19.もうすぐクリスマスだから <高坂>
模試が終わって、晶ちゃんにすぐメールした。
『手ごたえどうだった?』
『まあまあ、かな』
『今玄関にいるけど、まだ教室?』
メールの返事が、背後から直接耳に届いた。
「お疲れさまー」
落ち着いた音階の声に、何故か心臓がギュッと縮まった。
振り向くと小柄な彼女が、艶々した黒髪を揺らしていた。その表情は緊張から解き放たれたように、微かに緩んでいるように見えた。
「晶ちゃん。……まっすぐ帰るの?」
「ううん、シュンク堂に寄ってから帰ろうと思って。だから大通まで歩いて行く」
「そっか。俺も付いて行って良い?探したい本があるんだ」
「うん、じゃあ一緒に行こうか」
最近俺はちょっとおかしい。
晶ちゃんと会うと、何だかソワソワする。
以前から晶ちゃんとの会話を興味深いと感じていたし、彼女と親しくしている様子を見た清美がギリギリ歯噛みしているのを見ると昏い愉悦に胸がスッとしたものだが、自分の細胞が活性化するような、こんな気分は初めてだった。
これまで女の子と一緒に居る時に感じた、綱渡りをするようなスリリングなゲームを楽しむ感覚とは違う。駆け引きを考えたり、深く相手に踏み込まれないように警戒したりする緊張感が全くない、ただ温かい温泉に浸かりに行くような安心感―――この気持ちに何と名前を付けたら良いのだろう。
そう、例えば―――犬になったような気分だ。
家の前の犬小屋に遊びに来て、構ってくれる女の子を待ち侘びる……それに近い。
隣にいられる機会があれば、できるだけ一緒にいたいし構って欲しい。
学校の廊下や玄関で、なんとなくその小柄な背中を探してしまう。彼女の教室の前を通る時……その机に彼女が存在するか確認してしまうし、校庭で体育の授業をやっている時その艶やかな黒髪の天使の輪を見つけると、こっそりほくそ笑んでしまう……。
まるで絵本『オーリーを探せ!』に潜んでいる『オーリー』を発見しようと夢中になっていたあの頃みたいに。
肌寒くなった地上の道を諦めて、晶ちゃんと一緒に地下へ潜った。
雪が降ろうと雨が降ろうと温かく移動できるように、JR札幌駅からまっすぐ南に向かった地下鉄ススキノ駅付近まで約2キロメートルの距離の地下道が続いている。何かで読んだが日本一長い地下歩道らしい。
シュンク堂はその中間地点の地下鉄大通駅付近にある。
駅を目指して地下を歩いていると、クリスマスが近づいている事をアピールするように歩行空間の壁に沿って『ミュンヘン・クリスマス市』の出張店舗が並んでいるのが目に入る。ガラス工芸のサンタにトナカイ、草木染の毛糸でできたマフラー、動物をかたどった木製のパズルなど……。この時期、道内各地から小さな工房の作家が集まってクリスマスにちなんだ作品を仮設店舗に並べるのが恒例行事になりつつあった。
受験生の俺達はクリスマスに浮かれてばかりはいられないけれど、こういう楽しい雰囲気を目にするのは、気分が上向くようでそれなりに楽しい。
歩むスピードを緩めゆっくり眺めながら進むと、晶ちゃんもうっすらと眩しそうに目を細めた。
「クリスマスって、いつもケーキ買う?」
「買うよ。大抵チーズケーキとチョコケーキをひとつずつ。高坂君は?」
「俺んちは、蓉子さんが作ってくれるから」
「良いなぁ、お母さんお料理上手だもんね」
はっきり『お母さん』と言われて、照れてしまう。
何故か晶ちゃんにそう表現されると、変わらない現実に傷つく……というより、頬が熱くなるようなくすぐったさを覚える。
晶ちゃんの目には、俺と蓉子さんの関係はしっかりした『母子』に映っていたという。
……ずっと俺は蓉子さんを『異性』としか認識していなかった。
しかし俺達の関係は、徐々に本物の『母子』というものに変化しつつあるのだろうか?自分では自分の変化に気付けないのかもしれない。晶ちゃんから見た現実が、今の俺達の関係を正しく捕えているのではないか……そんな想像をしてしまう。
そしてきつく俺を捕えていた執着という茨が、少し緩み始めているのだとしたら。
甘やかな痛みを与える棘が抜けて行く事実を、俺は『孤独』と捉え嘆くのだろうか?……それとも『救い』と感じる事ができるのだろうか……?
「うん、良いでしょ?」
俺は胸を張って答えた。
すると晶ちゃんが目を細めて優しい顔で頷いてくれる。
その頷きが、俺の胸をほんのりと温めた。
シュンク堂でそれぞれ本を物色した後、帰路に就くため俺達は改札へ向かった。
晶ちゃんは東豊線で俺は東西線だ。だけど何となく彼女を最後まで見送りたくなり、恐縮する晶ちゃんに色々言い訳しながら彼女を送る名目でホームまで着いて行った。
今日受験した模試の問題について2人で復習しながら歩いていると、不意に晶ちゃんの足が止まった。
俺も足を止める。
「晶ちゃん?」
問いかける声が届いているのか、立ち竦んだままの彼女の視線を慎重に辿ると―――そこには見慣れた長身と栗色の髪があった。
「清美か?」
「あ、うん。……清美」
清美は1人では無かった。
清美はすらりとした肢体を持つ背の高い女の子と、名残惜しそうに手を繋いでいた。熱心に清美を見つめる彼女は―――こちらも見慣れた人物だった。
「雛子ちゃん……?」
やがて列車が清美の背後に滑り込んで来て自動扉がシュウっと開いた。
すると清美と雛子ちゃんのしっかりと繋がれた手が、やっと離れた。雛子ちゃんが一歩下がって、列車に乗り込む男に可愛らしく手を振る。
まるで、別離を惜しむ恋人同士みたいに。
凍ったまま動きを止めた晶ちゃんが解凍されたのは、列車が発車した後だった。
「晶ちゃん?」
僅かに身じろぎした晶ちゃんの顔を覗き込もうと膝を曲げると、彼女はプィッと目を逸らした。そしてクルリと踵を返すと……無言で今来た道に向かって、走り出したのだった。




