22.顔を貸しました <清美>
「じゃー、この辺であがろー」
「「「あっしたぁ」」」
昼練が終わった。
トン、と足元にボールが転がって来たので指で掴んで拾う。掌を使わずに片手の指の力だけでバスケットボールを難なく掴めるようになった事に気付いたとき、自分は成長したんだな、と実感する。手が大きくなって握力がついた証拠だ。
ふと顔を上げると、鴻池がボールを入れる大きなカゴをガラガラと押していた。残ったボールを集めるためだろう。
「鴻池」
俺が彼女の注意を引くと、意図を理解した鴻池が籠から少し距離を取った。セットシュートの姿勢からボールを放ると、ザシュッとボールが籠の中に沈んだ。
鴻池が「ないっしゅー」と言って、親指を立てた。それに応えて手を上げてから更衣室に戻って手早く着替えた。
地崎と一緒に体育館を出ると、渡り廊下の所で壁に凭れている長身の野性的な容貌の先輩に呼びとめられた。高坂先輩だ。彼はニコリと笑って言った。
「清美、顔貸してくんない?」
** ** **
地崎に先に行って貰うと、高坂先輩の背中に着いて体育館の前室に戻った。
午後一に体育の授業が入っていないようで、そこはガランとしている。
「あの、何ですか?もう授業始まるので……」
はっきり言って、今は高坂先輩と一緒に居たく無かった。
それは以前とは違う理由で。
明らかに高坂先輩はねーちゃんに興味を持って近づいている。それに苛立ってしまう自分を、俺は持て余している。それにねーちゃんの地学部の友人王子よりずっと、危険な人物であると―――俺の本能が警告を発している。
それは俺の心の問題なのかもしれない。
本能で……人間として雄として、この人には敵わない―――そう俺は感じてしまうからなのだろうか?
尻尾を巻いて逃げ出したい衝動を堪えながら、俺はその場所に足を踏ん張って立っていた。
やがて背中を向けていた高坂先輩がクルリとこちらを振り向いた。そんな仕草も嫌味なくらいカッコよくて、俺は内心舌打ちをした。
「さっき練習見ていたんだけどさ、お前雛子ちゃんと随分、仲良くなったよな」
「は?」
「付き合ってんの?」
高坂先輩は俺を嘲るように、ニヤリと嗤って言った。
「何、言っているんですか。そんな訳ないでしょう」
「さり気なくフォローしたり無言で意思疎通したり、さ。いい雰囲気だったじゃん」
「……鴻池はただの友達ですよ。何が言いたいんですか」
遠回しに嬲るような物言いに、俺はイライラと返答した。
「いや……本命には相手の気持ちも考えずに自分の気持ち押し付けるばっかりなのに、女友達には随分優しいんだなって、思ってね」
「本命って……」
俺は口に出し掛けて言葉を失った。察しの良い先輩には気付かれているような気はしたが、ズバリと確信に近づくような指摘を受けるとどう対応して良いか迷ってしまう。
「晶ちゃんと付き合ってるんでしょ?……あれ?振られたんだっけ?だから、お友達の鴻池に乗り換えようか迷っているところなのか?」
「っ……!」
意識する前に体が動いていた。
俺は、高坂先輩の胸倉に掴みかかっていた。息がかかるほど近い距離に先輩の顔があって、その瞳を痛いほど睨み付ける。
しかし俺の激しい怒りを余所に涼しい表情で、長身の男は俺を見下ろしていた。この学校で俺を見下ろせる人間は10人もいない。
「お前な。追い詰められるとすぐカッとなるから周りが見えなくなるんだって……いつも言っているだろ?」
急にそれまでの嫌味たっぷりな物言いを緩めて、彼は一瞬とても静かな『先輩』の顔になった。だから俺は思わず怯んでしまった。そのタイミングを見計らうように、高坂先輩は俺の両手首を掴んで、引き剥がした。
「図星さされたからって短絡的に暴力に訴えるってか?だからお前は子供だっつーんだよ。本能でしか物を考えられない。お前ね、お前が晶ちゃんをほったらかしにしていた中学の頃ずっと彼女がお前の事大事に見守って来た意味、本当に分かってる?相手の事を大事に思う気持ちの上に胡坐かいてヌクヌクしていたくせに、自分は自分の気持ちだけ大事にして我儘放題。だからお前は晶ちゃんにとって『弟』以上になれねーんだよ」
捕まれた両手首に対抗していた力が、ふっと抜けてしまう。
言われた事が……脳の上をつるりと滑って行くようで、理解できない。
「『女友達』に余裕で優しくできんのは―――『おねーちゃん』に甘えて発散できるからか?受験生の彼女の足引っ張って被害者面していて、男として恥ずかしくないのかね?」
「俺は、そんなつもりは……っ」
「へー……『そんなつもり』が無ければ、相手を傷つけても許されるって?まあ、晶ちゃんは許すだろうな……お前がどんなヒドイ事をしようと、さ。だって、可愛い、守るべき『弟』だもんね。だからさ……」
高坂先輩は力を失った俺の両手首から手を離し、その野性的な眉間から鋭い眼光で俺を睨み付けた。そして不思議と……優しく思える仕草で俺の学生服の胸倉を掴んだ。
その時役割が逆転した。
高坂先輩は俺の瞳から視線を外さない。その射るような視線からどうしても逃れたいのに、魅入られたように目を逸らせない。
「お前は黙って手を引け。俺が晶ちゃんをフォローしてやる。晶ちゃんを甘やかして、大事に大事に大切にして、必ず幸せにする」
そう言うと高坂先輩はふっと表情を緩めて、満面の笑顔になった。
それは、男の俺でもドキリとするような魅力的な笑みで。
高坂先輩は俺の胸倉を掴んでいた手を離し、穏やかな笑みを崩さないまま、俺の制服の皺をサッと直した。
―――その仕草は、まるで優しい兄のようで。
目まぐるしく変わる高坂先輩の態度の変化に俺の頭はついて行けず、混乱したままフリーズしていた。
高坂先輩は、ポン、と大きい掌で俺の両肩を叩いた。
「じゃ、そういう事だから。あんまり晶ちゃんを苛めないで、優しくしてやって?大事な『おねーちゃん』が頑張っているんだから、邪魔しないで大人しく応援してやってよ、可愛い『弟』としてさ」
茫然と立ち竦む俺にニッコリと笑い掛け、高坂先輩はそのまま真直ぐ立ち去った。
俺は何も言えずに、すれ違って行く肩を目の端で見ているしかなかった。




