白鳥雅彦
人生に意味なんて無い。
例えば、食事を摂るのは味があるからだろう。
栄養を摂らなければ死ぬという事情を除けば、味が無い食べ物をわざわざ好き好んで毎日口に運んだりはしない。
性行為も、そこに快楽が有るから人はのめり込むのであって、苦痛しか存在しなければ、あるいは何も感じないならば、親しい人間同士のスキンシップ以外にはほとんど行われないはずである。
それらと同じに、人生にどのような喜びも見出せないなら、私は一体どうすれば良いのだろうか。
それが白鳥雅彦が常に抱えている心の闇であった。
虚無思想。
いや、この世のどのような思想でも彼は縛れない。
言うなれば精神的不感症とでもいうのだろうか。
彼にはありとあらゆる物に対して、感動も嫌悪も感じない、ただこの世の全てを無意味だと知り、そして自分がそう思っていると他人に知られないように生きている。
これは、悟りの境地と言えるのだろうか。
恐らく似て非なる物だろう。
彼はそれでも自分の異常性を押し殺して生きてきた。
それを悟られると現実のあらゆる物が彼を排除しようとすると、知っていたからだ。
滑稽だった。
生きる事は無意味だと知りながら、生きる為に偽装しているという矛盾、あるいは望みを持って生きているのかもしれない。
この何も感じられない世の中で、あるいは出会う時を。
自分が何かを感じられるモノに。
それは宝くじを買い続ける気分に似ていた。
日々買い、そしてそれは当選する事が無い。
これが永遠に続くのだろうか? まるで魂の牢獄に縛り付けられているようだ。
だが、最近では特にその感情が強くなっている。
自分自身の存在は何なのか、そのような根源的な悩みであり、そして誰にも理解されずそして解決する事の無い悩みを抱いているのである。
まるでロボトミー手術を受けたように、彼はいわゆる一般的な感情が希薄だった。
両親は健在で、彼にごく一般的な愛情を注ぎ、学生生活でも彼は心に傷を負うような出来事に遭遇した訳ではない、だが、いつの間にかこうなった、理由は見当たらないし、またどうでも良かった。
白鳥雅彦はこういう人間なのだ。
そう言うしかない。
白鳥雅彦は優秀だった。
一般的な情を挟んだりはせず、だが、決して無常には見えないように振舞っているので、社会に溶け込み、そして娯楽の類では満たされないので、ただ淡々と勉強を続けていたら、いつの間にか優秀な人間として見られるようになった。
彼からすれば他の人間は無駄が多すぎるのだ、ほとんど寄り道ばかりだ。
ちょっと勉強しただけで息抜きと称してテレビを見たり、色恋に夢中で本来やるべき事が疎かになったり、下らない感情の柵に囚われてばかりいるように見える。
感情が逐一変化し、それにより能率が極端に変化する、絶好調の時は手に負えないほど活躍する癖に、絶不調の時には眼も当てられないほどに落ち込むように、それらを雅彦は常に冷静な目で見ながら、心の奥深くでは僅かに羨望を込めて見ていた。
自分には手に入れられない物、それを彼らは持っているという劣等感があった、激しくそして狂おしいほどの劣等感を感じながらも、彼はそれでもそれを決して表に出そうともせず優等生として生活を続けていた。
そうしたら、いつの間にか大学でも優秀の仮面は決して剥げ落ちず、いつの間にかその仮面が素顔のように彼の代わりに活躍するようになった。
社会に溶け込むように常に演技してきた彼にしてみれば、日常的な会話をするにも常に気をつけているから、失言も無く、また相手の些細な変化にも気が付くので、相手には好感を持たれたが、それらは雅彦にしてみれば本当にどうでも良い事だった。
人間嫌いでもない。
ただ、興味が無いだけだ。
興味が無いのに、相手が話をしてくれば、例えそれが一般的に鬱陶しがられたり、嫌われている相手だろうと平然と話は弾む。
相手が口下手でも、雅彦は相手のペースで会話をする、普通の人ならばイライラするのかも知れないが、元々雅彦は全ての会話を我慢してイライラを押さえ込みながらしているのだから、それほど関係無いのだ。
いつしか、雅彦は、色々な相手から相談を受ける立場になっていた。
自分から率先して何かを企画したりはしないが、どういう集まりだろうと僅かでも関わっていれば、必ず雅彦に誘いの声がかかった。
それが、雅彦にとってはただひたすらに煩わしかったが、気軽にそれらに参加していた。
何かを感じるかもしれない。
その理由から何人かの女性と関係を持ったのだが、まるで駄目だった、性的には不能ではないのだが、それに伴う快感が希薄で、すぐに飽きた。
一緒にいても、心拍数の変動も見られないので、何時しか彼は女性を求めるのは止めた、だからと言って男性に迫る気も彼には無かった。
どうすれば良いのか。
分からない。
誰かに教えてくれと懇願するつもりも無かった。
趣味を持ったところで、それに対しても彼はその欺瞞をすぐに見破り、しょせんは気休めにすらならないことを悟ってしまっている。
彼は悩んでいた。
あるいはその悩むという感情のみが、彼にとって他人と共通する感情だったので、それをする事で他人との接点を持とうと必死だったのかもしれない。
実際には、もしかしたらそれすらも悩んでいるフリだったのかもしれない。
彼は27歳という年齢になるまで、うわべの友人は数多く得ていたが、本当に信頼に足る人間に出会う事は無かった。
恐らくこれからも無いだろう、という乾いた実感だけが彼の心には浮かんでいた。
もしかしたら、自分がそう思っているだけで、周りの人間からは充分に信頼されているのかもしれない、いや客観的に見たらかなりの人間が好感を持って接していた、だがそれでは決して満たされない、それが雅彦のもって生まれた性なのかもしれない。
いつしか彼は死を想った。
仕事は順調だ、給料も良い、良い家に住み、体は健康そのもの。
だが、彼にとって、それは本当にどうでも良かった。
彼の悩みを解決する為に、足掻いていたらいつの間にか積み重なっていたものだからだ。
彼の望む物はまだ手に入らずにいた。
だからもう、もうこの人生を諦めてしまおうか、そう彼は思うようになった。
そんな時、彼に転機が訪れた。
趣味との出会いである。
狩りだ。
学生時代の友人の(白鳥自身は誰とも友情を感じた事など無かったが)一人が、彼を狩りに誘ったのだ、第一種銃猟免許を持っている彼に付き添い、その狩りを体験した。
もっとも白鳥は免許を持っておらず、山に入ってから内緒で銃を持たせてもらい、撃ったのだが、その感覚は彼にとって初めての喜びに類するものだった。
それから彼はその趣味について調べ始めるようになった。
夏の休暇には、ハワイに行き射撃場で銃を撃つのが彼の数少ない楽しみになった。
28歳になった彼は、ようやく僅かな喜びと出会ったのだった。
そしてもう一つの喜びにも出会う事となる。
その空間はありとあらゆる音が消え、動きが消えていた。
動くのは自分と、そしてもう一人のみ。
白鳥はその空間に立ち入った瞬間に全てを察していた、実際に電話がかかってきて内容を聞いても、恐ろしいほどに飲み込めた。
敵を狩れば良い、ただそれだけの事だ。
彼は、嬉々として敵と戦った。
相手の持つ武器は、どれも常識とはかけ離れたものだったが、それも楽しかった。
この世界の空気が、本当の自分が吸うべき空気だ。
この世界こそが自分の居場所なのだ。
人間狩猟が出来る場所が、この日本のどこにある? 日本じゃなくても良い、世界のどこでも、あるいはどこかのマフィアのボスとかならば可能かもしれないが、この場所のように街中で、しかも決して誰にも裁かれる心配の無い場所で出来る人間は自分だけだ。
彼は夢中になった。
全身の細胞が、28年目にしてようやく活動を始めたと思えるほどに活発に稼動し始めていた。
彼の武器はボウガンの形をした武器だ。
形をしたという表現なのは、彼の知っているどのボウガンとも形状が違うが、それはどちらかといえばクロスボウに近い原始的な形をしたものだった。
それで敵を撃った。
人を殺す事に何の躊躇いも無かった。
人間とは自分と同種というただそれだけの意識しか白鳥には無かったのである、仲間とかそういう感情を持ったことなど無い。
自分は異端者だ。
常にそれを感じつつ生きていたのだ。
父親の手。
母親の手。
普通の人間ならば、それらを温かいと感じるのだろうが、雅彦にとっては自分を養ってくれる存在とだけ認識された、人の体温は分かる、熱湯を触れば熱い、氷を触れば冷たい、それは分かるのだが温もりというかそういう感覚が雅彦には理解できないのだ。
きっと優秀な彼の場合、どういう保護が無くとも、五歳くらいから生きようと思えば一人でどうにか生きて生けたかもしれない、ただそれをするメリットが見つからなかったからそうしているだけだ。
雅彦にとっては、他人なんて必要無かった。
よく、人は誰もいない真っ暗な個室で時間も分からずに放置されると、食事や水が支給されて、手足が自由だろうと、気がおかしくなると言われているが。
雅彦はたぶんその生活でも、老衰を迎えるまで生きていられるだろう。
そういう精神構造を雅彦は有しているのだ。
絶対孤独。
絶対虚無。
その名の生き物が、心の中に住んでいるようだった。
どれほど優秀だろうと、自分に幸福など訪れない。
それを雅彦は自分自身で実感できていた。
思春期特有の孤独感とは異質の感覚である。
雅彦は四回の戦いを経て、この世界での戦いすらも自分を満たす事が無いのではないか、そのような不安を感じていた。
このような異質の場所で、楽しんでいたはずの人間狩猟も、実はやはり楽しんでいたつもりだっただけではないのだろうかと思えてきてしまう不安であった。
まるで、せっかく巡り合えた趣味なのに、それが孤独と虚無という雅彦の精神の根幹に発生したカビのような物に思えて仕方が無かった。
敬とはまるで別の不安である、敬の持つ不安は、この戦いがいつ終わるのか、いつまで続くのかという不安である、そしてそれが一般的な感覚でもある。
雅彦は有給休暇を使い、今まで歩いた事の無い街を訪れていた。
見知らぬ街の中、誰も自分を知らない、そして自分も誰も知らない、それが当然の空間だけが今の所雅彦を僅かながら慰めてくれるようだった。
焼き鳥屋に並ぶ、恐らくどこかの野球チームの高校生。
パチンコ屋から、口惜しそうに出てくる中年の男性。
コンビニで、やる気を出そうとしているのだが、どうにも出せずに無理やりに作った笑みを浮かべている店員。
八百屋の店員が威勢の良い声を発し、それに引き込まれるように集まる主婦。
歩いている人も雑多だ。
何の仕事か見当もつかない様相の人も多い。
いや、はっきりと学生以外は何をやっているのか分かる方が少ない。
それでも、顔なじみ同士がたまたま道で会って、「奇遇だな! 何やってんの?」等の会話が発生するのを横目で見ながら、雅彦は通り過ぎる。
誰も知り合いのいない街を。
そんな時だった。
携帯電話が、まるで断末魔の悲鳴のような大音量で騒ぎ出したのは。
雅彦は、冷静にそれが何の電話なのか理解し、そしてそれに出た。
電話がかかってきたのは、最初の時だけだった、これも何か意味がある電話かもしれない。
もう既に、周囲の全てはその行動を停止していた。
その圧倒的な静けさの中、雅彦は電話の声に耳を傾けた。
「いやぁ、おめでとう。ここまで生き残ったね」
最初に雅彦に電話してきた相手とは違う、大人びた子供のような口調だった。
最初の時は、物凄い低音の声の女だった。
「で、今回はどういう用件なんだ?」
上から言うでもなく、威圧感を含むわけでもなく、雅彦は淡々とした口調でそう言った。
ビジネスライクというのがもっとも当てはまる口調だった。
「今度の戦いが最後なんだ、だからちょっと報せようと思ってね」
その言葉にさすがに雅彦も反応した。
「最後? もう終わりなのか?」
「そうだよ。それで、これからちょっと違う場所に行ってもらう、そこで少し雑談でもしてよ、相手もあなたと同じ生き残りなんだ、話が合うんじゃないかな?」
「何……?」
雅彦が問うても、相手は返事を返さなかった。
その時、ようやく雅彦は気が付いていた。
それは、異質な存在だった。
人間社会にとって雅彦は自分自身が異質な存在であると自認しているが、それもこの平凡な商店街の風景からはどう考えても浮いていた。
こんな物は、どこかのアミューズメントパークか、あるいはどこかの西洋の城にでも行かなければ見かけないだろう。
あるいは、日本で見たいのならば、どこかの変わった趣味の成金を探すしかない。
そう思える代物だった。
雅彦の目の前に、いつの間にか巨大で真っ白な扉が出現していたのだった。




