさから逃げ惑うように心臓がドッドッドッと早鐘を打つ。
布団を頭から被り、俺は気配を必死に殺して目を瞑った。
俺は阿呆か!
何、本能に体を乗っ取られているんだ!
そう心の中で、自分に対して悪態を吐く。
そうしてしばらく自分の心臓の音に耳を傾けていると、やがてうっすらと睡魔が忍び寄ってきた。俺は最後の力を振り絞って、部屋の明かりをリモコンで消した。
自分を叱咤する理性の声も遠ざかり、薄れゆく意識の中で俺の本能が呟くのが聞こえた気がした。
不謹慎な行いをしてしまった―――でも。
久しぶりに触れた肌の感触は……留置場に一晩泊まっても後悔しないくらい、気持ちがよかったなぁ……と。




