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        期待と落胆

 白鳥雅彦しらとりまさひこは、自分の中に目の前の敵である敬に対して、未だかつて無い感情が芽生え始めていくような、そのような気持ちを抱いていた。


 何だろう。

 これは。

 いや、恋とか愛とか、そういう類ではない。

 というよりも、そういう感情を抱いた事が無いから分からない、しかし、違うと言い切れる。

 殺意?

 憤怒?

 それらとも違う。

 何というか、妙な感情としか言えない感情だ。

 こんなにも真剣に殺しに来ている相手、それを前にして普通の人間が抱くような感情ではない事くらいは分かる。

 そもそも、他人に対して何かの感情を抱くのを止めたのはいつからだろう。

 いや、それとも生まれてから一度も、他人に対して深い感情を抱いた事など無いのだろうか。

 本当に?

 健康診断でも、何でも、人を正常か異常かを分けるふるいの類に、雅彦は今まで一度たりとも引っかかった事が無い。

 しかし、自分が異端だとは知っていた。

 誰の顔も同じに見えた。

 泥をこねた無個性の人形、ただ名前の区別だけは付く、その程度の認識しか雅彦は他人の容姿に対して関心を持っていなかった。

 世間一般で可愛いというアイドルと、顔が原因でクラスで除け者にされている女子、その違いがいまいち雅彦には分からないのだ。

 もちろん、それを口に出す事がどういう眼で他人から見られるか良く分かっているから、好きな芸能人を聞かれたら、妥当な相手を答え、男子同士の会話で学校で好きな相手は? と聞かれたら、いない、か、無難な相手を言っていた。

 それで面倒な事になった事もあったが、それも今ではどうでも良い事だ。

 どんな食べ物も大差無く感じた。

 味オンチではない、材料も的確に分かる、調理法も分かる、腐った物や、食べられないほどの料理、例えば明らかに焼きすぎて真っ黒なトースト、煮込む際に材料の下処理を怠った生臭いシチュー、それらは不味いと思い食べない。

 しかし、極端な物を除けば、どれでも分け隔てなく食べる。

 好き嫌いが無いのではなく、ただ味に対して関心が無いというか、感動が無いのだ。

 雅彦の母親は、惜しみない愛情を雅彦に注いだのだが、雅彦は口ではいつも「母さんの手料理が一番美味しい」というのに、内心では栄養のバランスさえ取れていれば、どうでも良いと感じていた。

 そんな雅彦だから、幸福なんて感じない。

 産まれてから一度たりとも感じた事など無い。

 幸福以外の感情は希薄だ、動揺する事はあるが、それもサッと何者かが雅彦の頬を撫でるようにして、そしてすぐに去っていくようにすぐ消え去る、それだけの物だ。


 それが今、あの男――山南敬やまなみたかしに対しては、感情を抱こうとしている。

 畏怖の念とか。

 そういう感情とも違う、異質であるがまるっきり違うとも言い切れない、何か。

 言葉に出せない。

 思考が纏まらない。

 あるいは喜びなのだろう。

 雅彦が、自分のいる場所に近寄っている、そういう感触が感じられるのだ。

 例えるならば、一切の生命が存在しない空間に、何故か独りだけ取り残された白鳥雅彦に会いに来た存在。

 救世主。

 例えはおかしいかもしれない。

 普通とはまるで違うだろう。

 殺し合いをしている相手のことを、自分を救ってくれる救世主などと思うことは誰もしない。

 そんな考えが浮かんでしまう自分を、どうにかしてくれるのではないか、そういう淡い期待を感じさせる男があの山南敬やまなみたかしという男なのではないだろうか。

 これからする攻撃で、死んでしまったらそれまでの相手。

 だが、もし――

 生き延び、そして反撃をしてくるような相手であれば……

 雅彦は、その瞬間に何かを得られる。

 そのように思っていた。

 確信に近い物を感じている。

 これまで全てに対して感情を抱けなかったのは、その全てが予想できたからだった。

 それは雅彦の常人離れした知能と、そして分析力が成せる技であり、そしてその得意な精神構造がそれに拍車を掛けていた、料理を食べる前にその味を明確に頭に思い描く事が出来るのだから、感動は薄い。映画の全てを予想できるのに、それを見て心から楽しめるわけが無い。

 だが、山南敬という男の行動は、雅彦の想像の範疇からはみ出しつつある。

 それが自分の殻を破ってくれる、そんな気がするのだ。

 闘いの最中に、それも遊びではなく命がけの闘いをしているというのに、雅彦は敬に期待をしていた。

 それは生き延びてくれと。

 だが、これからする攻撃は、まったく手心を加えた物ではない。

 雅彦は自分の考えられる限り、敬を抹殺する手段をこれから講じる――

 矛盾しているかもしれないが、それだけは偽らざる事実であった。

 生き延びてくれ、そのような本気で感情を抱きながら。

 雅彦は動いていた。

 山南敬の命を完全に奪う為に。

 

 

 無重力いや、反重力のドームが自分に迫ってくるのを見て、山南敬は駆けていた。

 もちろん、背後からの攻撃には注意しているが、相手もあの空間では生命を維持できないだろう、だとすれば条件は五分五分ではないだろうか。

 先に動き出した、自分のほうが有利と言えるかもしれない。

 まだ銃には『弾丸』が一発ほど残っているが、それを使うのはまだ先だ、これを使うよりも何でも良いから『弾丸』を補充しなければならない。

 ある程度、そのドームから距離を取り、安全とも思える場所まで走ったその瞬間だった。

 突然、後方から爆発音が響いたのだ。

 後方の、それも上空の辺りからだ。

 その衝撃波の振動は、駆けている敬の背後を思いっきり突くように襲ってきた。

 衝撃と熱気だ。

 後ろ髪が焼かれるような感触を敬は味わっていた。

 そして敬は、その衝撃波に押され、前方に転がるように吹っ飛ばされていた。

 正確に言うならば、あえて自分から前に飛んだというのが正しいかもしれない、踏ん張ろうと思えば出来たが、あえて力の流れに逆らわなかったのだ。

 土埃やガラスの破片などは背後から飛んで来ない、全てが上空に舞い上げられている為だ。

 一体、何が起こったのか?

 推測だが、空中に浮いていったガソリンと、ライターが空中で接触したのでは無いだろうか。

 いくら同じ条件で宙に浮いていったとしても、液体であるガソリンと個体のライターではその浮く速度が違う、だからライターに追いつく形で接触したのだろう。

 そして、一度火が付けば無重力に近い環境だろうと、周囲にまだ酸素があるわけだから爆発が起こる。

 上空には、普通の花火とはまるで違う、巨大で真っ赤なエイがその体を悠々と宙に浮かべているような幻想的な、光景が浮かび上がっていた。

 それもすぐに消えた。

 だが、敬はその光景を見ているだけの余裕は無かった。

 何かが空気を裂いて飛んでくる音を耳にしているからだ。

 背筋が凍りつくような音だった。

 自分に向かってくる”それ”、”それ”が何なのか、”それ”が自分に当るような事態になればどのような事になるのか分からないようでは、とてもじゃないが生きてはいけない。

 うつむけに倒れた上体のままで、バネ仕掛けの跳ね上がるようにして、横に飛び退いていた。

 咄嗟の判断だった。

 そして、最良の行動だった。

 敬が飛び退いた直後、その地面に一本の矢が突き刺さっていた。

 アスファルトの地面に、深々と体の半分ほどまでも埋めるほどの勢いで矢が突き刺さっている。

 『殺害用』の矢だろう、敬は思った。

 直撃していたら、どのような効果が有るか分からないが、『捕獲用』のあの異常な効果を見る限り、『殺害用』も尋常では無い効果が秘められていると考えられる、例えかすり傷一つだろうと迂闊には受けられない矢に違いない。

 矢の地点から2mほどの場所で、飛び退いたと同時に敬は立ち上がり、体勢を整え、矢の飛んできた方向へ視線を向けている。

 爆発の衝撃波で吹っ飛ばされはしたが、致命傷には程遠い、全体的に傷としては雅彦と敬は共に軽傷だが、やや雅彦の傷が多いように見える、しかしどちらも充分に活動できる状態である。

 だが、傷が無いのにも関わらず、その敬の顔が、やや青褪あおざめているように見えるのは気のせいなのだろうか。

「また、避けたね」 

 涼しげな雅彦の声が響く。

 距離にして、20mほど間合いを保っている、そしてクロスボウを敬に向けた姿勢で、雅彦は言葉を続けた。

「でも、大変だ。落し物をしている……」 

 楽しむような、だがそれでいて落胆しているような口調で、雅彦は言った。


 その言葉通りだった。

 敬の手からは、生命線ともいえる銃が取り落とされていた。

 これまでの闘いからは信じられないほどの、致命的なミスだった。

 過去の戦闘中で何度か、敬は銃を落とした事があるが、これほどの状況で銃を手放したことは無い。

 絶体絶命に見える。

 銃には『弾丸』が一発、まだ込められている。

 その銃を拾い、雅彦に狙いを定め、そして撃つ。

 相手が常人ならば、例え機関銃を構えていてもその反応よりも早く動く事が、あるいは今の敬ならば可能かも知れないが、この相手は違う。

 一連の動作の途中に、確実に雅彦の攻撃が自分を捕らえるのを敬は充分に理解している。

 あるいは、逃げる事だけならば可能かもしれないが、ここから逃げたとしてどうする?

 銃を失った状態では不利はいなめない。

 その状況で勝ちを拾える、そのように容易い相手ではないのだ、この白鳥雅彦という男は。

 それを誰よりも分かっているはずの、敬の決定的なミスと言えた。

 雅彦はクロスボウを構えながら、一歩ずつ敬に向かってゆっくりと歩いている。

 雅彦は慌てて撃つ必要は無い、充分に外しようの無い距離まで近付いて撃てばいいのだ。

 敬は棒立ちだ、下手に動けない状況である。

 これで、勝負は決してしまったのだろうか。

 ――いや。

 違う。

 これも、実は敬の策の一つであった。

(たぶん、真っ向勝負でやりあったら、どうなるか分からない……。ならあえて危険を承知での作戦を取るしかないんだ……) 

 

 敬の策。 

 それは捨て身の策と言える。

 銃をわざと落とし、それに気を取られた雅彦の隙を突くと言う物だ。

 雅彦はまだ、敬が肉体を強化して戦闘できるという事を知らない、少なくとも面と向かってからは一度も強化してはいない、意識して隠していたのだ。

 雅彦が近寄ってくるのは好都合だった。

 自分が銃に向かうと勝手に予想して動いている、そこを狙う。

 雅彦は、敬が強化した戦闘能力が、接近戦においてはそこに転がっている銃よりも危険だという事をまだ知らない、肉体そのものが恐るべき凶器なのだ。

 脚力と腕力に集中強化を行い、一瞬で飛び掛って殴り殺す。 

 それが可能なだけの、距離にまで相手が近付くのを待つ。

 いや、待たなくても良い、銃を拾うように動いて、拾わずに襲い掛かれば充分に虚を突ける。

 あのクロスボウの力は恐ろしいが、矢を放つよりも早く敬の拳が雅彦の頭蓋骨にめり込む事になる。

 それを知らずに、無用心に雅彦はどんどん近づいて来る。

 敬は、逆に不安になる。

 これほどまでに警戒心の薄い相手だったか?

 そんなに軽率な相手とは思えない。

 それなのに、敬が銃を落としたという致命的な失敗を犯したとはいえ、すぐにその警戒レベルを下げるような迂闊な相手だったか?

 何か妙な気がした。

「がっかりさせてくれる……」

 雅彦が唐突に言葉を発した。

 まだ、歩きながら話している。

 本当に落ち込んだような口調だった。

「さっきの攻撃は良かったというのに……、これでは――。期待したのは間違いだったかもしれないな……」 

 失意の念。

 期待して、仕事を任せた部下のその仕事振りが、自分の想像を遥かに下回った時のようなそんな口調に感じられた。

 良いぞ。

 敬はそう思った。

 失望すれば良い。

 好きなだけ落ち込めば良い。

 それが間違いだったと、もうすぐ思い知らせてやる。

 敬は青い顔をしながら、内心では闘志を燃やしていた。


 二人の距離は、もう10mを切っている。

 それでもまだ、雅彦は足を止めない。

 いくら何でも近付きすぎではないか、そう思えるほど近づいて来る。

 好都合。

 今、狙いを定めているのは、クロスボウを構えているあんたじゃない、実は俺の方だ、と敬は考えている。

 狩人は、いくら獲物が弱っていても、その相手の恐ろしさを知っているのならば、絶命を確認するまでは決して近付いたりはしない、最後の最後に牙を剥いてくる事だってあるんだからな、それを今から教えてやる。

 9mを切った。

 それでもまだ、依然として雅彦は近づいて来る。

 もう、充分な射程距離だ。

 一呼吸で相手の懐に飛び込むのに充分すぎるほどの距離。 

 敬は自分の両足には、充分な力が溜まっているのが確認していた。

 今の敬はギリギリまで絞られた矢だ。

 限界まで力を蓄え、そして一気に放たれれば、それでこの闘いは終わる。

 雅彦のクロスボウの引金にかけられた指よりも早く動く、雅彦は一瞬その動きを銃を拾う為の物と勘違いして、自分の事を視界から見失ってしまうだろう、それだけの速度で動く自身が敬には有る。

 そうやって余裕ぶっていられるののも今のうちだけだ。

 もう、待つ必要はどこにも無かった。

 

 今だ!


 敬の両足が内部から爆発するように膨らみ、そして一気に強靭な脚力を持って、ロケットが発射されるように雅彦に向かって動いていた。

 直線的な動きではない。

 むしろ逆。

 銃が、敬から見てやや左の方角に転がっているので、あえてやや右に跳んでいた。

 そこから一歩だけ地面を踏み、方向転換をしてそして雅彦に飛び掛る――

 そのつもりだった。

 しかし――

 その思惑は見事に失敗していた。

 地面を蹴った瞬間に、敬の体はそこで止まっていた、少しだけ宙を進んだのだが、そこから先へは体が動かなかった。

 一瞬何が起こったのか分からなかった。

 ただ、音だけは聞いていた。

 

 ――じゃらり


 そのような音が足から響いたのだ。

 そして、足を引っ張られるようにして顔面から地面に激突しそうになり、間一髪のところで右手を地面についてそれを防いだのだ。

 足が根元から千切れそうな痛みを敬は味わっていた。

 敬は、自分の足を見て驚愕した。

 驚愕に値するだけの状況がそこで起こっていた。

(な……、何だコレは――)

 それは、鎖だった。

 繋がっている場所は――信じられない事に地面からだった。

 片足ではない、両足首にいつの間にかしっかりと鎖が巻き付いているのだ、ただ地面に落ちていた鎖が足に絡まったようではなく、囚人の足枷のようあつらえたように、敬の足にそれは見事にはまっている。

 何故、このような事態になってしまったのか。

 しかも、今は両足だけではなく、地面についた右手首にも鎖が巻き付いているのだ。

 その鎖は、人間の力を遥かに凌駕している敬が強化した腕力を持ってしても、まるでビクともしなかった。

 両足と右手首を鎖に縛られ、しかも切り札とも言える銃は手元には無い。

 一瞬、敬の血液の温度が急激に下がったように感じられた。

 処刑前の囚人の心境が今なら分かる、敬は真剣にそう思った。

 自由を奪われ、武器も無く、ただ相手の攻撃を待つ身だからだ。 


「がっかりだなぁ……」  


 自由を奪われ、地に這い蹲るような形の敬のすぐ前に、白鳥雅彦が立っていた。

 雅彦はため息を吐いていた。




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