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      死神

 その川は、普段は穏やか極まる姿を見せている。


 土日祝日は家族でボートに乗ったり、川のほとりでピクニックやバーベキューのような物をやっている事も多い。

 魚を釣る者もいれば、鳥や風景の写真を撮る者もいる。

 時には海からアゴヒゲアザラシが現れて、野次馬がうるさいほど集まる時も有れば、花火大会の時には川にかかる橋に大勢の見物客が集まる時も有る。

 ご多分に漏れずそこに住む人もいれば、朝には太極拳とか健康体操をしている人もいるし、早朝の散歩を楽しむカップルもいる。

 台風の時などで、大雨により川が増水して、このままじゃ溢れるんじゃないかと思えるほどの時もたまにだが有るが、それ以外はいたって平穏で、ごく当たり前の普通の川である。

 平日だろうと休日だろうと関係なく、そこに訪れる者に分け隔てなく落ち着きを与えるような、そんな川だ。


 しかし。

 今、この光景を見ている山南敬やまなみたかしは、とてもじゃないが落ち着いて眺めている余裕など無かった。

 何故なら、川は今や燃えているように赤々と照らされており、その炎を掻い潜ってどうにかして一撃を撃ち込まないと元の世界に戻れないからだ。

 まるでタンカーか何かが座礁して流れ出た重油に引火してしまったかのように、川自体が燃え盛っているようにすら見えるのだ。

 その中心にいながらまったくの無傷の男――高梨健吾たかなしけんごは、自分の命を奪って欲しいと敬に対して何度も言っているのだが、未だにその望みが果たされる気配は無い。

 まるで喉に刺さった魚の小骨が、いつまでも取れずにチクチクと痛み続けて苛立っているような表情に見えた。

 どうして、殺してくれないのか。

 健吾が思うのはそれだけである、他の全ての思考はもうどこか遠い場所に行ってしまっているようだった。

 これだけ必至に自分が頼んで、しかも無抵抗に近寄るだけなのに、どうして殺してくれないのか?

 嫌がらせなのか?

 こんなにも辛くて、こんなにも苦しくて、こんなにも頼んでいるというのにどうして。

 段々と苛立ちが募ってきた。

 周囲の炎がその感情に呼応するように、さきほどまではただ静かに健吾の周りにあり、攻撃してきた相手に自動的に反撃するだけだったそれらが、今では敵意と殺意を兼ね備えた凶悪な武器へと変貌しつつあるようだった。

 前の時もそうだった。

 健吾は少し前の事を思い出していた。


                      ・


 前回このような戦いに巻き込まれた時。

 確か、どこかの公園のベンチに、今回の時のように死んだような眼をして座っていたのだ。

 周りの全ての音が消え、通行人が冗談のように静止しているのを見て、最初こそ僅かに戸惑ったが、「あぁとうとう自分は狂ってしまったんだ」としか思えなかった。

 妙に醒めた気分だった。

 携帯電話が鳴っても、それに出る気すら起きなかった、携帯電話は健吾が無視し続けていたらいつの間にか音が止んでいた。

 健吾はそれでも座ったまま微動だにせずにいたら、全ての物が静止している中、一人の大柄の男が近寄ってきたのだ。

 彼もこの異常な状況に困惑している様子だったが、その様子を健吾はただ静かに見ていた、そして理解していた。

 困惑こそしているが、彼は自分を殺してくれる。

 そういう実感があった。

 この男が、自分の命を奪いに来た死神なのだ、ふとそんな風な考えを健吾は抱いていた。

 巧妙に隠しているつもりなのかもしれないが、何かを隠し持っているのが分かる、そしてそれを使って自分を殺してくれるだろうと健吾は全てを理解していた、だから無抵抗のまま待っていた。

 自分で命を絶つ事は出来ないが、誰かが自分を殺そう襲い掛かってきたらそれを跳ね除けるだけの理由が健吾には見当たらなかった。

 その男は、会話のきっかけというか、こちらの隙を誘うというか、そのような口調で煙草を取り出して、健吾に火を貸してくれないかと言ってきた。

 健吾は煙草を吸う習慣は無いが、咄嗟に上着を探ったら何故かそこにはライターが入っていた。

 一体どこで入ったのだろうと思いながらも、相手の煙草に火を付けてやった。

 その時だった。

 火を付けた瞬間、健吾は丁寧に両手で、男の指の間に挟んだ煙草に火を付けてやっていたので、両手が塞がれている状況だった。

 健吾は煙草を吸った事が無いから、そのおかしい事に気が付かなかった。

 煙草はただ火を近づけただけではなく、銜えていて息を吸い込みながらではないと火が付き難いのだ、それに礼儀としても相手に火を借りる身分でありながら、指に挟んだだけの煙草に火をつけてもらうことなど普通は無い。

 明らかに何かを狙っての行動だった。

 だが、それでも健吾はわざと、と思えるほどに無防備に火を付けていた。

 その隙を待っていたとばかりに男は動いていた。


 隠し持っていた武器で(健吾にはそれがハサミのように見えた)、健吾を攻撃しようとしていたのだ。

 健吾は全てを理解しながら、あえて無抵抗でその攻撃を受けるつもりだった。

 相手の武器が吸い込まれるように健吾の首筋に突き刺さろうとしていた。

(ああ――、これでそっちに行けるよ……、母さん……)

 健吾はそのような事を考えていた。

 だが。

 健吾の望みは果たされなかった。

 次の瞬間、健吾が見たのは、男の煙草に火を付けようとしたライターの炎が、まるでそれ自体が生き物のように急激に燃え上がり、そして男に襲い掛かり、男の顔面を覆い尽くしている光景だった。

 絶叫が上がっていた。

 当たり前だ、骨まで焼けるような痛みを味わって、無言で堪えられる人間などはいない、絶叫する事であえてその痛みを紛らわせる作用も有る。

 しかし、そういう次元の問題でもなかった。

 まるで炎で出来た仮面を被せられたように、男は必死にその炎を消そうと努力していたが、まるで消えない、そしてその後十秒と経たずに男は前のめりに地面に崩れ落ちていた、そして地面でのた打ち回りながら、いつしかその動きは止まっていた。

 男は顔面を骨が見えるほど焼き尽くされ、絶命していた。

 肉を焦がす嫌な臭いが辺りに漂っていた。

 健吾には何がなにやら分からなかった。

 何故、自分の望みが叶わなかったのか、それが理解できなかった。

 そして気が付いたら元の公園のベンチに腰をかけていた。

 どこか遠くから悲鳴が聞こえたような気がしたが、全てが、そう、自分自身も含めて全てが遠い世界の出来事のように思えた。

 健吾は命が助かったというのに、まるで世界の全てから見放されたような表情で、絶望の雨に全身をびしょ濡れにしているような、そんな雰囲気を漂わせていた。


 それから数日間、時折用を足しに行ったり、食欲なんてほとんど無いので詰め込むようにして食事する時と、後は眠る時以外はほとんどその公園でただ呆然と過ごしていたのだが。

 その公園は午前中は近所の主婦達が、小さい子供を連れて遊びに来たり、また午後は学校が終わった小学生が遊んでいたりして、とりあえず何もしていないがぼぉーっとしているだけの健吾は不審者扱いされていた。

 しばらくは何も言われなかったのだが、巡回中の警察官に職務質問されたりするのが鬱陶しく、何の非も無いが、無職で昼間から公園で過ごしていると近くの子供達にも不安を与えると言う事で、別の場所に移動する事にした。

 それが、さっきまで座っていた河川敷のブランコなのだった。

 そこでひたすら機会を待っていた。

 予感は有った。

 何者かが自分の命を奪いに来てくれるのではないかという、日常生活では逃避思考に他ならないが実感として感じられる予感が。

 そして、予感は的中して、目の前に死神が現れたのだ。

 母親が死んでから、健吾は常に付き纏うような罪悪感にさいなまれていた。

 何者かが、決定的な悪である自分を裁きに来てくれる、そのような幻想を抱くようになっていたのだ、だからそれが来るのをただひたすらに待つようになったのだ。

 だが――

 目の前に現れた死神は、自分を殺すには足りなかった。

 何度も懇願しているというのに、自分の命を奪おうとしてくれなかった。

 憤りが胸を焼いた。

 健吾は自分の感情が制御できなくなっていた、まさに怒り狂った時、胸の中で消せない業火が荒れ狂っているように、健吾の感情自体も燃え広がっていた。

 

 健吾の周囲を取り巻く炎。

 これの燃料は、周囲の酸素でもなく、また他の物質的な物でもない。

 健吾の感情を源にして燃え盛っている。

 どちらかというと負の感情を餌にして育つ炎のバケモノという印象が強い。

 今、その炎が燃料としている物は、健吾の心の中の罪悪感やら自己嫌悪、また自分の命を奪ってくれない敬に対する憎悪である。

 だが、基本は慙愧ざんきの念、つまり自分自身の存在に対する恥ずかしさを元にしている。

 その、言わば『慙愧ざんきの炎』は、どれだけ燃え盛っても健吾自身を燃やしたり傷つけたりはしない、自動的に敵の攻撃を防ぎ、そして自動的に攻撃してきた敵を排除する、もちろん健吾の自在に操作も出来る、そんな攻守共に優れた武器ではあるが、健吾の願望を考えると健吾の理想からはかけ離れた武器で有るのは間違いなかった。

 健吾は、心の中で死にたいと思いながら、もう一つの感情が湧いていた。

(こいつは……、駄目だ……)

 敬に対する決定的な、そう、まるで上司が無能な部下に対して抱く感情のような物を健吾は感じていた。

 この死神は駄目だ。

 健吾の中で、この異常な空間は自分を殺す為に死神が襲ってくる場が用意されたものだと考えている、だから、この前の男も死神で、今目の前にいる男も死神だ、と健吾は考えている。

 だが、前の奴も、山南敬こいつも、弱すぎて自分を殺してくれない、絶望的な気分を味わっていた。

 だから、こいつはもう殺してしまおう、そのような思考が健吾に浮かんでいた。

 この死神を殺せば、また次の死神がやってくるだろう、より強い死神が自分を殺す為に、もしかしたら存在していた痕跡すらも残さずに一瞬で殺してくれるかもしれない、そういう奇妙な期待を健吾は抱いていた。

 その為にはこいつをさっさと殺してしまうしかない――健吾は真剣にそう考えた。

 健吾は動いていた。

 もうその口は「殺してくれ」とは言わない、頼む必要はもう無いのだ。

 こんな弱い奴に頼む事なんて、もう何一つ無い。

 健吾は敬の命を奪う為に、先ほどとは比べ物にならないほど活発な動きで襲い掛かっていた。



 敬はその殺気を全身で味わっていた。

 逃げるしかなかった。

 迎え撃つ策は、今の所は無い。

 有ったとしても、それを真正面から使うつもりは無い、戦力差が有る相手に真っ向勝負を挑むのは勇敢ではなくただの無鉄砲な愚行に過ぎないのだ。

 どうすればこいつを倒せるか、今現在の対抗策こそ無いが、一応計画は少しだが考えてある。

 しかし、それの成功率を考えると気が遠くなりそうだった。

 とりあえずは逃げて、そして探さなければならない、探して”それ”を見つけられれば、あるいは勝機があるかもしれないが、”それ”を見つけられなければ、消し炭のようになってしまうだけだ。

 とりあえず逃げるとは言ったが、この場から逃げられるかどうかすらも怪しい。

 先ほどの怪物的な脚力を自在に使えれば良いのだが、その感覚が未だに掴めない、咄嗟に動こうとすれば発動するのものなのか、あるいは本当に死にかけなければ発動してくれないのか、どちらにせよはっきりと分かっていないと使い辛くて仕方が無い。

 

 産毛が焼けるような感覚を敬は味わっていた。

 もうかなりの距離まで、炎の怪物と化した健吾が接近しているのだ。

 そして、まるでその炎の塊が手を伸ばすように、先ほどの触手の五倍ほどの太さの炎が敬に向かって伸びていた。

 それも恐ろしい速さで。

「ちぃっ!」

 転がりながらそれを避けた。

 しかし、その炎は地面にぶつかりながらも、そこで留まらずにまだ生き物のようにうねっている、まるで一匹の巨大な大蛇のように。

 地面の雑草が焼き払われていた。

 その炎は執拗に、避けた敬をなおも追撃したが、敬はそれもかわしていた。

 異様な炎ではある、だが、避けられる。

 まだ体の一部が先ほどのように変形していなくても、日常生活とは比べ物にならない身体能力が発揮出来るようなので、恐怖は感じるが、避けられない攻撃ではなかった。

 かなり動いたが、まだ息を切らしてもいない。

 むしろこういう攻撃よりも、本体が直接近寄ってくる方が脅威だと、敬は考えていた。

 だが。

 敬はその炎ばかりに気を取られすぎていた。

 炎が自分を狙っていると勘違いしていたのだ。

 その炎の標的は敬本人ではなかった、広がる炎の一部がまるで細い糸のように伸び、そしてそれの目指す先には、野球でもやるのだろうか、あるいはゴルフ? 用途こそ分からないがそこには一台のワゴン車が止まっているのだ。

 炎はそれに向かって一直線に伸びていた。


 敬が、それに気が付いた時にはやや遅かった。

 炎の射線上から逃れた事で、ほんの少し、髪の毛一本分程度の気を緩めてしまっていたのだ、無理も無い、敵の攻撃を逃れても、視線自体は本体である健吾に向けられているので、まさか炎の一部がワゴン車を目指しているとは想像も出来なかった。

 それでもそれに気が付けたのは、敬の動物的な勘とでも説明が付くのだろうか、いや、敬の発達した聴覚が、ワゴン車の燃料タンクに燃え移る際の音を聞いたのか、それとも嗅覚がその燃える寸前の臭いを察知したのか。

 少なくとも、敬はそれに気が付けたのは幸いだったのかもしれない。

 しかし、もう既に燃料タンクに入っているガソリンに引火して――

「なっ!?」

 次の瞬間。 

 敬は衝撃を全身で味わった。

 焼け付くような熱風が、敬の体を余す所無く叩いていた。 

 

 敬は、吹っ飛ばされていた。


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