決着
松林信弘の肉体は、既に限界を突破していた。
その動きは人間としてというよりも、生物としての限界を遥かに超えた動きであった。
その動きをする為に、今まで肉体を酷使し鍛錬をし続けてきたのではないかと思えるほどである。
それほどまでに見事で、そして洗練された動きだったのだ。
何百回も練習をした動きのように、松林の肉体は機能していた。
宙を舞う木の葉を掴むようように華麗で、そしてゴルフボールを握り潰す以上の握力が込められた動きである。
その両方が肉体的には死に瀕し、まともに動く事すらままならない松林の肉体で奇跡的に実現したのだった。
松林はその自分に向かい放たれたその『弾』、電車の手摺の鉄柱を見事に掴んでいた。
鉄柱が手の中で回転し、掌から焦げ臭い匂いが漂ってくるほどの摩擦熱を感じていたが、それでも松林は決して離さなかった。
松林の口には笑みが浮かんでいた。
達成感に似た物がそこから感じられる。
満足気な笑みに見えた。
松林は『弾』を見事にその手で捉えていた。
まるで自分の運命そのものを掴み取るように、がっしりと。
だが――
松林が掴んでいるその部分は、1mほどの長さの鉄柱の尻に近い部分であった。
その先端は完全にその肉体に突き刺さっていた。
場所は心臓である。
中は空洞である鉄柱の先から、ストローで吸い上げるように血がダラダラと溢れていた。
既にかなりの量の血が体内から流れ出ているはずなのに、そこからはまだ湧き水のように昏々と血が流れ続けていた。
松林がその『弾』を掴めたのは、その肉体が限界を迎えた瞬間に、燃え尽きる前の蝋燭が一瞬激しく燃え上がるように、その身体能力が爆発したからなのか、その強靭な筋肉がその勢いを止めたから掴めたのか。
あるいはその両方なのか。
それは分からない。
分かるのは一つ。
それは、松林の肉体が終焉を迎えようとしていると言う事だった。
・
何かが体から漏れていた。
何だろう。
何が……
血液ではない。
それもそうだが、もっと生きていく上で、必要な何かが体のあちこちから漏れているのが分かる。
まるで自分は人の形をした風船だった。
体のどこからか分からないが、穴が開いて空気が漏れているようだ。
その穴を塞ごうにも、体がまるで言う事を聞かない。
そしてどこから漏れているか見当も付かない。
俺はどうなるのだ。
死!?
そうかもしれない。
もう充分かもしれない。
プロレスラーは不死身だ。
そう思っていたが、俺は結局プロレスラーとしてはどうしようもなく半端者だった。
子供の頃、虐められていた時、テレビでプロレスを見て、その肉体に憧れた。
体を鍛え始めたのだって。
柔道を始めたのだって。
根っこに有るのはプロレスだった。
だから、弱小とはいえ何の保証も無いプロレス団体に入ったのだ。
あるいは、大学に行かずに入門すれば良かったのかもしれない、基礎体力と体格はかなり出来上がっていたはずだ。
どうしてそうしなかったのか。
どうして――
色々が後悔がある。
あの時こうしておけば、あるいはああしていれば……
どんな幸福な人間だろうと、どんな大人物だろうと。
死ぬ寸前、床の中で息を引き取るとしたら、必ず一つ二つは頭に浮かぶはずだ。
そういう想いが必ず。
松林は、最後にその両眼をカッと見開き、目の前の敬に視線を投げつけるように見た。
その時、敬が怯えた表情で、あるいは勝ち誇った余裕の表情で自分を見下ろしていたら、もしかしたら残りもうほとんど無い体力の全てを出し尽くして、飛び掛っていたかもしれない。
それが出来たかどうかわからないが、少なくともそういう意思が沸き起こったはずだ。
だが。
敬の表情は違った。
さっき僅かだが会話をした時、この青年に感じたのは意志の弱さ、闘う必要の無い世界に生きる人間の弱さ、それを感じた。
どこにでもいる青年であり、友人になる事は出来ても、何か危険な場面で命綱を託せるかというと、答えはNOだ。
もちろん信頼は時と共に築き上げていく物ではあるが、先ほど少し会話しただけで、生きるために必要な力、それが欠如しているように感じた。
そういう人間に決定的な場面を託す事など出来ない。
しかし、今のその表情はまるで別人。
老獪な狩人が、獲物に弾丸を撃ち込み、その傷具合をじっくりと観察しているような抜かりの無い表情であった。
自分の銃の腕前と、その威力に絶対的な信頼を持ちながらも、野生の獣の生命力を決して侮らず、その最後の瞬間まで油断の一欠けらも見せたりはしない、そういう表情だった。
それを見た瞬間、松林の中に残っていた、最後の力も何処かへ消え失せていた。
納得した。
こういう表情をしている奴に殺されるのならば、何とか納得できる。
そう思ったのだろう。
安らかな、と。そう表現しても良いほどの表情を松林は浮かべていた。
まるで疲労の極地でベッドに身を投げたように心地良い。
体が羽毛のように軽い。
ああ――
松林信弘は36年もの間動かし続けていた肉体をようやく休ませる時が来たのだ。
そして。
松林は、完全にその生命活動を停止していた。
その瞬間。
敬の周りの景色は一瞬、粉々に砕けてしまったように見えた。
その砕けた全てが敬に向かって飛び掛ってくるように見えた。
松林の体も分解して、それが敬の体に吸い込まれるように、動いていた。
テレビの砂嵐に似た風景が、敬の視界の全てを覆い尽くしたのだ。
・
「はっ!?」
そして、気が付くと、敬は先ほどまでと同じ姿勢で、電車の先頭車両で車両室に寄りかかるように立っているのだった。
全てが元通りだった。
車両のどこも破損していない。
体のどこも怪我をしていない。
自分は銃を握っていない、そもそも銃などどこにも見当たらない。
何も変わらない当たり前の風景だ。
そしてあらゆる音が、戻っていた。
先ほどまで、自分と松林の行動の音以外の全ての音が無い空間から解放されたのだ。
驚いて思わず出た敬の声に、過敏に乗客達は反応し誰も口にこそ出さないが視線を敬に向けていた。
恐らく、立ったままウトウトして、それが電車の動きで眼を覚ました時に漏れた、驚きの声だと思われたのだろう。
まさか、さきほどまで殺し合いをしていて、一人の命を奪ってこの世界に帰還したのだとは誰も思わない。
敬本人も信じられない。
あるいは全てが夢だったのかと思える。
あれほどの濃い、痛みも伴い、時間も長い白昼夢を見るようならば、明らかに精神に異常をきたしていると思って間違いないだろう。
だが――
手に残る感触。
人を撃ち殺した感触、それが左手に生々しく残っている。
右手の喰い千切られた部分には当たり前のように指が有る、だが幻痛のような感触が有る。
首筋にはどっと汗を掻いていた、全身の緊張がゆっくりと体から抜けていくように感じる。
戻ったのだ。
あれは夢ではない。
あれは幻ではない。
では、何なのかと言うと、自分でも分からない。
分かっているのは、自分が人の命を奪ったという事実だけだ。
敬は周囲からの一瞬とは言え関心を集められるような行動を取った事に、普段ならば照れを感じるはずなのだが、それがまるで感じなかった。
普段ならば赤面に近い表情になるはずなのだが、顔色一つ変えなかった。
そんな物はどうでも良い。
そう思った。
妙に落ち着いている自分が不思議だったが、落ち着いている理由は分かる。
恥ずかしいというのは、怖いと言う事だ。
失敗を人に見られる事とか、周囲の人に自分はどう思われるのだろうという気持ちが恥だと思う、それが今までは怖くて仕方が無かった。
だが、本当に怖いと言う事はそう言う事ではない。
怖い事というのは怪物のような人間に襲われる事だ。
怖い事というのはその怪物に指を喰い千切られると言う事だ
怖い事というのは人に引金を引きその命を奪う事だ。
決して、恥ずかしい場面を人に見られる事だとか、彼女との待ち合わせの時間に遅れるのではないかという感情の事を『怖い』とはもう思わない、恥ずかしいとは思わない。
今ならば、何万人の前に立ち、何か喋れと言われても硬直せずに何か好きな事を喋れそうな気がしていた。
敬は気持ちの整理をつけ、そして視線を向けた。
その視線の先には、長椅子に座る体ののでかい男がいた。
眼を閉じ、瞑想をするようにして座っている。
松林信弘。
それがその男の名前だ。
本来ならば一生接点が無く、名前を知る機会も無かったはずの男である。
そして、その命は間違いなくもう――
一瞬、その眼を開いて立ち上がってくるのではないかと思ったが、一向に眼を閉じたままだ、その眼が開かれる事はもう無い。
その事を知っているのはこの世界で敬だけだ。
敬だけが知っている。
この平凡な車両の中に、非日常の爪痕のように、一人の死体が転がっているという異常を。
恐らく、松林は急激に電車が止まるか、車掌に声を掛けられるまでその死を誰にも気付かれる事は無いだろう。
その命を奪ったのは自分だ、だが敬は不思議な事に罪悪感や、嫌悪感を抱いたりはしなかった。
そういう感情は冒涜だと思っていた。
誰に対してではない、あの戦いに対してかもしれないし、松林の命に対してそう思うのかもしれない。
その眼はしっかりとその松林を見据えていた。
一人の命に真正面から向き合い、そしてそれを奪ったのだ、何も恥じ入る事は一つも無い、引け目すらも感じない。
敬は自分の体が、熱気を帯びている事に気が付いていた。
熱い。
熱くて堪らない。
興奮、高揚、達成感、勝利の喜び、どれも違う。
どれも的確な表現じゃない。
そして同時に寒い。
体の芯から凍りつきそうなほどに寒気を感じている。
恐怖の類ではない。
車両内に次の停車駅のコールが響き渡った。
次は終点で、そして敬が降りる駅であった。
敬は電車を降り、そのまま駆けていた。
全力疾走だった。
知らない者がそれを見たら、限界まで便意を我慢してようやく駅に着いたというので、慌ててトイレを探しているように見えたかもしれない。
確かに敬はトイレに向かっていた、だが敬にはもちろん用を足す気は無い、個室のトイレに駆け込んだ敬は、トイレの洋式便器にズボンをはいたまま腰を下ろし、そして後から後から無限とも思えるほどに湧きあがる感情に身を震わせていた。
何か用事が有ったようだが、どうでも良かった。
そんな事はどうでも良い。
荒い息を吐きながら、敬は耐えていた。
沸き起こる様々な感情を。
そしてその背に圧し掛かる重さ、人の命を奪ったという十字架の重さを確かに感じていた。
敬はそのまま、ドアを何度も叩かれながらも、最終的に終電の時間までその個室で震えていた。
その個室を出た時。
敬の震えは止まっていた。
翌日。
敬は、彼女から一方的な別れを告げられた。
まぁ、何の連絡も無しにデートをすっぽかしたりしたら、大抵の場合相手に喜ばれたりしない。
しかし、デート当日、彼女から敬には催促の電話は一回も無かった。
自尊心の高い彼女は、まるで自分が敬の事を待ち侘びていると思われるのが我慢ならなかったのだったのだろう。
別れを告げる方法もシンプルで現代らしく、メールで短い文章。
『さようなら、もう連絡しないで』
という物だけだった。
以前の敬ならば、そう言う事が起こると会社を休むほど落ち込み、実際に高熱を出して寝込んでいたかもしれないが、今の敬は違う。
そのメールの文章を見てすぐに消去して、彼女の電話番号も呆気無いほどすぐに携帯のメモリーから消去していた。
敬の感情はほとんど凪の状態のままであった。
哀しいとは思っている。
だが、それは決して自分の精神を波立たせるほどの深刻な物ではなかった。
ただ、それだけの話だ。
敬はテレビを見ていた。
そこには、ニュースが流れていた。
女子アナがニュースの文章を読み上げている。
「昨日、電車内で元プロレスラーの松林信弘さんが遺体で発見されました、死因は現在の所調査中ですが、外傷などが見当たらない事から、過度な運動が原因による心臓発作の可能性が強いという話です。松林さんがトレーニング時に筋肉増強剤を使用していたのかどうかの調査を現在行っており――」
そういう内容だった。
敬は無言でニュースを見ていた。
その視線は、弱肉強食の世界に生きる者が、他者に向ける視線だった。
何の同情も無い、冷たいとさえ思えない、どういう温度も存在しない視線だった。
とりあえず、最初の闘いが終了しました。
次の闘いは少し間が空いて始まる予定です(といっても1週間以内には)。
ちなみに山南敬は主人公ではありません、登場人物全てが主人公です。




