爆発
山南敬は、目的地であるガソリンスタンドを眼にしても、それに対して素っ気無い素振りを見せていた。
目的地を見つけて、喜び勇んでそこに向かうと、その目的が背後から迫る高梨健吾にバレてしまう恐れがあるからだ。
もっとも、健吾はそれに気づくだけの余裕が有ったかどうか、あるいは気づいてもそれに対して警戒したり、慎重に行動しただろうか、恐らくそれは無いだろう、精神的に追い詰められているのはむしろ追っている健吾だからだ。
だが敬はそこまで相手の事を知らない、だから念には念を押しての行動をしているのだ。
命のかかった状況で、やりすぎという事は無いだろうという考えに基づいての行動である。
距離はまだ500mほど有る、あそこに敵を誘い込むのが目的であるが、まだ焦るような距離ではないと考えていた。
それにしても、ガソリンスタンドとは――
相手が炎の化身のような存在である以上、水とか冷気とかで対抗するのが常識的なのに、むしろその逆とも言えるガソリンスタンドを目指すとは、敬にはどういう思惑が有るのだろうか?
どういう思惑が有るにせよ、その目的地が視界に入った事、それが人の本能的にというか、生理的な反応ともいえる物で、僅かに、ほんの僅かにだが敬に気の緩みが発生してしまっていた。
それは、真っ白な壁に走った一本の髪の毛ほどの黒い線、本来ならば大した事が無いほどの気の緩みである。
だが、そういう隙が、このような極限状態では命取りなのだ。
敬が、さきほどまでのように常に気を張り詰めた状態だったならば気づいていたはずである。
先ほどまで、定期的に襲ってきた炎の一撃がピタリと止まっている事を。
「ん?」
敬が気が付いた時には、健吾の攻撃は後は”閉じるだけ”だった。
上空から見れば分かるのだが、その場にいる敬は分かり難い攻撃であった。
まるで、鰐の口のように、蟹のハサミのように、健吾の炎が道路の中心を走る敬を挟むように、炎が延びているのだった。
それは、両手を広げて、中心にいる敬を抱擁するように、それでいて素早く炎が敬に襲い掛かっていた。
「何っ!?」
周りの車も何も関係なく、炎が左右から敬に迫っていた。
左右のそれは、壁と形容できるほどの高さを誇っていた。
二mには届かないかもしれないが敬の身長を凌駕する高さである。
挟まれたら、助かりようが無い事だけは誰にでも分かる。
肉食獣の顎のように、それは敬を噛み砕くように動いている。
タイミング的には、逃れようの無いほど絶妙な攻撃であった、仮に敬が大した覚悟もせずにこの場所にいたならば、この炎の壁に挟まれた瞬間に、一瞬どうしようか悩んでいたかもしれない、そして悩んでいたらその合間が致命的に敬の命を奪っていただろう。
だが、今の敬は悩まなかった、迷わなかった。
一瞬で判断し、そして行動していた。
(避けるにしても、真上に跳んだら、相手の思う壺――。だったら!)
敬は両足に意識を集中させ、その部分を強化させて、跳んだ。
前方に向かってである。
アスファルトが隕石でも落ちたかのように見事に陥没していた、それほどの人外の脚力が込められていた。
だが――
その敬の判断も、その動きも、最高ともいえる物であったのだが、健吾の攻撃の方が僅かに早かった。
敬は左右の炎に挟まれる事だけは回避できたのだが、その二つがぶつかった時に生じた、そう波と波がぶつかり合って高波になる時のように、炎が延びて、その炎が敬の右足を絡め取るようにして捕らえていた。
まるで一匹の紅い蛇が、巻き付くようにその炎は動いていた。
その瞬間、ごつんと、脳天まで痺れるような強烈な熱が、一瞬冷たいとすら思える熱が、敬の右足を焼いていた。
煮えたぎった油に足を突っ込んだ映像が、敬の脳裏を過ぎった、それほどの痛みが瞬間的に敬を襲っているのだ。
「ぐぅうううっ!」
敬は苦痛に呻いた。
今までの人生の中でも、トップクラスに位置するほどの感動的な痛みであった。
だが、それでも敬の動きは止まらなかった。
まだ、炎に捕らえられてはいない。
この炎は意思を持つようにして動き、細かな動作も可能であり、人の手のように相手を捕える事も可能だろう、だがまだ完全に掴まった訳ではない。
敬はまだ宙を跳んでいる、その状況で前方宙返りをするようにして、そのまま後方の健吾に向いていた。
敬の視界は天地が逆転していた。
そんな日常ではありえない体勢でありながら、敬は冷静に銃を構えて、そして引金を引いていた。
銃から発射された『弾丸』は――
なんと、軽トラックだった。
敬が先ほど、川の土手から道路に逃げた際に、抜け目無くそれを補充していたのだ。
もしやと思って銃の黒い球体を近付けたら、車を丸ごと一台、『弾丸』として、銃が認識して吸い込んだ時は多少驚いたが、使える物はなんでも使うつもりだった。
突然現れた軽トラック、それも物凄い勢いで自分に迫っているとなれば、どんな相手でも一瞬は怯む。
自殺志願者であるはずの健吾も、それには一瞬本能的に防御を取るように動いていた、顔に向かって何かが飛んできたら反射的に手が動くのと同じようにである、もっともその炎は健吾が気づいていなくても自動的に防御をしていただろうが。
かなりの効果が期待されるはずの、至近距離からの軽トラックによる攻撃だったが、それは見事に炎に防御されていた。
軽トラックは、その質量と破壊力は圧倒的だった、相手が並みの相手ならば充分に必殺の一撃となるはずのその攻撃は、炎の壁により見事に抑え込まれてしまっているのだった。
だが、敬にはそれで充分だった。
敬の目的は攻撃ではない、相手の炎による攻撃を受けてしまったから、いっその事、捨て身で至近距離から攻撃してやれば相手に通用するのではないか? という考えに基づいての攻撃ではない。
敬にとって今の攻撃は、必要な物を作り出す為の布石に過ぎない。
今の状況、片足を焼かれ、走るのはもちろん、歩行すらも困難な状況で、目的地であるガソリンスタンドまで距離があと300mほどもある状況。
今、敬に必要なのは足場であった。
敬は左足に全神経、全力を集中させた。
そして、まるで世界記録のかかった水泳選手のターンのように、空中で一回転をしてそのまま放たれた軽トラックの後部を思いっきり蹴っていた。
物凄い音が響いていた。
健吾の周りの炎は、鉄をも溶かすほどの高熱であるが、軽トラックほどの質量を一瞬で溶かしつくすほどではない、しかも防御の為に弾くのではなく、受け止める形で止まっているので、足場としてはこの上ないほど安定していた。
敬の左足は、大の大人の胴回り以上の太さへと変化をし、蹴った瞬間にトラックはまるで空き缶を真上から踏みつけたようにその形を歪めていた。
ロケットのように、敬は、ほぼ水平に、そして最短距離でガソリンスタンドに向けて跳んでいた。
全身を襲う抵抗が凄まじかった、敬は呼吸すらも我慢して、その爆発的な推進力を受け入れた、まるで自分の体がF1のフォーミュラカーに変わってしまったかのような抵抗であり、それは決して誇張ではなかった、実際にそのくらいの勢いは付いていたはずである。
「くっ!」
その物凄い勢いのまま、敬はガソリンスタンドの奥の事務所のような場所に突っ込んでいた。
最終的に止まったのがその事務所というだけで、途中何回も体を色々な場所にぶつけていた、車にガソリンを注入する給油ノズルの部分や、停車している車。
両腕に意識を集中させて強化して、それで防御していなければ、それだけでガラスで体のどこかを切ってしまうか、あるいはその勢いを殺しきれずに骨が何本か折れていてもおかしくなかった。
だが、打撲と僅かな脳震盪は起こしているかもしれないが、それ以外はほとんど無傷である、右足を除いては。
右足は正視するのが憚られるほどの有様になっている、たぶん微風でも発狂しかねないほどの痛みを感じるだろう、今はむしろ痛みを痛覚が振り切ってしまっている状況で、痛い事は痛いがどこか麻痺しているような感触であるが、これが時間を置くか、あるいは更に衝撃を加えると、もういっその事斬り落としたいほどの痛みへと変わるだろう。
だが、とりあえず、目的地には到達できた、という思いが敬にはある。
それなりの代償は払ったが、これで後は考えた作戦が上手く行けばどうにか勝利を掴めるだろう、敬はそう思っている。
そんな、敬の思惑通りなのか、先ほどガソリンスタンドに突っ込む途中で、敬が体をぶつけた給油ノズル、あれはちょうど車にガソリンを入れている最中だったらしく、敬が触れた事により、その液体、つまりガソリンが床にビチャビチャと流れ出していた。
独特な、鼻を突く臭気が辺りに充満していた。
ガソリンの給油ノズルは、一定の量を入れると自動的に止まるようになっている。
満量停止装置と言う物が付いているからだ、だが、それが無いこの状況では際限無くガソリンが溢れて、有りっ丈その場所に流れ出てしまう事になる。
慌ててそれを止めるような人間もここにはいない。
敬もようやく、その状況に気が付いていた。
(や……、やばい……、狙い通りなんだけど、ちょっと早過ぎる! この距離で引火したらこっちまで――)
敬の狙いその物は、ガソリンスタンドの可燃物を利用しての策であるのだが、今の不可抗力で体がぶつかった事によりガソリンがそこら中に溢れてしまっている状況は、望むべくして展開しているものではないようだった。
もし、この状況で火などが放たれたら――
大した想像力を働かせなくとも、どういう光景がそこに広がるかは分かる。
敬は、痛む足を引き摺りながら、その場所から逃れようと動いていた。
だが、そういう敬の焦りを微塵も知らずに、健吾は燃え盛る火球のように、ガソリンが撒かれている場所に一切の躊躇も無く突っ込んで来ている。
数秒後。
そこに広がっている光景は、大惨事としか形容の出来ない物であった。
都会と呼んでもどこからも文句の出ない場所で、そのようなどこかの戦地でしかお目にかかれないような爆炎が舞い上がっているのは、どこかシュールな光景であった。
それに巻き込まれたら、命は助からないと断言出来るほどの熱がその周囲を覆っていた。
最初からそこに有った物で、形状を保っている物はほとんど無かった。
家も、車も、人も、根こそぎ吹っ飛んでいた。
通常ならば、これほどの爆発は発生しないのかもしれない。
大量のガソリンという可燃物に、健吾の炎が触れた事により、通常の炎が引火した時よりも劇的な反応を示した結果という可能性も有る。
だが、不思議な事に、全てを吹っ飛ばした、その大惨事の中心では、紅く、太い、巨大な竜巻のような物が発生していた。
自然現象では決して発生しないはずの、天空に伸びる紅い竜巻が。
二人の戦いは、いよいよ最終局面に突入し、そして終局を迎えつつあった。




