マスク
敬は、目の前の男に視線を注いでいる。
体の大きな男だ。
胴回りは、敬が両手で抱えても届くかどうか分からないほどである。
胴から生えた腕は、樫の樹のように太い。
その男も、敬に視線を向けている。
いきなり襲ってくるとか、そういう雰囲気ではなかった。
何というか、友達が初対面の友人を連れてきて、連れてきた友人がトイレにでも行って初対面の相手と残された時のような、何とも形容し難い気まずい空気が流れている。
困った。
闘うとか、殺し合うとか、非現実的過ぎることよりも、まったくの見ず知らずの他人に声を掛ける事の方が敬にとってはとりあえず問題だった。
元々、敬はあまり社交的な性格ではない。
初対面の人間を前にして、自分の事をあまり語ったりはしない、何度か挨拶とか些細な会話を繰り返し積み上げていくようにコミュニケーションをとっていけば、軽口やら冗談も出てくるようになるのだが、それまである程度の時間を要する性格なのだ。
相手との距離感を掴むのに時間が掛かるというか、慎重すぎる性格なのだ。
敬が困っていると、体の大きな男から声を掛けてきた。
「あ〜、あの、ちょっと良く分からないんだが……、この状況は――」
体の大きな男も口下手で社交的な性格ではないようだった。
大きな体に不釣合いな小さい声で、敬に話しかけてくる。
言葉の内容も、自分の考えをどう口にして良いのか分かっていない印象を受ける。
もちろんこのような異常事態を前にして、軽快に口が回る方がおかしいといえばおかしいのかもしれない。
だが、良く分からないのは敬も同じだ。
何を答えて言いのか分からない。
「いや、俺もちょっと良く分からないんです、すいません」
何で謝るのか分からないが、反射的に口にしていた。
「ああ、そうか……。どうなってんだ? これは……」
敬にというよりも呟くように体の大きな男は言った。
「何なんですかね?」
同調するように敬は言った。
「あー、とりあえず自己紹介しておこうか、俺は松林だ」
体の大きな男――松林は、そう名乗った。
慌てて敬も自分の名を名乗った。
「あ、すいません、山南と言います」
年長者に気を使わせたのがちょっと悪いという気分になっていた。
どうやらこの松林という人、ちょっと会話しただけだが、性格が悪い人とか、暴力的な人という印象は受けない、それで多少敬はホッとしていた。
自己紹介を終えると、妙な間が流れた。
松林は沈黙に耐え切れないように視線を周囲に巡らせ、そしてまるで動かない乗客にその視線を止めた。
そして松林は、停止している乗客の体に手を伸ばした。
指先で、椅子に座っているサラリーマン風の男性の頬を押した。
するとその指先が、何の抵抗も無くその頬に吸い込まれた。
「……山南君もやってみろよ、不思議な感覚だぞ」
言われた通り、敬もやってみた。
確かに不思議な感覚だった。
触れているのに触れていないのだ。
何の感触も無いわけじゃない、弾力の類は一切無いが、感じるのは人の体温である。
人というより人の形をした温かい液体のようだった。
殴るようにしても、引っ掻くようにしても、停止している人の形にはまるで影響が無い。
どういう状態なのだろうか、これは。
しかも人の肉体は液体のようだが、他の部分、例えば衣服など生命体以外の部分には普通通り触れるのだ、たぶん服を掴んで思いっきり引っ張ったら、そこに服だけ取れて肉体だけ動かない状態で残るだろうと敬は思った、やらないけど。
「訳が分からん」
松林が、途方に暮れるような口調で言った。
確かにそうだった。
敬もそれに同感だった。
そういえば、と敬は思った。
こっちはさっき電話がかかってきた。
それはこの松林にも同じだろうかと考えたのだ。
その話の内容は自分が聞いた物とまったく同じなのだろうか?
訝しげな表情の敬を見て、松林は若干不思議そうな表情を浮かべながら、問いかけてきた。
「どうした?」
「え? いっ、いえ、特に何でもないですけど」
「そう言えばさっき、妙な電話がかかってきたんだ、山南君にもかかってきたのか?」
まるで敬の考えを読んだかのように松林は尋ねた。
電話で話している光景を敬は見ていないが、推測だがこの停止している乗客達と同じように電話で話している間は、どちらかの体も停止していたのだろうと思った。
このような異常事態を引き起こす存在ならば、それくらい可能だろうと理由も無しに敬は思っていた。
電話がかかってきた事を、一瞬松林に隠そうかとも思ったが、敬は素直に頷いた。
「そうか、妙な女からの電話だったな、さっぱり意味が分からなかった、武器がどうとか言っていたが、結局最後まで一方的にまくし立てられて切られたよ――」
松林のその言葉に敬は内心驚いていた。
女?
自分とは違う。
では、聞いた内容もまったく同じとは限らない。
少なくとも敬が耳にした内容は少ない。
武器を探せ。
武器はお前の性格を表している。
そしてそれを使って相手を倒せ、いや殺せ。
大体そのような内容だった。
もうちょっと丁寧に説明して欲しかった。
もしかしたら松林はそれ以上の詳しい内容を聞いているのかもしれない。
その可能性は有る。
それを訪ねて良い物だろうか、少なくとも電話の相手は目の前の相手と殺し合いをしろと言っていた、その相手に情報を請うのか?
というよりもこの人と戦う事など出来るのか?
悪い人には思えない。
むしろ好感に近い物を感じている。
体を鍛えている人は、粗暴で体育会系特有の暑苦しさがあって嫌いだと偏見を持っていたが、この人は特にそういう風には思えない。
もちろん接点が無いからこういう場でもなければ話す機会も無いだろうが、もしも友人の紹介で会ったとしたら友人になれるかもしれないとすら思っている。
「それで、山南君はどんな話を聞いたんだ? 俺と同じか」
そう問われて、一瞬敬は口篭った。
正直に、「いやぁ殺し合いをしろって言われたんですよ」とは言えない。
「ええ、大体同じ内容です」
「それで、君はどんな物が有った? 何か武器を持っているんだろう?」
率直に松林は聞いていた。
細かい話術とか、誘導尋問の類とか、そう言う物をまったく無視して、愚直なほど素直に敬に尋ねた。
駆け引きを考えていた自分が少し恥ずかしいと敬は思った。
敬は自分が逆の立場なら、こうもあっさり聞けないと思いながらも、武器を正直に見せて言い物かどうか迷った。
ポケットに有るのは、一見するとただの玩具だ、見せても害は無いだろう、あの銃で警戒をするような人間などこの世にはいないはずだ。
だが、それを素直に見せるという事が妙に違和感を感じる。
「俺は、ポケットにこんな物が入っていたんだ」
松林は、敬が色々と思考している間に、呆気無いほど簡単にポケットからそれを取り出していた。
あまり策を考えたりとか、人の裏をかいたりとか、そういう考えを持たない男なのだろう。
取り出したそれは、マスクだった。
覆面レスラーが被るマスクである。
顔の全部を覆うように出来ているマスクだった。
白を基調として、左右対象に渦を巻いた大き目の角と、顎に当たる部分にはもこもこの毛が付いている。
羊を連想させるマスクだった。
「俺のリングで使うマスクとそっくりだ、こんな物、俺が家を出る時には間違いなく持っていなかったんだが、いつの間にか入っていた」
「リング?」
敬は武器の話を逸らすように聞いた、実際にそのリングという言葉に興味を持っていたのも確かだ。
「ああ、知らんだろうが、俺はプロレスをやっているんだ……、まぁ1週間前に解雇になったんだが」
今までよりも遥かに重い口調で松林は言った。
何か苦い物を口に含んだような顔をしていた。
敬はどう言って良い物か分からない。
「30過ぎた大の大人が、スリーピングシープってリングネームで、こんなマスクを被ってなぁ、人前で動き回るんだ、まぁ特殊な仕事だよ。結構好きだったんだけどな、俺がプロレスを好きでも、プロレスは俺を好きじゃなかったんだ」
松林はそう言いながら、手に持ったマスクを被って見せた。
まるで顔に浮かんだ寂しい表情を隠すようだった。
体が人一倍、いや二倍か三倍も大きい松林が、可愛いとさえ思えるその羊のマスクを被ると拭い難い違和感が有った。
マスクの出来が良い分、体とのギャップが激しかった。
確かに、松林には悪いが、このマスクを被って人前に立つのは滑稽なように思えた、とても自分には出来ないと敬は思った。
その時だった。
松林に異変が起きていた。
「何だ……」
松林は突然、呟いた。
敬に何かを言うというよりも、自分自身の異変に対しての率直な自分の声が漏れているといった感じだった。
「何だ、これは……」
そう言いながら大きな体をまるで高熱の病人のようによろよろと、長椅子の端にある手摺用の鉄柱に体を預けた。
週末の終電でこのような酔っ払いの姿をよく見かけるなと、敬は思った。
松林はその立ったままの姿勢で、寄りかかりながら体重をそこに預けるようにして動かなくなった。
「……大丈夫ですか」
恐る恐る、敬は松林に声を掛けた。
その時、敬は気付いていた。
今までも充分にでかい体だったが、それが今、体をやや前屈みにしている状態なのに、さきほどと同等の高さを感じるのだ。
まさか、と思ったが間違いなくそうだ。
体が大きくなっている――?
「あの――」
再度、敬は声を掛けた。
すると――
松林は無造作に、左手を自分が寄りかかっている鉄柱に伸ばした。
そして、本当に何気ない動作、例えるならば家の窓を開くような動作、座る為に椅子を引くような動作で、鉄柱を掴んだままその手を横に引いた。
ぐいいいぃぃぃ……
異様な音と共に、鉄柱がひん曲げられていた、松林がプロレスラーで怪力の持ち主であろうと恐らく利き腕で無いだろう左腕で、しかも力をさほど込めていないような姿勢で、これほどまでに鉄柱を曲げられる訳が無い。
明らかに異常な事が起こっているのだった。
松林は、今度は右手で鉄柱の下の部分を掴むと、枯れ枝を引っこ抜くように簡単にその鉄柱を引き抜いていた、引き抜くと、それに興味を無くしたように後ろに放り投げていた。
簡単に放り投げたように見えるが、物凄い勢いでそれはまるで槍のように長椅子に突き刺さっていた。
そこには座っている乗客もいて、初老の男性の腹部を貫く位置にあるのだが、もちろん血は流れないし苦痛に顔を歪める訳でもない。
松林は無言で、今度はつり革に右手を伸ばした、つり革の手で持つ部分の丸い輪を鷲掴みにすると、そのままそれを下に引いた。
300kgもの重量に耐えられるはずのそれが、いとも簡単に引っこ抜かれていた、しかもそれと同時につり革の丸い輪も握力で握り潰していた。
一つではない。
二、三個のつり革を、まるで今の自分の力を試すかのように引き千切っていた、子供が遊びで壊すようにしているが、見ている者からすれば恐ろしい光景だった。
敬はもう声を掛けられない。
敬の喉が唾を飲み込む音が、松林が動く以外の一切の音が無いこの車両内に響いた。
その音に気が付いたように松林は、敬に視線を向けた。
マスクから覗く眼光がさきほどまでの松林とは明らかに違っていた。
人の視線とも違う、獣の見せるような視線だった。
獲物を狙う獣のような餓えた眼だった。
武器――
その単語が敬の頭を過ぎった。
そうか、あのマスクがこの松林の武器だったのだ。
何の根拠も無いがそう思った、そうとしか考えられない。
この圧倒的な腕力は、人の力の成しえる物ではない、あるいはそれを可能な人間もいるだろうが、力の全てを出し切った結果の事だろう、この松林のように容易く無造作に樹に生っている柿をもぐようにつり革を引き千切ったりは出来まい。
松林が迫ってくる。
異様な迫力がそこに有った、敬が今までの人生で感じた事の無い威圧感である。
壁がそのまま向かってくるような圧迫感も味わっていた。
「ひぃっ」
情けない声を発しながら、ほとんど反射的に敬はポケットから銃を取り出し、それを松林に向けていた。
馬鹿げた事かもしれない、これほどの怪力を持つ怪物の域にまで達した人間を相手に、この玩具を向けてどうなるというのか。
だが、もしもあのマスクの力と同等の物がこの銃に秘められているとしたら?
ほとんど縋るように、銃を向けていた。
その銃を見ても、松林の足はまるで止まらない。
それは、理性を失っているからなのか、あるいはこの銃が脅威ではないと感じているからなのか。
それともその両方なのか、それは分からない。
その時、敬は銃の弾倉の部分に有る黒い球体の文字を見ていた。
『充填完了』
その球体に表示が浮かび上がっていた。
一体、いつ充填完了したのだろう、少なくとも引金を最初に引いてから1分間以上も充填中のままだった、武器としては欠陥品としか思えない、普通ならば充填が終わる前に相手の攻撃を受けてしまうだろう。
敬の目の前には体が一回り大きくなり、異常な怪力を得て、しかも会話の成立しない松林が迫っている。
人というより、山中で突然手負いの熊に出会ったようなそんな気分だった。
この銃の引金を引いた所でこの状況を打破できるとはとても思えないが、このまま松林が近寄ってくれば、人形の首をもぐよりも遥かに簡単に、この首が引っこ抜かれてしまうような気がした。
そもそもこの玩具のようなモノでなくても、実際の拳銃を手にしていても今の松林を止めるのは不可能な気がした。
だが、もう迷っている暇は無かった。
敬の全身を支配しているのは恐怖である。
恐怖から逃げる為にはこの銃に頼るしかなかった。
敬の顔は引き攣ったような表情になっていた。
逃げたくとも先頭車両のこの位置にはどこにも逃げ場が無いのだ、窓を開けて逃げようにも、その作業をする間に松林に捕まってしまうのは眼に見えている。
人に向けて銃の引金を引くというのは想像以上に怖い事だ、テレビや映画では容易くぶっ放すし、自分自身の身に危険が迫ったら自分も銃を撃つのを躊躇したりなどしないと、どこか当たり前のように思っていたのに、実際にやって見るとこれほど違うとは思っていなかった。
足ががくがくと震えてきそうだった。
いや、もう実際に震え出している。
何もしないのが一番怖い。
怖がっていても状況は現在進行形だ。
松林はどんどん迫ってくる。
救いを求めるように、敬は指先に力を込めた。
敬は、躊躇いながらも、引金を引いていた――




