素顔
白鳥雅彦は、最後の最後で『捕獲用』の矢を隠し持っていたのだろうか?
その効果により、山南敬の渾身の一撃を止めたのか。
あるいは、先ほど放った『捕獲用』の能力にはまだ隠された秘密があり、それが敬の拳を止める作用を持っていたのか。
どちらもNOである。
敬がその拳を止めたのは、図らずも自分の意思である。
だが、雅彦を見逃してやろうとか、また最初から仕切り直しをしようとかそういうつもりで止めた訳ではない。
自分の意思で拳を止めたのだが、それは望まぬ意思であった。
どう言う事なのだろうか。
敬はあの瞬間、両足からは爆発したような脚力の力、そして上腕にはあらん限りの腕力を込めて拳を雅彦に打ち込むつもりだった。
決着。
その二文字が敬の頭を掠めた。
だが、油断は出来ない。
油断が出来るような相手ではない、拳を叩き込んで、心停止を確認しても毛ほども油断してはいけない相手が、この白鳥雅彦なのだと骨の髄まで理解している。
だから、この一撃に関して、敬は一切の油断をしなかった。
油断をしなかったはずだ。
雅彦が逃げるのを追い、そして一撃を叩き込む、それだけの作業を済ませれば良いだけの話だったのだ。
だが、敬は雅彦が目的を持って逃げている事に気が付かなかった。
自分に向かってくる物は、弾丸の速度を持っていても、過敏に反応できるのだが、雅彦がその”目的の物”に向かっていると言う事はまるで気が付かなかった。
当然といえば当然だった。
敬の視界には入らない位置にその”目的の物”はあり、雅彦もその全てを計算していたのだから仕方がない。
それに気が付かずに、雅彦に接近し止めを刺そうとした敬が迂闊といえば迂闊なのだ。
雅彦は、その”目的の物”の陰に隠れるように動いていた。
だが例え、それが強固な盾だろうと、分厚いコンクリートの壁だろうと、今の敬ならば造作も無くそれごと雅彦を殴り殺せる、それだけの破壊力を今の敬の拳は秘めている。
決して、それを殴ったら拳が壊れてしまうと心配して、その拳を自分の意思で止めてしまう事など無い。
ではどうして、拳を止めてしまったのか。
鎖。
そう、それは鎖。
雅彦が先ほど言っていた、人が産まれてから今までの間に、自分自身を無数に縛ってきた鎖の一つに敬は見事にからみ取られていたのだ。
敬の心の根っこの部分にまで浸透している鎖だった。
それから逃れようとしても、意識していなければ、いや仮に意識していても僅かだが心が反応してしまう、そういう鎖。
雅彦が隠れた物。
雅彦が目的にしていた物。
それは――
まったく関係無い通行人の少女であった。
年齢にして10歳程度。
横には母親がおり、その母親に手を引かれて歩いている、可愛らしい少女だった。
その顔には輝くばかりの笑みが浮かんでいた。
言うなれば人質だ、人質でなくとも障害物になりえる。
だがそれは普通の状況ならばの話で、本来この全てが停止した世界においてそんな少女など、人質にも障害物にもなりえない。
この世界においては、対戦相手以外は人を殺しても、元の世界に戻れば全てが何も無かったように戻っているのだから、敬は拳を止める必要などどこにも無い。
だが――
それを頭が理解していても、敬の肉体が一瞬躊躇した。
日常生活で暴力行為は絶対的な禁忌行為だ。
少なくとも、敬が生きてきた社会において、暴力を振るう人間などは滅多にいなかった。
いたとしても、せいぜいが電車の中での酔っ払い程度の物、安全な日本という国ではそれほどまでに暴力に遭遇する機会は少ないのだ。
その中で教育されていく、暴力に対する既成概念。
それも自分よりも弱い相手、社会的弱者である女性・子供・老人に対しては特に脳の奥にまで刷り込まれた、絶対的なルールである。
それを護れなければ実生活において、まともな社会生活を営む事は出来ない。
これも先ほど雅彦が言った、人が人生を歩んでいくうちに自分自身を縛り付けていくという鎖の一つだ。
人が人を殺す事も許されないルールの一つだ、だが、相手が自分を殺そうとしている前提で考えるとその鎖の効力は緩む。
だが、無抵抗な相手だといくらこれまでの闘いで4人も殺した敬でも、例外無くその鎖は効力を発揮していた。
社会的なルール。
だから、このような殺し合いの場面でも、一瞬とはいえ敬は突然目の前に現れた少女に拳を振り下ろす事が出来なかったのだ。
もちろん、時間にして瞬きに等しいほどの僅かな時間である。
だが、最高の一撃だったからこそ、渾身の一撃だったからこそ、その僅かなブレーキが圧倒的に致命的だった。
最高の速度を持ったその拳は、一度のブレーキでただの攻撃以下に成り下がった。
決定的な隙がそこに生じていた。
そして、その隙を逃すような白鳥雅彦ではなかった。
雅彦は、右手に矢を握っていた。
クロスボウが破壊されても、左手の銃は取り落としても、その矢だけは決して放さなかった。
『殺害用』の矢である。
何もクロスボウが破壊されたから、その矢まで破壊されるというわけではなかったのだ。
それを、敬に向けて、投げつけていた。
いくら今の敬でも、最高の攻撃を止めてしまった瞬間の、決定的な隙を突かれてしまっては反応が鈍る、だがそれでもどうにかして体を捻りそれを避ける事が可能だったかもしれない。
だが、それも、その矢が敬が攻撃を止める原因となった少女の胸の辺りから、出現しなければの話である。
雅彦は一切の躊躇をしなかった。
それは正しい、決して間違っていない、実際に矢で貫かれても少女はその笑みの形を一切崩さず、血も一滴も流れてはいない、少女の服がただ矢の通った部分だけ破れただけのことだ。
その攻撃も、敬の意表を突いた。
一度揺れた心に、更に追い討ちを掛けるような攻撃だった。
いくら優れた身体能力を有していても、弾丸すらも見切れる動体視力、岩をも砕く腕力を持っていたとしても、揺れた心ではその力を存分に発揮など出来ない。
その矢は、少女の胸を通り、そして――
敬の左腕の付け根に突き刺さっていた。
白鳥雅彦が『殺害用』とまで言った矢である。
その威力は想像を絶する。
一体どのような効果が発揮するのだろうか。
その矢の効果を雅彦は知っている。
猛毒ではない。
爆発する訳でもない。
ただ、あの矢が刺さると、人にとって最も重要な、と言ってもいい物が抜き取られるのだ。
魂?
意思?
いや、そう言う物ではない。
そういう抽象的なものではないのだ。
物理的な物。
単純な事だ。
人間の体重の半分以上を占める存在、それをあの矢は”吸い出してしまう”のだ。
誰もが当たり前に毎日摂取している物体。
そう、水分を。
体重が60kgの人間ならば、その体重の中に約36リットルの水分――体液がある。
その内の細胞内液が24リットル、細胞外液が12リットルであり、細胞外液のうち9リットルが間質液で、そして残る3リットルが血漿である。
要するに、人の肉体は水分が無ければ生存が不可能だと言う事だ。
それを一気に吸い出す能力を『殺害用』の矢は持っている。
矢が当れば、それがどこに当たっても問題無い。
掠り傷一つで、一気に何リットルもの水分を奪う。
これまでの闘いでそれを雅彦は熟知していた。
それが、今の敬に放った矢は深々と腕に突き刺さっている。
ほら――
左手がまるで一瞬でミイラのようになって干上がっていく。
敬の右手が動いて、矢を引き抜こうとするが、駄目だ駄目だ、そんな行為は手遅れだ。
その作業をしている間に、見ろ。
敬の左頬、左眼球が一気に乾いていくのが分かる。
乾燥した皮膚に亀裂まで走っているじゃないか、だがその亀裂から血も溢れてこない、それほど体液を奪われているのだ。
それでも敬が矢を引き抜いた。
大した物だ、と雅彦は感心した。
だが、それまでだった。矢を引き抜くのとほぼ同時に敬は両膝を地面につき、前屈みに倒れていた。
どれほどの感覚を得て、そして人間離れした身体能力を得ていたとしても、体から水分を大量に抜かれた状態では、生きていけないのだ。
ましてや、刺さった場所は心臓に近い場所だ、どちらにせよ死には変わり無いが、より一層早い死が訪れる事だろう。
勝ったのだ――
雅彦は、その敬の骸を見下ろしていた。
強かった。
間違いなく今までの相手とは比べ物にならない、最強の敵だった。
自分の感情の何かを掴めそうな所までは行けた。
自分の存在に対しての何か明確な答えを掴めそうな所までは行けた。
だが、そこまでだった。
そこから先へは進めない。
堪らないもどかしさが雅彦を包み込んでいた。
最上の料理を前にして、それを口に運んだのに舌の味覚を感じる受容体である味蕾に触れる寸前に、薄い膜によりそれを遮られているような、そんな気分だった。
能面のような”素顔”のまま、雅彦は敬を見詰めている。
その時だった。
動いたのだ。
敬が。
信じられない。
有り得ない。
もう既に息絶えた骸と化していたのではなかったのか。
動いただけではない、ゆっくりとその身を起こしてきたのだ。
左眼は乾燥しきって、もう視力を失っているだろう、右目も僅かしか光が点っていない、だがそれでもその光は真っ直ぐに雅彦を見据えていた。
「馬鹿な! そんなはずは――」
思わず、雅彦は声をあげていた。
普段、冷静沈着そのものの雅彦からは想像も出来ないほどの高い声がその口から発せられていた。
恐怖?
動揺?
驚愕?
そのどれもが混ざり合った、今まで雅彦が感じた事の無い感情が、雅彦を貫いていた。
汗が額には浮き、喉がカラカラに渇いていた。
そして、その両膝がみっともないほどに震えていた。
いや、両膝だけではなく、もう雅彦の全身が細かく震えていた。
今までの雅彦からは想像も出来ない状態だった。
まるで雨に濡れた子猫ほどに、哀れな震えようだった。
怯え。
それが感じられる。
どうして立っていられるのか。
いや、どうして生きていられるのか。
分からない、分からない。
大抵の物事について雅彦は、その常人離れした理解力で把握して生きてきた。
人間関係、人の心理のあれこれ、不条理に思えることも、全てを飲み込んで生きてきた。
だが、目の前のこの存在は、そんな理解を遥かに超えていた。
もちろん、上空からあれだけの重量が落下して、そこから生還したことも驚愕に値するが、それよりもなお今の敬が動いているという事が信じられなかった。
「あ……、あ……」
まるで、重度の精神障害に見舞われ、言語を喪失したように、口から意味不明の言葉を雅彦は垂れ流していた。
怖い。
恐ろしい。
何故だろう。
先ほどまで、いかに自分の命に危険を感じても、そしてあの時、吐息がかかるほどの至近距離まで一気に入られたときでも感じられなかった、足元が崩れ落ちるような絶望を雅彦は味わっていた。
生きているのが信じられなかった。
『殺害用』が利かなかったのが信じられなかった。
自分に向かってくるのが信じられなかった。
そして拳を振り上げて――
どうして、まだ動ける、どうしてまだ攻撃をしようとしてくる。
矢が刺さった左手は、もう元の太さの半分以下じゃないか。
足だってフラフラに見える。
左半身は、もう人とは思えないほど瑞々(みずみず)しさが失われている。
それなのにまだ――
雅彦は反応出来なかった。
動こうと思えば動けるほどの速度、それほどの緩慢な敬の動きだったが、脳があらゆる行動を拒否していた。
敬の拳は、ゆっくりと、ゆっくりと、だが確実に雅彦に向かってくる。
そして。
その拳は雅彦の顔面を捉えていた。
雅彦はそのまま地面に倒れ、そしてそのまま天を仰ぐように仰向けに倒れた。
空が青かった。
眼が眩むほどに。
雅彦の表情はもう、無表情の能面とは程遠い顔をしていた。
まるで、”素顔”だと思っていたその無表情の能面顔すらも、実は仮面の一つであったのでは無いかと思えるほど、今の表情は別の物であった。
無表情の仮面を打ち砕いて、そこから本当の、今まで一度たりとも外気に触れる事の無かった、白鳥雅彦の素顔がそこに出現したのだった。
雅彦は涙を浮かべていた。
歓喜の涙だった。
自分という存在、そして世界。
そこにどうしても見えない壁を感じて生きてきた、どうしようもなくその先へは進めない壁である、だが、今の敬の拳がその壁を簡単に打ち破ってくれたような気がしたのだ。
拳に威力はそれほど無かった。
鼻も歯も折れていない、鼻血さえ出ていない。
むしろ、倒れた際に打った後頭部の方が痛みが強い。
だが、それでも白鳥雅彦の人生最大の衝撃を受けた拳だった。
形容は不要だった。
悪くない。
悪い気分じゃない。
人に殴られたのは、これほど真っ直ぐに顔面を殴られたのは初めての経験だが、まったく悪い気分じゃなかった。
清々しささえ感じた。
これを待っていたのだと思った。
さあ、これから起き上がらなくてはいけない。
起き上がって、この戦いに決着を付けなければならない。
もう、自分には武器が何も無い。
クロスボウは破壊されたし、銃はどこかに落としてしまった。
勝ち目が有るか無いか、そんな事はどうでも良い。
ただ、この山南敬と決着を付けたかった。
だから、この体を起こして、敬と向き合わなくてはいけないのだ。
この男に殺されるのなら、それでも構わなかった。
これから自分は、初めて、そう生まれて初めて、自分自身の全てをさらけ出して、この山南敬という一人の人間と向き合うのだ。
結果はどうなろうと知った事ではない。
雅彦は、その体を起こし、敬と向き合った。
もう、恐怖も怒りも無い。
ただ、純粋な感情が有る。
真っ裸の自分だ、それに触れる外気全てが心地良い。
その体をたっぷりと熟睡した直後のような気分に、ベッドから起こすように雅彦は起き上がった。
おや。
こっちが起き上がるのを待ってくれるのか、紳士的じゃないか、そう思った。
そうさ、これからの闘いはもう、そんな不意打ちだとか、倒れている相手を攻撃するだとか、そういう話じゃないんだ。
そうだろう?
問いかけるように、雅彦は敬に視線を向けた。
だが、その途端に雅彦に異変が生じていた。
向き合ったと同時に、雅彦のその両の眼から、止め処無い涙が滝のように溢れていた。
体は、先ほどの何倍も震えている。
押さえようも無い震え、また押さえるつもりも無い震えであった。
「どうして――、どうしてだ! 何で――」
激昂していた。
絶叫していた。
あらん限りの感情で。
あらん限りの声で。
だが、それでも白鳥雅彦の前の山南敬は、まるで微動だにせず、雅彦に拳を打ち込んだ体勢のまま、そのままの形で動きを止めていた。
白鳥雅彦の前で、山南敬は絶命していたのだった。




