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        詰み

 

 周囲とそして自分自身もガソリン塗れの白鳥雅彦しらとりまさひこは、目の前のライターに完全に気を取られていた。


 当たり前だ。

 全身とその周囲が可燃性の液体に浸されている状況で、目の前の火に意識を向けない訳が無い。

 普通は、その火をどう処理するかで頭が一杯になるはずだ。

 逃げるか、あるいはライターの火をどうにかして止めるというか、あるいはガソリンに触れさせないようにするか、そういう手段を考える。

 もしも、火がガソリンに着火してしまえば、その被害は甚大だ、それで死に至ると言う事も充分に可能性がある。

 皮膚はその全体の約30%を火傷すると、命の危険に関わると言うが、この状況ではそれだけでは済まないだろう。

 もちろん常人よりも遥かに身体能力が高まっている事を考慮すると、何とか耐えられるかもしれないが、それはあくまで辛うじて存命している程度だろう、とてもその後の戦闘が可能な肉体ではない。

 その火を何とかしなくてはならない。

 いくら雅彦だろうと、さすがに一瞬はそう考えた。

 だが――

 そういう思考を抱かせるのがこのライターの目的なのではないか、雅彦は咄嗟にそう感じ取っていた。

 いわく形容し難い、作為的な臭いを。

 言うなれば罠の臭いだ。

 これらの全ては、そのライターの火に、雅彦の意識を向けさせる為に敬が仕組んだことでないのか。

 ただ、火を付けるだけならば、あるいはその銃を使って、地面を目掛けて撃てば良い。

 それで恐らく、『弾丸』が何だろうと、固形物ならばアルファルトの地面と擦れれば火花が上がり、発火するには充分条件が揃う。

 何故、それをしないのか。

 何故、このように軽くパスをするようにライターを放ったのか。

 そこに意識を向ける為だ。

 本当の目的を隠す為に。

 

 この闘いは、相手の体に火をつけたら勝ち、そういう物では無い。

 敬は何かしらの能力を雅彦がまだ隠していると考えたのだろう、どうにかして火を消火できるかもしれない、その場合を考慮すると、発火の為だけに貴重な生命線とも言える『弾丸』を使用するのは誰でも躊躇ためらう。

 だから隠し持っていたライターを放ったのだ。

 そこに意識を集中させ、その際に出来た隙を突き、本当の目的を遂げる為に。

 本当の目的とはつまり……、完全に息の根を止めることだ。

 真に重要なのは、火を付ける事ではなく、雅彦の命を奪う事である。

 ならば、火に意識を集中した雅彦を銃で狙う――その方が確実なのではないか、敬はそう考えたのだろう。

 その考えは、正論。

 一切の淀みが無いほどに、正しい考えだった。

 そして、その敬の策に雅彦は、見事に踏み込んでしまっていた。

 それにしても何と良い位置にライターを放るのだろう。

 逃げようとすれば、逃げる事が可能かもしれないと思える距離。

 ライターを弾き飛ばすか、あるいは火に触れないように掴む事が可能かもしれないという距離。

 絶妙だった。

 単に絶望的な状況に相手を追い込むだけではなく、逃げ道をわざと作ってやり、そこに入りこんだ瞬間を狙う。

 ただの絶望だと、人は諦めるか、あるいは逆に必死に光明を探す、雅彦は明らかに後者のタイプの人間だった。

 それを見越して、わざと微かな逃げ道を残しておいたのだろう、それこそが敬の真の狙い。

 恐ろしく狡猾な知能を持った相手だった。

 さすがに、ほとんど全ての物に対して関心を抱けない男、この白鳥雅彦でも、敬に対して畏怖の念を僅かだが確かに感じていた。

 だが、そこまでだ、と雅彦は思った。

 まだ、踏み込んだのは片足だけだ。

 これからは、自分が主導権を握る、そう雅彦は思っていた。

 ここから先は、敬の想像を僅かに超える事が起きる、そういう思いが込められたような笑みを口に浮かべていた。

 雅彦の右手に握られたクロスボウが動いていた。 



 山南敬やまなみたかしは、煙草を吸わない。

 近頃は、歩き煙草に対しても厳しくなったし、職場の休憩室にもきちんと喫煙ルームという名の隔離室が設置されているような時代だ、好き好んで体の害になり、しかも金のかかる煙草を吸おうとは思わなかった。

 休憩時間になると、その場所で満員電車のように煙草を吸う様を見ると、何故好き好んであのような実験室のような場所に入らなければならないのかと思う。

 それに、学生時代に煙草を吸う先輩を目撃し、それをチラッと見ただけで恫喝どうかつされた経験を持つ敬は、煙草その物を嫌うようになっていた。

 自分が大人になっても絶対に煙草は吸わない、そう誓ったのだ。

 学生が禁じられた物に手を出し、背伸びをして大人振る。

 当時は怖いとすら思っていたが、今思うと滑稽なだけだ。

 トイレなどで隠れて吸っている光景を想像すると、微笑ましくすら思える。

 そんな敬だが、最近ではいつもライターを持ち歩くようになっていた。

 何故か。

 それは当然、闘いに備えてだ。

 このようなライター一つで命が助かるのならば、いくらでも持ち歩く。

 ナイフの類も持ち歩きたかったが、職務質問をされたらどうやって言い逃れをすれば良いのか。

 そういう事を考えると、妥当なのはライターであった。

 ここまでの流れは、全てが敬の予想通りの動きであり、雅彦は敬の思惑通りに動かされたに過ぎない。

 最初の攻撃から、ガソリンを相手に浴びせる、そしてライター……この流れは予想通りに上手く行った。

 雅彦はライターの火はどうにかして対処出来るかもしれないが、それに気を取られた隙は致命的で、そこを狙い撃てば勝利は自分の物、そう敬は考えている。

 だが、とも思う。

 油断はするな。

 相手は、ここまで何度も生き死にの場所を潜ってきた相手だ、絶対に勝てるという状況だろうと、毛ほどの油断も許せない相手だ。

 そんな油断一つで、戦況はすぐに変わってしまう物だ。

 だから、敬は油断無く、その銃口は雅彦に狙いを定めている。

 重要なのは、相手の眼を見る事だ。

 闘いにおいて、眼というのは他の肉体の器官よりもかなり正確に心理状態を表すという事が、これまでの経験で分かった。


 今の雅彦の眼はどうだろうか。

 敬はそれを見た。

 全身が可燃物に浸され、その目の前にライターを放り投げられた男の眼。 

 一瞬驚いたような眼をしていた。

 そこまでは普通の反応と言えた。

 だが、そこからが普通ではない、その驚愕が眼の中から薄らいでいくのが分かった。

 普通は、水が加熱され続ける限り、沸点までは温度を上昇させていくよりも遥かに、人の精神は興奮を徐々に増していくものだ。

 この状況も、理性というブレーキを踏み壊して、混乱状態パニックを引き起こしてもまるで不思議ではない窮地なのだ。

 それなのに、雅彦は一旦は驚きながらも、その驚きを鎮めたのだ。

 有り得ない事といえた。

 さすがに命のやり取りをしてきた相手だ、敬は雅彦に対して警戒をまた一つ強めた。

 だが、いくら冷静にいられても、ライターをどうにかしなければ全身が火達磨ひだるま、どうにかする為に動いたらそこを敬が撃つ。

 その構図に変化は無い。

 将棋で言う詰みの形。

 どう出るのか。

 あるいは、ここで終わるのか。

 終わってしまうのだろうか。

 それだと余りにも呆気無さ過ぎるのでは無いだろうか。

 だが、そういう思いと同時に、それがまた真剣勝負だとも思う。

 最初から感じていた雅彦の余裕、それら全てはただの虚勢だったのだろうか。

 雅彦が今の状況から抜け出る機会は、敬の考えの中には無い。

 だが、考えの外には有る、あのクロスボウの能力を使う事だ。

 そうすれば何らかの効果が発揮され、状況を打破できるのかもしれない。

 もしかしたら『殺害用』をいきなり撃って来て、相打ちを狙うかもしれない。

 だが、それは成功しないだろう。

 敬は、雅彦の動きから絶対に眼を逸らしたりはしない。 

 一挙手一投足の全てを、絶対に見落とさないように凝視している、僅かでもライターに対する動き以外を見せたら、その隙を狙うつもりだった。

 だから、クロスボウが動いて、敬に狙いを定める前に、敬の弾丸が雅彦を撃ち抜くはずだ。

 

 ほら――  


 雅彦の右手に握られた、クロスボウがその矢の先端を、徐々に持ち上げている。

 それを見落としたりはしない。

 見落とすはずが無い。

 どうするつもりなのか分からないが、敬はどうもさせないつもりだった。

 動いた瞬間に撃つ。

 敬は、自分が考えていた通りに動いた。

 狙うのは、クロスボウの矢が真下から、敬に狙いを付ける位置のちょうど中間の辺りだ、そのくらいで狙えば良い。

 それにしても雅彦はどこを狙うつもりなのだろうか。

 敬か、あるいはライター?

 『捕獲用』を使用して、ライターの火を先ほどの車のように外界と隔離してしまえば、それで引火の危険は免れる。

 だが、それをした直後の隙は防ぎようが無いはず、敬が雅彦に向けて『弾丸』を放てばそれで終わる、それが雅彦の体に当らなくても、地面に当ればそれで充分発火の条件は整うはずだ。

 いや。

 そういう考えを今は捨てるべきだ、雅彦がどうするかなんて、どうでもいい事だ、と敬は自分を戒めた。

 するべき事は唯一つ、あの男の命を奪うことだけなのだ。

 そう、この引金を引くだけなのだ。

 敬は、雅彦に向けて、容赦無い一撃を放っていた。

 そこから放たれたのは、人の頭部ほどもある石の塊に見えた。

 それが物凄い勢いで、雅彦目掛けて飛んでいく、位置としては僅かにライターの横を掠めるような位置を通って、雅彦に向かった。

 敬が放ったのとほとんど同時に、雅彦のクロスボウからも矢が放たれていた。

 しかし。

 大きな違いがある。

 敬の放った『弾丸』は、雅彦の体の中心に狙いを定めていた、逃げようとしても体のどこかに傷を負ってしまうような位置である。

 一方の雅彦の『矢』は、まだ敬に狙いを定めてはいなかった。

 ちょうど互いの中間の辺り、ライターにも狙いが定まっていない、ライターよりもやや雅彦よりの地面に向けて矢が放たれていた。

 勝負有り。

 誰もがそう感じる瞬間だった。

 だが、雅彦は笑っていた。

 雅彦の唇に浮かんでいたのは、紛れも無く笑み。

 それも、諦めの類が生じさせた笑みではなかった。


 

 勝った!

 敬が、引金を引いた瞬間に感じたのはそれだった。

 無理も無い。

 勝利を感じて、高揚するのは抑えようの無い生理的な反応だ。

 しかし――

 予想外の事が起こった。

 弾丸が、逸れたのだ。

 上へ。

 雅彦の腹部辺りに狙いを定めたのに、しかも雅彦はまるで回避行動をしているようには見えなかったのに、その『弾丸』は雅彦の左肩の服を裂き、肉を僅かに抉っただけで、後方へ吸い込まれるようにして飛んでいった。

 ダメージとしては軽微、これからの戦闘に支障をきたすような物ではない。

 まるで、『弾丸』自体が自らその動きを変えたように見えた。

 明らかに不自然な出来事だった。

 敬は自分の銃の腕前を知っている。

 名人とはいえないかもしれないが、この距離で狙いを外すような事は無い。

 もちろん考え事一つで、その攻撃が失敗することも有るだろうが、今のは発射してから着弾するまでの絵が頭に浮かんでいた、外しようの無い一撃だったのだ。

 それが外れた。

 何か異常な出来事が、目の前で起こっているのは間違いが無い。


 ライターはッ!?


 そうだ。

 『弾丸』が外れたとしても、ライターが有る。

 もしも引火するならば、この距離ならば自分もそれなりに防御をしなければ巻き添えを食ってしまう。

 何をやったのか知らないが、ライターに対して何の対策も練っていないのならば、炎に焼かれて雅彦は死ぬ事となる。

 だが……

 爆発は起こらなかった。

 一瞬、何が起こったのか分からない。

 敬は目の前の光景が理解できなかった。 

 ライターが地に落ちていないのだ。

 もう、落ちてもおかしくないだけの時間は経っている。

 本当ならば、敬の放った弾が雅彦を掠めた直後辺りに地面に落ちている算段のはずだった。

 それが落ちていない。

 落ちていないどころか、逆に先ほどよりも位置が高くなっているような――

 それもライターだけではなく、他の全て。

 そう、ガソリンも、地面に転がっている石ころも、ゴミも、空き缶も、他の雅彦と敬の間に転がっている全ての物体が、――浮いている?

 風? 

 いや、違う。

 突風で全てを巻き上げている訳じゃない。

 では、何だ?

 何をしたのだ?

 今、目にしているライターの火が、縦長の形から円球状の形になっているように見える、それも関係しているのだろうか。

 ライターだけではない、ガソリンもそれぞれがまるでシャボン玉のような形で――

 あ。

 見た事がある。

 何かで必ず眼にした事がある。

 実際にそれを眼にする機会は、恐らくほとんどの人に訪れないだろうという光景なのに、見た記憶がある。

 テレビで、だ。

 確か、そうだ宇宙船の中の映像だった。

 宇宙空間で、宇宙飛行士が液体をまるでボールのようにして、口に放り込む映像、それと同じじゃないか。

 無重力。

 そう言う事なのか。

 いや、それとも違う。

 ただ無重力ならば、フワフワとその場に留まるだけだが、今は目の前の全てがライターもガソリンも他の周辺の物全てが上空へと、ちょっとした小走り程度の速度で上昇していく。

 反重力とでもいうのだろうか。 

 何がそれをもたらしたのか、それは明白だ。

 雅彦の放った矢、それを中心にして、透明なドームのようにガソリンが盛り上がり、他の物も地面に転がっている全てが上空へと舞い上がり始めている、そしてそのドームは徐々にだが確実に、全ての方向に均等にその面積を増やしつつあった。

 もちろん敬にも迫ってきている。

 反重力を作り出す矢――明らかに『捕獲用』だろう。

 恐ろしい効果だった。

 もしも、これに捕まったら上空に吹っ飛ばされる、いや、吹っ飛ばされなくても、足が地面から離れる、そうなってしまったらどうやって逃げれば良いのか、どうやってその後の攻撃を避ければ良いのか。

 敬の放った弾丸が逸れたのもこれが原因なのは間違い無い。

 これで弾丸の軌道が、下から押し上げられたようにズレたのだ。 


 逃げなければ。

 敬が思ったのはそれだった。

 全てが上空に昇ると言う事はどういう意味か。

 きっと、その場所に有る空気も全てが、この場所から消えてしまうという事に他ならない。

 だとすると、この辺りは危険な場所と化す。

 真空状態。

 空気が無い状況で、人は生きていけない。

 宇宙空間とまったく同じような状況になってしまうのではないか。

 あの窮地をこのような方法で抜け出るとは、敬は想像もしていなかった。

 矢の力も凄いのだが、ライターに対して動じないあの精神力、そしてその裏に隠していた敬の策を看破したその観察眼は、常人を遥かに凌いでいる。

 こんな相手に勝てるのか。

 今までの相手とは桁が違う、そう思ってかからなければとてもじゃないが勝ち目など無い、敬は強く自分に言い聞かせるようにそう思った。

 そう思いながら、敬は雅彦の方に視線を送った、逃げながらでも相手から眼を逸らす訳には行かないからだ、だが、敬は雅彦のその表情を見て驚愕した。

 自分の命を奪う為に、あれだけの事をされた人間の表情には思えなかった。

 普通は怒る、激しい炎のような怒りの表情を浮かべる。

 あるいは、命が助かった事に対して安堵の表情を浮かべだろう。

 だが、雅彦の表情はまるで違っていた。

 例えるならば――

 

 そう、子供が新しいオモチャを与えられた時のような……、雅彦はそんな顔をして微笑んでいた。




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