黒
白鳥雅彦が、扉を通り抜けると、そこは見知らぬ街であった。
どこかの商店街のように見えるが、場違いなように巨大なビルも所々建っている。
最後の場所というから、てっきりもう少し特別な空間かとも思ったのだが、今まで通りのごく普通の空間である。
敵である、山南敬は、当たり前のように見当たらない。
どこかに巧妙に隠れているのだろう。
いや、隠れているというのは違う、正確に言うならば、小動物が生き残る為に隠れているような考えではなく、肉食獣のように雅彦を殺す為の、その隙を伺っているのだ。
扉を通り抜ける際に雅彦は、
「山南君、お先にどうぞ」
と、そう言った。
この場合、恐らく先に出た方が有利なのが推測出来る、どういう場所に通じているか分からないが、先にその身を隠せる優位さは有るかもしれない。
だが、もちろんそれは微々たる物だ、しかし、その微々たる部分が勝敗を左右する事をは多々有る。
それなのに雅彦は平然と敬にその権利を譲った。
余裕なのか。
あるいは何かの策略なのか。
敬は、一瞬だけ、迷うような気配を見せたが、それをすぐに拭い去り、感情の篭っていないような眼で雅彦を見据え。
「……自信家なんですね」
と、そう言った。
敬は、この勧めが裏に何かの策略が潜んでいないと判断していた、あくまでこれは雅彦の善意のようなものだと。
はっきり言って舐められているのだ。
だが、敬はそれ以上は何も言わずに、最後に一言だけ。
「お先に……」
と言うと、雅彦に背を向けて、扉を開けた。
中々に、威圧感を感じさせる背中だった。
もしかしたら、この相手とならば、自分は何かを得られるかもしれない、ついそう思ってしまいそうなほどの相手である、と雅彦は思った。
そんな事有るはず無いのに……
雅彦の手にはクロスボウが握られている。
大振りのクロスボウである、矢は八本セットされている。
(最後の戦いに向けて、何か追加されているかとも思ったが、結局は四本のままか……)
雅彦は、不平は一切含まれない、ただの感想を抱いた。
雅彦が敬に語った事で、実は嘘は一つも無かった。
全てが真実であり、どういう策もそこには含まれていない。
敬のように、体の一部強化のような特殊能力も無い。
武器だけの力だとすると、どう考えても頼りない気がする。
どれだけ強力かは分からないが、数に限りが有る武器では、不利は否めないはずだ。
だが。
紛れも無く、雅彦はここまで勝ち残ってきている。
それが全てを物語っている。
雅彦の力は、武器だけの物ではなく、その全てに対してほとんど動じる事の無い精神による物だと。
それにしても――
と、思う。
自分はここから出てきたが、相手である敬も同じ場所から出てきたのだろうか?
もしそうならば、既にこちらの位置は知られているはずだ、あるいは逆の立場ならば、相手が出現する瞬間に攻撃を仕掛けているかもしれない。
それが無いと言う事はやはり違う場所から出現したのだろう。
と言う事は、今の敬の思考を考えると――
雅彦は、辺りで一番高い建物に視線を送った。
階数にして三十〜四十は有りそうなビルが建っている。
周囲を見渡せるように、高い場所に向かうのが本能的な動きである。
あそこにいるのか?
とりあえず、索敵能力が無いので、ほとんど勘だけで動かなくてはならない。
相手も同じような物だろう。
遭遇するまでに、もしかしたら、一時間近く経過してしまうかもしれない。
相手が何かわざわざ分かり易い行動を取ってくれれば別だ、あるいは――
(こちらから仕掛けるか? それでも良いか……)
雅彦はクロスボウを構えた。
狙う先に、対象である敬は当然いない。
しかし、雅彦は引金を引いていた。
そこから放たれた矢は、地面に突き刺さった。
明らかに無駄撃ちにしか見えないのだが、次の瞬間、変化は劇的であった。
矢が刺さった部分、そこから一気に街の色が変わっていくのだ。
漆黒。
他のあらゆる色を飲み込んでしまう色だ。
染められていくように、一気に広がっていくのだ。
それが、一瞬で雅彦の視界の全ての色と化していく。
その広がりは、留まる所を知らないように、あらゆる建物にも侵食していく。
これが、雅彦の言った『捕獲用』の矢の効果なのだろうか。
まるで雅彦の内面の闇が広がっていくように、全てが停止しているその街は黒く塗り潰されていく――
敬は、雅彦の考え通り、その街の比較的高い場所に潜んでいた。
雅彦の考えと違うのは、それがもっとも高いビルではない所くらいだ、一番高い場所というのは逆に目立つ、そう考えたのだろう。
敬は、まだ敵である雅彦の位置を特定出来ずにいた。
敬の手には銃が握られている。
とりあえず、弾丸は補充している。
今の所五発まで弾倉に詰め込める事が確認出来ている、そして限界まで弾を込めている。
余裕を一つくらい持たせても良いかな? とも思ったのだが、やはり決定的な場面で弾切れになるのが怖いので、仕方が無い。
それにしても、あの白鳥雅彦という男。
話をしていて奇妙な違和感を感じた。
今まで、接してきた人間のどのジャンルとも違う臭い。
23年間も生きてきて、社会人も経験すると、本当に様々な人間と出会う事が出来る。
日本人という人種だけでもこれほど多種多様なのに、外国人も混じったらどうなるのだろうと思えるほどのバリエーションが有る。
しかし、それでも大まかには分類出来る。
この人は神経質、この人は豪快、この人は優しい……
そのような物にである。
だが、そのどれもがあの白鳥という男には当てはまらないような気がした。
見た目は普通だ。
理知的に見えるし、人当たりも良い。
だが、このような特殊な環境におかれていても、その普通さを保っていられると言う事自体が普通ではない。
人の皮を被った、何か別の生き物のように思えた。
その皮の下に潜むモノ、その正体は分からないが、決して常人が胸に抱いている物とは異質なのだろうと思えた、それほどの相手である。
正直に言って怖かった。
あの男と話していて、背筋にゾワゾワと鳥肌が浮かぶのを敬は自覚していた。
初めての経験だった。
これまで恐怖を感じた事は数え切れないほどある、この戦いが始まる以前もそうだし、始まってからもそうだ。
足がガクガクとして、そこに立っていられないほどの恐怖、この場から逃げられるのならば、何を差し出しても構わない、そう思えるほどの恐怖を感じた。
それらとは違う物。
足先から、広がりそれが脳まで到達する甘い感触が、克明に理解できる、そういう気配。
いずれは脳を満たすほどの危険な恐怖を、あの敬は雅彦から感じ取っていた。
敬は雅彦に恐怖すら覚えたが、恐ろしいと思える相手を殺せるか否か、そう考えると、人はこれまで恐怖を相手に格闘してきた歴史のような物だ。
闇が怖いから灯りが研究された。
病気が怖いから医学が発達した。
外敵が怖いから銃が生み出された。
いわばそれが人の歴史である。
あの男を乗り越える事が出来るならば、敬は更に自分自身を高める事が出来るだろう、その確信が有った。
その時。
動きがあった。
動き、いや違う。
変色だ。
街が突然、変色を始めたのだ。
どこからか分からないが、一気に波が押し寄せるようにして、漆黒が迫ってきている。
黒い電信柱。
黒いポスト。
黒いコンビニ。
そして黒い通行人。
地面とそれに接する全ての物が、退廃的な抽象画のように一色に統一され始めていたのだ。
「何だ……?」
これが、最後の戦いだから、特殊な仕掛けが作動しているのか? とも思ったのだが、これは攻撃と判断した方が良いかもしれない。
いや、そんな悠長な事は言っていられない。
その色の速度は、半端な物ではない。
良く分からないが、あの色に触れるのはまずい、そう思った。
直感と言っていいが、誰だって急に物凄い勢いで迫ってくる黒に警戒心を抱かない訳が無い。
あるいは、これが雅彦の言っていた、『捕獲用』の攻撃なのかもしれない。
どうするか?
悩んでいる暇は無い。
また、走って逃げるのは困難に思えた、常人離れした今の身体能力であれば、最初からそれが迫ってくると分かっていれば十分に逃れるだけの脚力が今の敬には備わっているが、それはあくまで平地での話だ。
今の敬のいる場所は、十階建てのビルの屋上である。
そのビルの外壁を、いや外壁だけではなくそのビルもその周辺の全ても街のある一点から、急速に漆黒が広がっているのだ。
とりあえず、逃げる為には跳ぶしかない。
この高さから落ちたら、常人に待っているのは死だけだが、今の敬ならば多少はその衝撃が堪えるかもしれないが、それに耐えられるだけの物があるはずだった。
だが、既に黒く染まった地面を目指す訳ではなく、今の屋上から隣のビルに飛び移るのならば、衝撃もずっと抑えられる。
決心すると同時に動いていた。
既に十階建てのビルの七階の辺りにまで黒が押し寄せてきているのだった。
敬は跳んだ。
両足を強化し、まるでロケットのように跳躍し、今のビルよりもやや低い隣のビルを目指した。
敬は跳んでから気が付いていた。
(何ッ!?)
敬が目指していた、そのビルの屋上にも黒が既に迫ってきているのだ。
そのビルに着地と同時に今度は、目標も決めずに跳んだ。
それでもかなりギリギリだった。
屋上の端の方には、もう黒い色がその姿を覗かせていた。
その黒に捕まってしまったら、一体どういう効果が現れるのか分からないが、これほどの広範囲に影響を与える攻撃というのは、今までの戦いでも経験が無かった。
今まで敬が戦った相手の中で、もっとも広範囲を攻撃してきた相手を強いて言うならば二回目の戦いの際の、炎を操る男であったが、この攻撃はそれとも比べ物にならない。
一つの街を飲み込むほどの攻撃? である。
もちろん、これがただのブラフ、ハッタリの類である事も充分に考えられる。
先ほど雅彦が言った、『捕獲用』と『殺害用』のクロスボウというのも、本当かどうか分からない。
ただ、この黒が迫る事により、相手が慌てて逃げる隙を突いての攻撃を狙っている可能性も充分に有るのだ。
もちろん、それに対して警戒もしているが、敬の中の何かはあの黒に触れてはならないと告げていた。
敬は先ほどの着地と再跳躍がギリギリすぎた為に、次の目的地を正確に把握しきれていなかった。
かなりの高さからの跳躍であったが、落下の恐怖は特には感じなかった。
バンジージャンプも、スカイダイビングの経験も敬には無かったし、これからもしようとは思わない、爽快感と恐怖感が相殺されているような印象を敬は自分の中に感じていた。
こんな物はまだ怖くない。
本当に怖い物は、まだどこかに潜んでいるのだから。
敬のその目はそう言っていた。
敬は空中で、地面を自分を追いかけるように、また無視するように圧倒的な速度で留まる所を知らずに広がっていく漆黒を見ていた。
これは、あるいは覚悟を決めなければならないかもしれない。
その覚悟は、この黒と接触する覚悟である。
逃げ切る事が可能かどうか、これがただの逃げるだけの競技で、全身全霊を持ってただ逃げればいいのであれば、あるいは敬は逃げ切る事が可能かもしれない。
だが、これは戦いである。
あの黒に気を取られすぎて、本当に怖いあの白鳥雅彦に対しての警戒が僅かでも薄らぐのは避けたい。
強いて数字を言えばあの黒に対して割けるのは、戦闘中の意識の10%程度だ、それ以上は戦闘に支障をきたす事がこれまでの経験知で分かる。
だから、いっその事、あの黒は触っても害が無いか、あるいは害は有っても死にはしない程度かと決め付けて、もし仮にあれが『捕獲用』とやらであれば、逆にそこを狙ってくるであろう雅彦に対して一矢報いるチャンスが巡ってくると考える事も出来る。
だが、いきなり危険な場所に踏み込むのは、勇気ではない、ただの蛮勇でしかない。
どこかのアマゾンの奥地でも探検して、どうしてもその沼を通り抜けないと先に進めない時、いきなり自分の体でその沼の深さを測る人間などいない。
敬はそれと同じ事をした。
つまり、空中に跳んでいる状況で、どういう変化が起こるのかその銃に込められた『弾丸』で試そうと思ったのだ。
『弾丸』は5つ込められている。
その中のどれを撃ち出すのかは、これは敬の感覚によって支配されている、最初は込めた順番で撃ち出されるのかとも思ったのだが、どうもそうでは無いという事がこれまでの経験で分かった、そしてその感覚も既に完璧に把握している。
敬が真下に広がる真っ黒な地面に向けて、撃ち込んだ『弾丸』は、武器としてもまた他の用途としてもかなり使える、最初の戦い以外で敬が毎回利用している物。
『車』だった。
白い普通乗用車である。
それが、黒以外は他の何色も存在しない地面に向けて、コーヒーに一滴のクリームが落ちるように放たれていた。
もし、これで、放たれた『車』が、どういう変化も起こさなかったら、そこに自分も立つ。
あるいは生物にしか反応しないとか、そういう特殊能力だった場合はもう出たとこ勝負だ。
襲ってくるところを迎え撃つしかない。
敬がそう覚悟を決めた時、放たれた『弾丸』が地面に着弾していた。
次の瞬間、景色は一変していた。




