最後の鎖
山南敬と白鳥雅彦は向かい合って立っている。
二人以外に動く物の一切無い空間で、互いが互いを殺す為にその肉体は機能することとなる。
この二人の闘いは、これまでの闘いと違う所がある。
一つはこの闘いが最後と言う事。
勝利した時、一体何がもたらされるのかそれを互いに知らないが、これで終わりだと言う事は分かっている。
そしてもう一つ違う事、それは互いに相手を殺せる機会が有ったというのに、それを一回ずつ見逃した事だろう。
白鳥雅彦は、身動きが取れない敬に”試練”と称して、わざと直接殺すような攻撃を避けた、だがその攻撃でも”試練”に見合うだけの致死量の攻撃であり、そこから逃れる事は至難に思える攻撃だった。
山南敬は、その攻撃から逃れ、そして白鳥雅彦の間合いに滑り込むように入り、そしてそこからわざと雅彦を殺せる機会が有ったというのに、雅彦の体を遠くへと放り捨てるだけで済ませた。
借りを返すという意味のようだった。
とてもお互いに自分の命がかかっている闘いをしているとは思えない。
もしも、自分の命が最重要だと考えているのならば、どちらも相手を殺せる絶好の機会を逃すべきではない。
だが、この二人は普通とは違う。
雅彦は、この闘いで勝利を収めること、生還の切符を手にする事をに対してそれほど積極的では無い。
この闘いの中において自分の存在意義を確かめる事、あるいは生きている実感を味わう事、それこそがこの男の目的で有るとも考えられる。
だから、相手を殺せるところで見逃したのも分かる。
だが敬は、自分の命が重要だと考えていたはずだ。
どれほど相手に情けを掛けられるという屈辱的な状況でも、生き延びる為にはつまらない自尊心などは捨てる、それだけの覚悟を持って闘っていたはずだ。
それなのに、雅彦を殺せるところで見逃した。
何故か。
それは、敬の魂の問題なのだろう。
借りを作ったまま、相手を殺す、そのことがどうしても耐えられないと感じたのだ。
恥や屈辱ならば耐えられるが、相手に対しての借りを感じて返さないまま殺すというのが出来ないのだ。
あるいは、本人にも分からない思考が働いているのかもしれない、自分でも自分の行動の説明が付かないことなど多々ある。
その感情に従っただけかもしれない。
体の傷は、雅彦は軽微、一方の敬は重傷である。
左手首から先はもうどういう動きも出来ない。
体のあちこちも打撲や骨折が見られる。
肋骨が軽く2〜3本。
左手上腕骨、及び左肘骨も折れているはずだ。
他にも幾つかの傷がある。
それなのに、敬の顔に浮かぶ余裕はどうだろう。
まるで、悟りを開いたような眼。
そんな静かな眼で敬は雅彦を見詰めていた。
体が軽い。
どうしたのだろう。
重力が消えてしまったような錯覚を覚えるほどだ。
好調。
いや、絶好調だった。
闘いが始まった瞬間よりも、今の体中にダメージがある今のほうが絶好調だと断言出来る。
何も怖くない。
今なら、どんな相手だろうと、勝てる。
そういう不透明ながら、確かな感覚が敬を支配していた。
そして、今まで感じた事の無い感覚を味わっていた。
空気の味さえ、細かく分析できるような、いや違う。
もっと、遥かにスケールの大きい感覚だ。
地球の一部と自分が、一体化したような感覚とでもいうのだろうか。
周囲の大気が、まるで皮膚と同化したように、数十メートル先に落ちた石粒の位置さえ用意に特定できるような、そんな感覚。
それほどの物を今の敬は感じている。
嗅覚ではない。
視覚ではない。
味覚でもない。
聴覚でもない。
触覚以上であり、またそれとも異質な物。
第六感? いや、それとも違うような気がする。
では何なのかと問われると、答えが見つからない。
ただ、分かる事が一つだけ有る。
この闘い、敗北は既に無い、と。
もし、この闘いに負けるような事があるのならば、それは自分がとんでもない失敗をした時だけだろう。
だが、そんな事はしない。
するものか、と思う。
今の自分には失敗や災難の類の方から避けて通るだろう。
何というか、錯覚かもしれないが全ての神に愛されているような、そんな多幸感を敬は味わっていた。
生きても良い。
殺しても良い。
自由――
その免罪符を、自分を作り出した存在、それから許可されたような。あるいは、どんな事をしてもその存在に愛されるような、そんな感覚を敬は味わっている。
負けない。
負ける訳が無い。
そう思いながら、敬は雅彦に先ほどのように近付き始めていた。
今度接近したら、容赦をするつもりは無かった。
借りはもう返したのだから。
雅彦は、能面のような表情で敬を見据えている。
左手に握られている銃に込められている『弾丸』は一発、それも小石だけだ。
だが、右手のクロスボウにはまだ『捕獲用』と『殺害用』が一つずつ残っている。
充分だった。
人を一人殺すには充分すぎる装備だ。
例え相手が山南敬だとしてもだ。
雅彦の全身から、透明な冷たい物がじわりと周囲の空気に滲むように何かが漂っているよう感じられた。
言うなれば殺意以上の殺気。
助かりたいから殺すとか。
仕方が無い事情が有るから殺すとか、そういう状況で発せられる殺気とは異質。
殺す理由は、殺したいから。
それも快楽を求めでは無い。
その存在に対する挑戦のような物、それがその殺気には込められている。
左手の銃では、敬に通じない事はもう既に分かっている、きっと今からどういう『弾丸』を詰めても、結果は変わらないだろう。
ならばどうするか。
答えは簡単だ。
最後の『捕獲用』の矢を使い、そして捕らえる。
捕らえたら、『殺害用』の矢を放ちそして殺す。
シンプルだ。
シンプルでありながら、最善であり必勝の行動だ。
それに――
と思う。
山南敬のアキレス腱――”最後の鎖”がまだ残っている。
今までの会話、そして行動を分析し、そして雅彦が仮定した仮想山南敬ならば絶対に逃れられない鎖だ。
それを上手く利用すれば、この闘いに勝利するのは自分である。
雅彦はそう考えている。
先に動いたのは、雅彦だった。
左手に握った銃から『弾丸』と、右手に構えたクロスボウの矢を同時に放っていた。
銃は敬には効果が無い、というよりも、何故か避けられてしまう。
だが、それでも意識のかく乱は僅かでも望めるかもしれない、そういう考えで放っていた。
クロスボウから放たれた矢はもちろん『捕獲用』だった。
さて――どうなるか。
雅彦は変化を待った。
敬はその二つの飛来物を冷静に把握していた。
先ほどから、全身の神経が肉体を突き破り、辺りの空間にまで侵食しているような、そんなクリアな感覚を味わっている。
軌道もどれほど早くても、直線的な攻撃ならばいくらでも避けられる自信がある。
今の敬ならば、銃弾が銃口から放たれてから、着弾するまでに何回転するのかすら視認する事が出来るかもしれない。
それほどの超感覚を今の敬は得ていた。
敬は勘違いしていたのだ。
自分の肉体強化の能力を過小評価していた。
今までは、剣を鞘から抜かずに相手に斬りかかっていたような物だ、もっともあれだけ追い詰められた状況で無ければ絶対に発現しなかったという確信も有る。
あの瞬間。
上空から絶望的な重量が降ってきた瞬間。
何かが敬の中で弾けていた。
死の瞬間、人は今までの一生を走馬灯のように見るというが、あれは脳が危険時にどういう行動をすべきかを通常の速さとは比べ物にならない速度で、駆け巡るから見える映像だという。
その時の敬は、今までの人生を克明に思い返していた、そして、その感覚を10回以上も一瞬のうちに味わっていたのだ。
鉄骨が降ってきた時、あの時までは死の危険を感じていた。
鉄骨の死角に入るような位置から、雅彦が『殺害用』の矢を放って来た時、そしてそれとほぼ同時に上空からトラックが飛来してきた時、その瞬間から死の危険が敬の中から消えた。
全てがスローモーションに見えた。
まるでコマ送りのように。
どう動けば助かるのか、どう動けば一番被害が少ないのか、それを脳が判断し、そして脳の判断は迅速に肉体に指示伝達され、肉体はその通りに動いていた。
『殺害用』の矢を避けた時に、手足は自由になっていた。
だが、自由になっても、その場から横っ飛びで逃げる事が出来るような状況ではなかった。
そんな状況でありながら、敬は動いていた。
生存の為に、機械のような精密さで、ミリ単位以下で自分の肉体を制御し、そしてもっともダメージが少なくなるように動いていた。
もう一度やれと言われても出来ない動きであり、また敬以外にこの世のどんな人間にそれをしろと言っても出来ない動きであった。
だがそれだけの動きをしても、ダメージは避けきれる物ではなかった、また無傷で逃げ切るという虫の良い話を敬は想定していなかった。
生き残り、そして闘いに対し余力が残る程度のダメージ、そこまでは妥協していた。
一番の危険は、落下して来る車よりも、その隙間を満たそうとする土砂であった。
そればかりは避けきってもダメージを受ける、下手に埋まると窒息する可能性がある。
それらの計算をして、敬はどうにかあの窮地を切り抜けたのだった。
あの時、自分を生かしたのは、意思だ。
そう敬は確信している。
生きたい、生きよう、そのような意志が無ければ、いくら優れた能力が有っても成立しなかったはずの行動である。
今の敬は全身が高感度センサー以上の感覚であり、また身体能力も以前のそれよりも優れており、また動物的な第六感のような物も備わっている。
今の敬ならば、完全に視界を封じられた状態であろうと、遠距離からのライフルでの狙撃であろうと相手の引金を引く音を察知し、その攻撃を避ける事が出来るだろう。
それほどの能力を今の敬は有している。
だから、雅彦の放った矢にも『弾丸』にもまったく動じなかった、自分の掌の中の出来事のようにそれを見詰めていた。
『弾丸』の方はどうと言う事は無い、軌道も直線的で、避けるのには苦労など気ほども必要無い。
問題なのは『捕獲用』の矢だが、こちらもいかに特殊な能力が隠されていようと、対処できる自信がある。
恐らく、直接被弾しなくても何らかの影響を持つ矢なのだろう。
実際に、雅彦からはあのクロスボウから矢を放つ瞬間、敬を狙っているというよりも少し別の地点を狙っている筋肉の緊張が察知できた。
だから、敬がそれほど激しく避けなくとも、矢は後方へと吸い込まれるように飛んでいく。
どういう効果が有るのだろうか。
いや、待つ必要など無い。
矢が外れたのだから、一気に間合いを詰めて、雅彦に一撃を叩き込んでやってもいいのだ。
敬がそう思いながら、当たり前のように二つの攻撃を避けて一歩歩いた時、敬はそれに気が付いていた。
なるほど。
と、思った。
あの『捕獲用』の能力が、半分ほどは理解できた。
今の敬は周りの全てを察知できるほどの感覚を持っている、だから分かる、避けて後方に跳んでいったはずの矢が空中に静止していることも。
そして、静止状態のままで周りの全てを飲み込むような、重力場を発生させていると言う事も分かる。
この重力により、対象者を捕らえるのがこの矢の能力ならば、大した事は無い。
少し前、そう、ほんの少し前の敬ならば、これに対して動じていたかもしれないが、今の敬にはこんな物は恐れるに足らない。
軽く踏ん張れば、それで耐えられる程度の引力だ。
せいぜいが後ろ髪を引っ張られるような感触を味わう程度の物だ。
他の物体がぐんぐん吸い寄せられているが、この程度ならば――
いや――、違う。
それは違う。
あの重力場が生み出す引力そのものは偽装だ。
敬は、そう感じ取っていた。
あの矢の能力は、違う。
見えない何かが自分に迫っているのを、敬は察知していた。
透明な、細く、長さにして約50cmの物だ。
それが無数に自分に迫っているのが分かる。
恐らく、それこそがこの矢の真の力、この透明な不可視の棒が無数に襲い掛かってきて、そして周囲にいる対象者を捕らえるのだろう。
範囲も広く、そして不可視というのが恐ろしい部分だ、確かにこれだけの効果を持つなら、普通の人間ならば間違い無くこれに捕らえられてしまうだろう。
普通ならば、だ。
敬は怒りにも似た熱い感情を抱いていた。
そして、そのままその眼には見えない透明な棒状の物を、風を切る音を聴覚で、そして近寄ってくる感触を触覚と第六感のようなもので全て避けきっていた。
こんな物なのか!?
敬は心の中で吼えていた。
良いのか、白鳥雅彦。
こんな攻撃で今の俺を捕らえる事なんか出来やしないんだ。
この闘いがこんなにあっさり決着してしまって良いのか!?
激しい後悔が敬の胸を焼いていた。
こんな事ならば、先ほど一気に止めを刺してしまえば良かったのだ。
敬は一気に雅彦との間合いを詰めた、雅彦は戸惑っているだけ、そのようにしか見えない。
左手に握られた銃には『弾丸』がもう込められていないのは知っている。
せいぜいそれを投げつけるくらいしかもう使い道は無いだろう、試しにやってみたら良い、そんな無駄な事をしている間に、俺の右拳があんたの頭蓋を叩き割る事だろう。
「おおおおおおっっ!」
獣の声で敬は叫んだ。
雅彦がクロスボウを構えていたが、その引金を引くよりも速く、敬の右足が動いていた。
軽やかな上段蹴りだった。
この全てが停止した空間で高められた身体能力だから出せる蹴り、それがまともに当ってしまえば、恐らくどんな物体も破壊してしまうだろうという威力を秘めた蹴りだった。
その蹴りが見事に、雅彦の持ったクロスボウを破壊していた。
一撃で粉々に粉砕していたのだ。
その衝撃で雅彦は吹っ飛ばされるように後方に跳んだ、その時に左手からは銃が取り落とされていた。
逃げる雅彦を敬はなおも追った。
肉食獣が獲物を捕らえる瞬間、自分の持てる全ての力をその一瞬に込めるような、そんな動きだった。
敬は、逃げる雅彦に向けて右拳を振り下ろしていた。
渾身の力が込められていた。
地球上のどのような生命体の命を奪えるだけの力が込められた拳だった。
地球上のどのような力であっても、それは防げないと思えるほどの力、そして破壊力が込められているようだった。
それを止める術などどこを探しても存在しない。
それほどの勢いであった。
だが――
「白鳥ィっ!」
敬は叫んでいた。
そして信じられない事に、その右拳が止まっていた。
その動きを止める為には相手の肉体を破壊するしかないとしか思えなかった右拳が、信じられない事にその動きを止めていたのだ。
もちろん、雅彦に当る前にである。
有り得ない事であった。
そして当然のことながら、雅彦が拳を力で防いだ訳でも無い。
「これが、最後の鎖だよ。山南敬――」
雅彦の声が静かに響いた。




