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Battle 2 上崎正

 

 上崎正かみさきただしは、一人でとある駅の改札を出てすぐの時計台の下に設置されている椅子に座っていた。

 土曜日である。

 時間は17時、この時間はさすがに人が溢れかえるように大勢いる。

 この全員が、何か目的が有って行動しているのかと思うと眩暈めまいを感じるほどだ。

 時計台の下は待ち合わせの目印として、よく使われるので上崎の周りには何人もの人が、携帯を手に持っていじくったり、本を読んだり、音楽を聴いて待つ時間を埋めている。

 上崎はただ、じっと座って眼を閉じている。

 上崎はスーツではなく、私服を着ている。

 手荷物は、小さなバックのみで中々身軽な格好をしていた。

 上崎の髪は白髪が混じり、服装は若者のセンスとは程遠いいわゆるオジさんの格好をしていた。  

 だが、不思議な事にその風格には疲労感が漂っているとか、そういう風にはまるで見えなかった。

 むしろ体格は一見細身といえるのに、奇妙な貫禄を感じさせた。

 誰かと待ち合わせをしているように見えた。


 

 私の人生は、一言で言えば退屈だった。

 上崎はそう考えていた。

 華が無い。

 そして潤いが無い。

 人生で、人というものは、数回は輝く瞬間が有るはずだと私は思っている、だがその瞬間が私にまだ訪れたことがあるとは思えない、あるいはその輝いた瞬間は訪れていたのだがそれに気付かずに通り過ぎてしまったのだろうか、もしかしたらその輝く瞬間が間違いなく訪れていたのに、忘れてしまったのだろうか。

 42年生きてきて思うが、これからその瞬間が訪れるとはとてもじゃないが思えない。

 そういう希望を持てる心は、社会人として会社に飼われての数十年で枯れ果ててしまっていた。

 最初は希望があった。

 学生の頃も持っていたはずだし、会社に入りたての頃もそうだ。

 いや、明確な希望ではなかったのかもしれない、ただの青臭い野心だ。

 今から思えば、学生気分がまだ抜けていない新入社員の戯言、現実を直視していないくせに理想ばかり高い、阿呆の考えだったのだ。

 自分の能力を過大評価して、自分ならば何でも出来る、どのような壁だろうと乗り越えてやる、そういう奇妙な自信ばかりが漲っていたように思える。

 実際に最初の頃は同期の誰よりも仕事が出来た。

 この調子で行けば、自分がこの会社になくてはならない存在になることが出来る、そう考えていた。


 だが。 

 現実は厳しい。

 仕事が出来るから出世が出来るわけではない、コネやら家柄やら、人間関係のあれやこれやに気を使い、上司ばかりでなく最近では部下の顔色まで伺うご時世だ、勉強はそこそこ出来たがそういう人付き合いが苦手な私は、いつの間にか仕事の主要な部分からは外され、面倒ではあるが重要性が薄い仕事ばかりを扱わされる毎日である。

 そんな仕事ばかりをしていては、かつての情熱を失い、情熱を失えば自然と仕事の出来も悪くなる、歳を取れば物覚えも悪くなる。

 パソコンなどの最新機械には、新入社員のほうが詳しい事もざらにある。

 仕事に潤いを感じられないのならば趣味に生きれば良いと、学生時代からの友人に助言を貰った事もあるが、私は趣味を嗜む事は出来るが趣味に生きると言う事が出来ない人間のようだった。

 仕事が私の中の生きる指針である、今ではそう考えるようになった、出世が望めないがこの場所でもう定年まで踏ん張り続けるしかないと思うようになったのだ。

 出来うる事ならば現在の知識、意欲をそのままにもう一度学生からやり直してみたいと思う、だがあるいはもう一度やったとしても、大して違わずせいぜいが万年係長から万年課長になれた所かもしれないが。

 痛みが有る。

 拭えぬ痛みだ。

 妻は居るが子は居ない。

 子が居ない痛みなのか。

 そうではない気がする。

 妻との間に子供は出来なかった。

 私に原因があるのかもしれない、妻に原因があるのかもしれない。

 だが、それを調べようとは思わなかった、どちらに原因が有るのか、ハッキリしてしまうのが恐ろしかったのだ。

 自分に原因があるのならば良いが、もしも妻に原因があるのならば、一見いっけん勝ち気だが内心は繊細な妻は傷つくだろう。

 そうこうしている間に、夫婦間で子供の話題はタブーになった。

 お互いに暗黙の了解で、何も言わなくなったのだ。 


 それから妻は変わった、活動的になり、習い事や地域の活動や行事に積極的に参加するようになった。

 それからの妻は良妻とは言えないが、悪妻とも思えない感じになった。

 私に依存せずに好き勝手に遊んでいるが、最低限の家事はするし、金遣いが派手と言うわけでもない。

 子を生して”母”として生きるよりも、一人の”人間”あるいは”女”として生きる道を選んだように思えた。

 自分の為に動くようになって、妻は若々しくなったと思う。

 年齢自体は2歳ほど、確かに彼女の方が若いのだが、二人して並ぶと私の老け具合が10歳以上は年齢差が有るのではないかと思わせるほどである。 

 そもそも激しいドラマのような恋愛をしての結婚ではない。

 そのような恋愛を経て結婚に至った者が何人居ると言うのか。

 平凡に出会い、そして何度か会い、そしていつしか付き合うようになった、そうこうしている間に、いつの間にかお互いに簡単には別れられない時が経った、だからケジメをつける為に結婚した――、そのような物だったのかもしれない、別れる為に必要な労力、別れる理由、別れたら次に恋人を作る為に費やす労力……それらを考えての結婚だったのかもしれない、打算といえば打算だったのだろう。

 定年を迎えたら、離婚を迫られる可能性が無いわけじゃない、熟年離婚が最近は多いらしいが、それが自分の身に降りかからないと言う保障がどこにあるというのか。

 幸福であると胸を張って言える自信が、この歳まで来て少しも無い。

 無味乾燥。

 第三者から見て、仕事は有るし、子供が居なくても家庭も有るし、持病も無い、家を買った時のローン以外は借金もなく、取り立てて深い悩みが有るわけでもない、そう言うかもしれないが、世界中の全ての人間がお前は幸福だと言うから幸福と言うわけでもない、逆に世界中の全ての人間に不幸だなと言われても、自分が幸福ならばまるで問題がないのではないだろうか。

 

 ああ。

 無駄な事を考えているな。

 たまに空いた時間が出来ると、こういう考えばかりをしてしまうのだ。

 普段は蓋をして、無意識のうちに考えないようにしているのに、その蓋が外されてその隙間からこういう感情が溢れてくるのだ。

 癒しようの無い痛み。

 後悔の類。

 あの時こうしておけば良かったという、考えても仕方の無いくだらない愚痴。

 転職だろうと、恋愛だろうと、他に色々と道があったのではないかと思うとやりきれなくなる。

 42と言う歳は、20代の頃と比べるとフットワークが軽い訳ではない、肉体的はもちろん精神的にもそうだ。

 何かを始めるのはもちろん、何かを止めると言う事も出来なくなってしまう歳だ。

 同年代で若い人は多いが、それはきっと正しい歳の取り方をしてきたんだろうと思う、幸福に生きてきたんだろうと思う。

 私は違う。

 同年代よりも人生を謳歌しているとはとても思えない。

 何かを積み重ねてここまで来たわけじゃない、そう思うとやるせなくなる。

 この歳になり増えたのは、白髪と体脂肪くらいか。

 この歳になればさすがに部下も居る事は居るが、その部下は数年もしたら自分を簡単に踏み越えていく部下だ、新入社員こそ多少は気を使ってくれるが、そこそこ働くと自分が舐められていると言うのが分かる。

 別に面と向かって嘲られる事はさすがに無いが、他の上司に対するよりも強気で自分の意見を主張してくる者が多い気がする、この上司とは意見が対立しても将来的には何の問題も無い、そう思われているようで辛い。

 日々にどのような希望も見えない。


 少なくとも上崎正は常々そう考える男だった。

 最近までは、だ。


 ここ1週間前からの上崎は違う。

 妙な自信が感じられる、ただ通勤の満員電車の中で揺られていても、今までは苦痛を凌ぐだけに精一杯だったような表情が、何か確固たる物をその眼の奥に隠しているような、そのように見えるのだ。

 会社でも、何か言葉では表せない威厳のようなものを感じさせるようになった。

 はっきり言って上崎の事を舐めていた若い社員も、何となくではあるのだが上崎に対して敬意を表すようにしているように見えた。

 仕事だけではなく妻に対しても接し方が変わった。

 これまでは、出来る限り妻に何かを言ったりする事は無かったのだが、あれこれ言うようになった。

 もちろん文句ばかりではない。

 何か、これまでは腫れ物に触れるようにして、一緒に住んでいながら、夫婦というよりもただの共同生活者と化していた相手に対して、かつての関係を取り戻そうとしているように見えた。

 最初は妻が不快感を感じているように見えた。

 自分が造り上げた縄張りに上崎が入ろうとしているように感じたからだろう。

 だが、そのうちに、妻も上崎との関係を、かつての情熱的ではないが、それなりの愛情を持って結婚という選択肢を選んだ当時のような関係に、戻りたいと思うようになったのか、優しく接してくれるようになった。

 今日も、上崎は妻と待ち合わせをしているのだった。


 妻は昼間は友人と習い事を楽しみ、上崎は上崎で最近は図書館に行き本を読む事を趣味としている。

 夫婦が互いに午前から昼間までは自分の好きに使い、そして午後は待ち合わせをして夕食を共にする。

 夫婦関係としてはお互いに束縛も無く、かなり良好な関係を築き上げているように見える。

 いや、むしろ上崎にとってはかつてよりも、今のほうが遥かに妻に対しての愛情を抱いているという確信がある。

 ――遅いな。

 そう思って携帯電話を取り出そうかと思っていた。


 その時だった。


 上崎の耳からあらゆる音が消えた。

 一瞬、心臓が跳ね上がるほどの沈黙であった。

 しかし、上崎は落ち着き払っている。

 それはまるで切腹を命じられた侍が、自分の腹に刃を刺す直前のような表情に見えた。

 足音が近づいて来る。

 ゆったりとした足音だ。

 先ほどまでは、一人の足音など他の雑多な音に掻き消されて、とても聞こえる状況ではないが今は響くように聞こえる。

 上崎はゆっくりと目を開けて、足音の主を見た。

 若い男だった。

 上崎には理解できない服装ファッションに身を包んでいた、あのようなヨレヨレの服、そしてズボン、あれは一体幾らぐらいするものなのだろうか、上崎は考えたが想像も付かない。

 だが、きっと自分が想像するよりも高いのだろうと何となく思った。

 

 一週間前。

 自分は一人の命を奪った。

 あれで最後ではないと心の中で思っていたが、まさか本当にそうなるとは思っていなかった。

 あの戦いは、自分に生きる勇気を与える試練だったと解釈している、そこを乗り越えた時、以前の自分は死に、新しい自分が生まれたのだ。

 その勇気が自分を奮い立たせ、妻との関係も、普段の生活も、一変させてくれたのだと確信している。

 最初はほとんど事故のようなものだったが、それでも自分は結果的に一人の命を奪った、あれほど心が動揺する事が今までの人生で他に有っただろうか。

 無い。

 もう一度、やれといわれて出来るかと問われれば、やるしかないと答えるだろう。

 以前とは違う、覚悟が今の自分の胸には確固たる物として存在しているのだから。


 「おっさん、今度はあんたを殺しゃー、良いのかな?」


 上崎の前に立った若い男はそう言った。

 恐らく上崎と同じように、以前誰かをこの空間で殺した男なのだろう。

 そして上崎と同じように、今度は決して躊躇わずに相手を殺すことだけを考えて行動するだろう。

 そのような眼をしていた。

 

 容赦しない。


 上崎は歯を食い縛るようにして立ち上がった。

 妻の元に帰る為には、生き残るしかないのだから。







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