21.サンタにお願い <高坂>
晶ちゃんがだんだんと落ち着きを取り戻して来るのが分かった。
話を逸らす事で囲い続けた、俺の腕で作った籠の中で、震えていた小さい存在の緊張がゆっくりと解けて行く。
十分に間を取って、俺はその縛めを緩めた。それに気付いた晶ちゃんが、すぐに体を引く。
温もりの余韻を味わいながら、俺はそっと、未だその温もりに対して喉の渇きを訴える両手を意思の力で収めた。
同時に彼女の素早さにざっくりと、心臓を抉られる。
どうしても手に入らないと思っている宝物に触れる事の出来た歓びと、受け入れられず離さなければならない寂しさに、胸の深い所が震えてしまう。
しかし突き放された痛みから、俺を救い上げてくれたのも、また彼女だった。
「高坂君、ありがとう」
彼女は、ふんわりと笑った。
俺は目を瞠って、食い入るようにその柔らかな表情に見入った。そこには甘いお菓子を食べた時だけ見られる、レアな微笑みを湛えていた。
「心配してくれて」
一言で胸を突かれる。
彼女は俺の意地悪な物言いに潜む気持ちを、良心的に汲み取ってくれたのだ。確かに、そういった配慮は無かったとは言えない。
けれど俺の行動の構成成分の少なくとも80%は、お世辞にもそんな善い物とは言えなかった。彼女の体に触れる事ができたという愉悦と、かつてない程入れ込んでいる俺に対して素っ気ない彼女への嗜虐心。それを、彼女は綺麗に無視して20%の親切心だけを感受したのだ。
そんな風に返されると、悪い悪戯をしようと企む下心も萎んでしまう。俺は大仰に「はーっ」と溜息を吐いて、お得意の甘ったるい優しい笑顔で偽装した。
「落ち着いた?」
「うん。ありがとう……ごめんね。帰る時間、遅くなって。勉強時間減っちゃうね」
「別に大丈夫。言っただろ?俺、浪人予定だから、ゆっくり基礎固めしている所なんだ」
「優しいこと、言うなあ」
晶ちゃんが柔らかい低い声で感心するように言い、微かに目を細めた。
「そう?」
彼女の誤解を解く気は、全く起きなかった。貰えるだけ全部、たくさんの好意を受け取りたい。
もう少し、一緒に居たい。それにできれば……彼女の本心を共有したいと思った。
誤解ついでに、少し我儘を聞いて貰おうか。
俺達が座っているベンチは、大通公園の東端の区画のシンボリックなテレビ塔の足元だ。もうひとつ西の区画は『ミュンヘン・クリスマス市』のメイン会場となっていて、毎年クリスマスにちなんだ土産物屋や姉妹都市ミュンヘンにあやかったドイツ料理の屋台が並び、この時期賑わいを集めていた。
「じゃあさ―――晶ちゃん、ちょっと付き合ってくれない?クリスマス市で、蓉子さんにお土産買って行きたいんだけど、女の子の目線で意見してくれると助かるな。それが俺に対するお礼って言うことで、チャラにしない?」
晶ちゃんは目を僅かに丸くした。
「高坂君って……」
「ん?」
「すごくスマートだね。女の子が騒ぐ理由を今理解したわ」
「お褒めに預かり、光栄です」
俺がおどけて言うと、晶ちゃんの表情が少し緩んだ気がした。
横断歩道を渡ると、祭りのような心が浮き立つような気配に迎えられた。通常なら屋内や地下街に潜って冷気を避けている人々が寒空の下、プレッツェルや歯ごたえのあるソーセージを齧り、ホットワインで温まりながら初冬の厳しい試練に耐えている。土産物屋の店先は見事にクリスマス色に彩られ、日常必要とされない可愛い小物達で埋め尽くされる。物色する人々の顔は、どれも楽しそうだった。
ガラスで作られた小さなサンタやトナカイが並ぶ小樽ガラスの店先で、雪だるまとサンタの手のひらサイズの置物を購入した。おまけにガラスで作られた小さなプレゼントの箱と、『サンタが忘れた帽子』という設定の小さな赤い帽子も付け足す。
「ありがとう、蓉子さんも喜ぶよ。晶ちゃんが選んだって言ったら特に嬉しがると思う」
「高坂君が買ったお土産ならきっと、蓉子さんは何でも嬉しいんじゃないかな」
「うん。でも蓉子さん、晶ちゃんの事本気で気に入っていたから」
これは本当の事だ。
蓉子さんはあまり、上手に裏表を隠せる性格では無い。礼儀正しくて、謙虚な晶ちゃんを見る蓉子さんの目は優しかった。
「そう言って貰えると……嬉しいけど」
「また、ウチに来てくれない?あれから、ずっと『また連れて来い』ってしつこくて。よっぽど楽しかったらしい」
「ええ?そっか……そうだね。じゃあ受験が終わったら、挨拶に伺わせて貰おうかな?トンカツ、とっても美味しかったから……」
「うん、きっとね。蓉子さん喜ぶよ。あ!晶ちゃん、あれ見て」
俺は、北側のビルを指さした。
晶ちゃんの視線が俺の指を辿って、ビルを見上げる。
「あ……ツリー?」
「スゴイね、ビルの人たちが協力してくれるらしいよ、毎年」
ビルの壁面にツリーが浮かび上がっていた。そのビルは毎年、窓の明かりを調節して三角形を重ねたツリーがそこにあるかのように、演出すると聞いていた。そしてクリスマス市に来る人の目を楽しませているのだそうだ。
現に今こうして、俺と晶ちゃんの目も存分に楽しませてくれている。
「ほんと、スゴイね」
「良い物見たって、お得な気になるでしょ?」
「うん」
「ところでさ」
俺は、ひょいと話題を変えた。
「何で晶ちゃんは……清美と姉弟に戻ろうって、思ったの?」
晶ちゃんがは、虚をつかれて口を噤んだ。
「『何で』って……」
「さっきの様子見たら、晶ちゃんの気持ちは戻れなさそうに思えたから……余計なお世話かもしれないけど『友達』の俺に話してみない?迷いを失くしたいなら、人に話す事で心の整理を付ける事も必要なプロセスのひとつだよ」
「……」
「俺、晶ちゃんに蓉子さんへの気持ち、聞いて貰っただけで、ちょっと気持ちがスッキリした。晶ちゃんも、話してみない?ヘビーな話打ち明けた俺なら、信用できるでしょ?俺も俺の秘密を誰にも言われたく無いし……だから、晶ちゃんの気持ちも他言しない」
膝を曲げて顔を覗き込むと、晶ちゃんの黒い瞳が揺れた。
人間という生き物は、朝は理性に、夜は本能に支配されやすいという。だから夜中に書いた手紙は、朝見直すべきなのだ。朝改めて見直すと、恥ずかし過ぎる文章に悶絶する事必至となる。
彼女の感情と良心につけ入った自覚はある。
晶ちゃんは、静かに口を割った。
「……この間知ったんだけど……」
と前置きして、ポツリポツリと言葉を繋いだ。
「清美がウチの高校受験したの、私と一緒の高校に通いたかったからだって、聞いて……」
「うーん、清美なら、有りそうだね」
俺は腕を組んで、うんうんと頷いた。
あのドシスコンの思考から考えて、普通の流れだと思われるな。
当たり前のように頷く俺を、怪訝な表情で見上げて、晶ちゃんは暗い表情で俯いた。
「私も深く考えて無くて。清美がうちの高校を選んだ理由の中に、私が通っているからっていうのも、何割かあるだろうな……という事は感じていたのだけど……その時はただの、行き過ぎたシスコンだと思っていたから深く考えて無かったの。少し嬉しいと思うくらいで」
「そうだね、アイツどうしようもない『どシスコン』だからね」
俺が少し蔑むように言うと、晶ちゃんは溜息を吐いた。
「……だけど、まさかバスケの強豪校のスカウト蹴ってまで、だなんて思ってもみなくて。あんなにバスケする時生き生きしているのに、私の所為で諦めてしまったなんて聞いて、このままでいいのかって、怖くなったの」
そっか。
あの噂は本当だったんだ。
清美が、私学のスカウトを蹴ったらしい、という話は、本人から真偽のほどが語られ無いまま、何となく中学のバスケ部員の間で広まっていた。
「以前、その……人に言われたの。清美の人生を私が歪めてしまうって。だから離れた方がいいって。私、それは違うって思った。清美は自分の意思を持っているし、自分で自分の人生を選択している。だから私がそれをどうこう言うのは間違っているし、私が傍にいるかどうかで清美が惑わされるって言うのは、何より清美に対して失礼だと思った。清美はちゃんと、私の影響で判断を歪めたりしない、むしろ実際の年齢よりもしっかりした人間だって……そう思って、その人の忠告を跳ね除けたの」
「それは、そうだよ」
晶ちゃんの考えは正しいと思う。晶ちゃんは、当たり前の事を言っているだけだ。
清美の選択に、晶ちゃんの責任は無い。
「でも、清美が……私の道外受験に反対して……私が、付き合っているのに離れて行こうとする事が理解できないって、離れたら付き合う事にならないって言われて……その時、自分は私と一緒にいる為にスカウトを蹴ったんだって、清美から告白されたの。それを聞いて私……」
晶ちゃんは、辛そうに言葉を切った。
「忠告した人の言っていた事が正しいんじゃないかって、怖くなったの。清美に縋られると、道外受験を止めてもいいかもって思う自分も居て……でも、そうやって、自分を押し殺してお互い一時も離れないように依存してしまったら……きっと、私達が大事にしている今の関係もこの先歪んで……後悔する結果になると思う。」
晶ちゃんは慎重に言葉を選んでいた。きっと、自分の纏まらない気持ちを口にするのは、初めてなのだろう。
俺はじっと、耳を傾け伏せがちになる、びっしりと大きな瞳を彩り震える睫毛を見ていた。
「例えばね、もし清美にこの先本当に好きな人ができて、別れようって言われたら……私、清美の為に夢をあきらめたのにって恨んで、清美の幸せを純粋に願えなくなっちゃうんじゃないかって」
「晶ちゃん……」
「だから、やっぱり私達は付き合っちゃ駄目かもって、思った。清美を放してあげないと。清美が私に依存して大事なものをおざなりにしたら、きっと後で後悔する事になると思う」
「晶ちゃんは、まだ清美の事……好きなんだね」
「……」
晶ちゃんはツリーを見上げて、こちらを見ずに答えた。
「……うん、好きだよ。誰よりも大切だし、清美がウチの子になってくれてから……私は淋しさから解放されて、人と暮らす楽しさや清美の活躍にワクワクする楽しみを教えて貰った。それにいつも清美のまっすぐな所に助けられたし、励まされてきた。大切な弟で、家族で……清美は私にとって掛け替えの無い、大事な人なの」
俺は、瞼を閉じて一呼吸沈黙した。
心臓が抉られるようなショックを受けたが、長年の横恋慕で鍛え上げられた虚勢を総動員して、落ち着いた態度で彼女に寄り添うように言った。
「晶ちゃんは―――優し過ぎる。それに、甘い。清美に甘過ぎる……!」
あ、いけね。
つい嫉妬で語尾が荒くなってしまった。
そのため晶ちゃんが、問いかけるように俺の方に視線を戻した。
俺は、自嘲気味にコホンと咳払いをひとつして。
「晶ちゃんはもっと我儘になって良いと思う。自分のやりたいこと、感じたことをもっと、正直に清美に伝えるべきだ―――お姉ちゃんぶらないで。清美はあれでいて、そんなに子供じゃない。男は基本的に際限無く甘えたがりなんだから、厳しく蹴飛ばすくらいでちょうど良いんだよ?」
晶ちゃんはキョトンとしている。
あまり、俺の言っている事が伝わっていないらしい。
「まあ、そう言うこと……今は分からなくても良いよ。だけど自分の気持ちを呑み込まないで―――もっと清美と話し合ったほうが良いと思う。……晶ちゃんはさ、清美と喧嘩した経験はある?」
俺が尋ねると、ますます呆けた顔で晶ちゃんは首を傾げた。
その傾げる仕草が可愛すぎて、思わずゴクリと息を呑んでしまった俺の愚かさは―――ぜひとも見逃していただきたい。
「喧嘩?……喧嘩なんか今までしたことない」
「そっか。じゃあ、そこから始めたら?」
「?」
「バスケもさ。チーム作ったばかりの頃って、揉めるんだ。揉めて苛々をぶつけたり、言い合いしたり話し合ったりしながら……諦めないで続けて行った先に、良いチームワークが産まれるもんでさ。だから、例え物別れになるって分かってても喧嘩して―――怖がらないで、全部言い合った方が―――良いと思う」
「……そうかな……」
晶ちゃんが、自信なさ気に呟く。
俺は知っている。
晶ちゃんと清美がこのまま話し合う機会を作らず、気まずくなって別れに到った方が……俺にとっては都合良いって事を。
その心の隙間に入り込んで、晶ちゃんの隣を確保したい。
それでずっと後に「あの頃ぶつかっちゃったね」って、晶ちゃんは清美とあくまで姉弟として仲直りするんだ―――そういうのが俺にとって一番良い展開だって、勿論分かっている。
だけど。
落ち込んで、泣いて、運動神経切れているのに必死に走って、弟が他の女の子と仲良くしている現場から逃げ出して、息も絶え絶えになっている彼女を見ていると―――黙っていられなかった。
俺って、つくづく損な役回りだなぁ……。
もしかして、前世の行いがよっぽど悪かったのだろうか?
「晶ちゃん、これあげる」
ポトリと彼女の掌に落としたのは、小さなガラスで作られた、白いリボンの掛かった、赤いクリスマスプレゼントの箱。
「晶ちゃんの願い事、ちゃんとサンタさんにお願いすれば、叶うかもよ?……でも、神様の返事として何が入っているかは開けてみてからのお楽しみ、だけどね」
そう。
清美との未来か、願いに反して、俺との未来か、はたまた知らない人物との未来なのか―――思いもよらない物が詰まっているかもね。
俺が、どれだけ晶ちゃんに忠告しても。
清美が変わらなければ……大人にならなければ、例え晶ちゃんが幾ら歩み寄ろうとしても、そう時間も掛からずに2人の仲はやがて破綻するだろう。
今は晶ちゃんの気持ちは、清美にしか向いていない。
だけどこの先……2人がすれ違って、晶ちゃんが完全に清美を諦める未来はかなりの確率で訪れる気がする。
―――それを待てない俺では無い。
なんせ小5の時から足掛け7年、横恋慕をし続けたんだ。
そんな不名誉な実績を持つ俺の―――執念深さは天下一品なのだから。




