蛇の腹
その瞬間何が起こったのか。
その記憶が敬の頭のどこを探っても見当たらなかった。
感じたのは衝撃。
手から伝わる衝撃と、そして全身を叩くような衝撃、そして背中を打ち付ける衝撃だった。
体育の授業で、柔道をやった時、手加減無しに畳に背中を叩きつけられた記憶が過ぎった。
ズキズキと背中が痛んだ。
「う……、うう……」
敬が気が付いた時、いつの間にか床に横たわっていた。
気を失っていたのだ。
一体どれだけの時間、気を失っていたのか分からない。
恐らく時間にして一分も満たない僅かな時間だろうと思う。
顔を見上げて車両内を見渡すと、敬はその光景に驚愕していた。
広がっていた。
敬のいる車両全体が、そう、まるで蛇が卵を丸呑みする時の胴体の中を見ているように、その車両全体が膨らんで広がっているように見えた。
上と横に広がっているのだ。
天井の高さは元々2、5mほどだろうが、それが1m以上も高くなり、横幅も倍近くになっている、その広がりは次の車両に向かうに連れて小さくなっている。
窓ガラス全てが割れている、車両全体が何か圧倒的な力に押されて形を変えているのだ。
長椅子も。
椅子の上の荷物置きも。
手摺も。
そして乗客もスライムのように原形を留めずに壁にへばり付いている。
全てが形を変形させていた。
まるで爆撃の直後のようであった。
ただ爆撃と違うのは、窓ガラスこそ割れているが、膨張しただけというように、熱で溶けたような部分が無いのだ。
ただの衝撃波だけでこれがこの光景が作り出されたという事を証明していた。
しかし、一体どれほどの威力がこれほどの破壊を成しえるのか、敬には想像も付かなかった。
これは、もしかして――
(この銃の力なのか?)
そう思った。
現実のどの銃でもこのような破壊力は望めないはずだ。
ダーティーハリーという映画で主人公が愛用する44マグナムという銃は、車のエンジンを破壊するほどの威力を持つというが、それだって凄いがこの銃の威力はそれとは桁違いすぎる。
ハッとしたように敬は松林を探した。
少なくともこの破壊の惨状を見渡した時、それらしい姿は見当たらなかった。
もしかしたら跡形も無くなったのかと一瞬考えたが、よく見ると車両の連結部分の扉が破壊されてそこに何かが落ちていた。
敬は頭がまだクラクラしていたが、そこに近付いていった。
さっき松林がいとも簡単に千切った手摺の棒が連結部の壁に突き刺さっていた、一体どれほどの衝撃で吹っ飛ばされたら、棒自身の耐久性よりも上のはずの壁にこれほどまで見事に突き刺さるのだろうと、考えさせられるほど、綺麗に刺さっていた。
だが、敬の目を引いたのは、それだけではなかった。
問題なのは足元に転がっている物の方だ。
それを見た瞬間、敬は息を呑んだ。
車両内の異常な破壊を見るよりも衝撃度が大きいような気がした。
この車両の膨張のような現象の破壊は、どこか常識を遥かに超えすぎて感覚が麻痺してしまっている感があるが、そこに転がっている物は生活していれば当たり前に見かける物だ、自分のもそうだが、人のも見るだろう。
だが、それ単体で見る機会などそうは無いはずだ。
生々しすぎて、敬の麻痺しかけていた感覚が一気に呼び覚まされていた。
そこに落ちていたのは右腕であった。
恐ろしく太い、人の右腕。
辺りには出血もかなり飛び散っている。
ごくり。
敬の喉が鳴った。
松林の腕に違いないだろう。
どうしてここにこれが?
推測だが、松林はあの銃の衝撃をまともに喰らってそのまま真後ろに、つまり先頭車両の位置から後方車両に向けて直線的に吹っ飛ばされたのだろう。
そしてあまりの衝撃に、連結部分のここに右腕が当たって瞬間に腕が千切れてしまったのだろう。
だが、どれほどの衝撃だろうと、鋭利な部分でもない扉に当たった程度で腕が千切れたりするものなのだろうか?
しかも、これほど太く鍛えられた腕が。
戦争で爆撃があると、人は紙切れのように吹っ飛ぶというし、ある一定の破壊力を超えると、人の体は呆気無いほど簡単に千切れるという知識は有るが、それを実際に目の当たりにしたらとても信じがたい物がある。
あるいは、銃の破壊力で吹っ飛ばされた松林の衝撃全てがこの腕の付け根に集中したとしたら、それはありえるのかもしれない、むしろこの腕に衝撃が一点集中したから体がバラバラになっていないと考える事も出来るのかもしれない。
だが、敬がいくら考えても答えは出ない。
松林本人の姿を探した。
敬は眼が悪いが、それでも更に4〜5両先の辺りに、何かが転がっているのが見えた。
大きな何かだ。
異常な破壊は先頭車両のみで、他の車両の破壊は連結部の扉のみである。
転がっている物、恐らくそれが松林なのだろう。
これほどの威力をまともに受けては、いかに頑丈な体でももうまともには動けないだろうと敬は思った。
もし、万が一動けたとしても、この銃の威力ならば、相手がどれほどの怪物だろうと太刀打ちできる、敬はそう思って手に持った脅威の威力を誇る銃に視線を落とすと、そこには信じられない表示が浮かんでいた。
『弾切れ』 『空間弾尽きました』 『弾を補充して下さい』
それらの言葉が順番に表示されていた。
空間弾?
それが、今の銃から放たれた弾? の事なのだろうか。
だが、それが尽きた?
尽きた?
え?
「なんだって!?」
思わず、敬は声をあげていた。
慌てて、敬は先ほどと同じように引金を引くが、そこにはもう先ほどのような『充填中』という文字は浮かび上がらず、ただただ『弾切れ』とそれに類する言葉が浮かび上がるだけである。
たった一発でおしまいなのか?
充填の時間の長さを補うほどの破壊力を持っているこの銃、だが一発で弾切れとは――
もしも、松林が立ち上がってきたら、もうこの銃では何も出来ないと言う事か。
素手で挑むのか?
馬鹿な話だ。
出来るわけが無い。
「ちくしょう!」
敬は怒りと苛立ちで、銃を足元に投げつけていた。
その時、敬は見ていなかったが、動かず転がっている松林の体がピクリと動いていた。
・
松林信弘は先頭車両から4両目まで吹っ飛ばされていた。
そこで松林は床に尻を付け、背を連結部の扉に預けるような姿勢で座っていた。
一体どうなったのか。
松林は記憶の糸を手繰った。
覚えているのは確かマスクを被った所までだ。
そこまでは確かに覚えている。
そこから――
確か、全身に漲るような、今まで感じた事の無いほどの力の昂りを感じたのだ。
ジッとしていると体が張り裂けてしまいそうな、全身の細胞が活動を要求してくる感覚だった。
そこからの記憶が途切れ途切れだ。
確か、山南という青年に近付いていったら、妙な銃を向けられたのだ。
そして……
そこからの記憶は完全に無い。
それよりも問題は、今だ。
体中の痛みが激しい。
脳震盪を起こしているのが分かる。
打撲はもちろん、骨折まで行かなくても、ヒビが入っている骨が幾つか有るはずだ。
重傷だ。
昔、車に撥ねられた時でも、ここまでのダメージを負った事は無い。
松林は自分の右腕がもげている事に気が付いていなかった。
眼で確認せずに感覚で判断しているから、気が付かなかったのだ。
立てるか。
そう自問する。
立つ。
立つのだ。
立たなくてはいけない。
プロレスラーは、いかなるダメージを受けてもケロリと立ち上がり、観客に超人振りを見せ付けなければならないのだ。
昔。
昔と言っても3〜4年前か。
若手達と一緒に居酒屋に行った時の事だ。
とりあえず在籍年数だけは上だから、たまには後輩を連れて飲みに行って奢る事も有ったんだ、今じゃそいつらのほうがずっと稼ぎが良いんだが、それはまぁ良い。
飲み屋でも、道を歩いているだけでも、俺たちは人目を引く。
テレビで活躍していないプロレスラーでも、ごつい体格の男達が4人もいると視線を集めてしまうのは仕方が無い。
運が悪いと性質の悪い酔っ払いに絡まれたりする事もある。
その日は運が悪かった。
こっちの会話の内容が聞こえたらしく、サラリーマン風の酔っ払いが絡んできた。
年齢は20代の後半辺りだろう。
大学を卒業し、仕事に就いて、日々の鬱憤が溜まっている頃なのかもしれない。
プロレスは八百長だ。
お前らの体は薬で作っているんだろう。
俺が本気を出したらお前らよりも強い。
俺は昔、空手をやっていたんだ。
そんなような事を言っていた気がする。
確かに、八百長と呼ばれても仕方が無い部分がプロレスにはあるが、それを何も分からないような外野に言われたくは無い。
薬というのは筋肉増強剤の類の事を言っているのだろう、確かにそれで見せかけの筋肉を作るレスラーもいる、だが少なくともその場にいる全員が自然な筋肉をしていた、見る人間が見れば分かるが、その眼力を素人に求めるのは酷な話だ。
ムキムキのマッチョマンに人気が出るのは、視覚的なインパクトが大きいからだ、そして異常に発達した筋肉は超人の証のように一般人には見える、一種の憧れのような感情を抱かせるのだ。
海外のレスラーに筋肉増強剤の愛用者が多いのはその為だ。
だが、そういう筋肉が実戦で役に立つかというと、一概には言えない。
力は確かに付く。
だがそれは一瞬の力だ。
長時間持続する力ではない。
心臓に与える負担も半端な物ではないからだ。
腕相撲などならば良いが、実際の戦いとなると、様子見をしているだけでいつの間にか息切れが始まり、力尽きる可能性も無くは無い。
もっとも、相手が素人ならばその圧倒的な筋力の前にどういう術も無くやられてしまうだろうが。
その酔っ払いはしつこかった。
こっちが相手をしないでいると、臆病者呼ばわりしてきた。
若手達が店を出ましょうと松林に声を掛けた時には、もう既に松林は立ち上がっていた。
店を出る為に立った訳ではない。
だが、素人をぶちのめす為に立ち上がった訳でもなかった。
「おい、兄さん。空手をやっていたんだろう、プロレスラーの体を殴らせてやろうか?」
松林は挑戦的に言い放った。
酔っ払いは、赤い顔を更に赤くした。
若手が止めようとしたが、松林はそれを視線で制した。
「何だったらそこのビール瓶で殴りかかってきても良いんだ、椅子を使っても良い、灰皿でも良い、素手でも良いし、好きな道具を使ってでも良いから殴りかかってきなよ、ただし刃物は駄目だぜ、刃物を出されたら俺も手を出すからよ」
松林にも酒は入っているが、それは本来の酒量からすればまだ少ない。
本来これほど口が回る性格でもないのだが、プロレスを侮辱された事が、松林には許せなかったのだ。
本当にそこの灰皿で頭をカチ割られても、出血はするだろうが平然と立っていられる自信が有った。
酔っ払いは怯んだ。
松林のあまりの迫力にである。
酔いが僅かに覚めてきたように見える。
「やれよ」
松林は静かに言った。
押し殺した静かな声が、逆に迫力が篭っていた。
「すんませんでした」
その時、その酔っ払いの連れが頭を下げて、その酔っ払いを引き摺って行こうとした。
これでこの話は終わるはずだった。
だが、松林はそれを引き止めた。
「待てよ、そっちが吹っかけてきたんだ、このままじゃその兄さんは酔いが覚めたら言うだろう、俺が喧嘩を吹っかけてもプロレスラーは台本がないと喧嘩も出来ないとかなんとかな」
若手達も、さすがに今のが引き際だと思っていた。
この揉め事が終わるはずの絶好の機会だったのに、それを松林は自分で潰したのだ。
「殴れよ、それで終わりにしようぜ」
松林はその若手達の気持ちに気付いているのかいないのか、再度挑発するように言った。
酔っ払いはすっかりその気が怖気づいているのが分かった、酒の勢いで体のでかいプロレスラーをおちょくったのは良いが、まさかこのような展開になるとは頭が回らなかったのだろう。
その場から立ち去りたくて仕方の無い、青褪めた困りきった顔をしていた。
結局。
若手達が松林を店の外に引っ張っていった事で、事態は収束したのだが。
松林は若手達を怒鳴った。
何故、止めるのか、と。
ああいう連中に舐められても良いのか。
そう言った。
好きなだけ殴らせて、レスラーの強さを少しでもあの場の連中に見せ付けないでどうする。
だが、若手達の考えは違った、酒の席の場でもある、そして素人なのだから、と言った。
素人に試合を見せるのがプロレスだと、松林はその場を去り際に言った。
それから若手と飲みに行く機会も無くなっていた。
しかも、偉そうに説教したくせに、今ではその若手連中の方が松林よりも人気が出て、今回の吸収合併のような事態でも松林のようにお払い箱にならずに、相手の団体に組み込まれる事になっていた。
複雑な気持ちだった。
プロレスを愛する気持ちならば、彼らに決して負けていない。
だが、そういう気持ちだけでは、ファンと変わらない。
強固な肉体を観客に披露するはずが、たびたび故障していては意味が無い。
だが。
どれほどのダメージが体に加わろうと、絶対に立ち上がるのがレスラーなのだ。
松林はそう考えている。
だから、今のこの深刻なダメージだろうと、立たなくてはならないのだ、それがプロレスラーとしては大成できなかったが、プロレスラーの端くれとして生きてきた自分の意地なのだと、松林は思っている。
その時だった。
松林の被る羊を模した白いマスクの一部が、パリッという音と共に剥がれていた。
頬の部分である。
そこだけではない、他の部分もまるでかさぶたのように剥がれ始めていた。
パリッ
ペリッ
バリッ
その音と共にマスクのあちこちが剥がれていた。
剥がれたそこに見えた物。
それは本来見えるはずの、肌色の松林の皮膚ではなかった。
黒く長い獣毛。
そのように見えた。




